宿坊の掲示板
★★師弟不二ARCHIVE★★
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[13074]

題名:池田先生指導

名前:FT

◇S3OiZExQd2
MAIL 投稿日: 2025/05/26(月) 13:19 p027.net182021176.tokai.or.jp (182.21.176.27)

兄弟抄

      第十二章 三障四魔出来の原理を明かす

本文(御書全集一〇八七㌻一〇行~一〇八八㌻六行)
 されば天台大師の摩訶止観と申す文(ふみ)は天台一期の大事・一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡って五百余年・南北の十師・智は日月に斉(ひとし)く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあき(明)らめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普(あまね)く与へ給へり、此の法門は漢土に始るのみならず月氏の論師までも明(あか)し給はぬ事なり、然れば章安大師の釈に云く「止観の明静(みょうじょう)なる前代に未だ聞かず」云云、又云く「天竺の大論尚(なお)其の類(たぐい)に非ず」等云云、其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし。
 此の法門を申すには必ず魔出来(しゅったい)すべし魔競(きそ)はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然(ふんぜん)として競い起る乃至随う可(べか)らず畏(おそ)る可らず之に随えば将(まさ)に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨(さまた)ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。
 此の釈に三障と申すは煩悩障・業障(ごうしょう)・報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡(とんじんち)等によりて障礙(しょうげ)出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是(か)くの如し今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競(きそ)へる人あるや、之に随えば将に人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とか(書)けり、されば法華経を除きて華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等なり、天台宗を除きて余の七宗の人人は人を悪道に向わしむる獄卒なり、天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒なり。
それ故、天台大師の摩訶止観という書は、天台大師一生の大事、釈尊一代聖教の肝心を述べたものである。仏法が漢土に渡って五百余年、当時の南三北七の十師達は、智は日月に等しくたとえられ、徳は四海に響いていたけれども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第について迷っていたのを、天台智者大師が五時八教の判釈をもってふたたび仏教を明確にされたばかりでなく、妙法蓮華経の五字の蔵の中から、一念三千の如意宝珠を取り出して、インド・中国・日本の一切衆生に広く与えられたのである。この天台の法門は、漢土に始まるばかりでなく、インドの論師さえ明かさなかったことである。それ故、章安大師は止観を釈していうには「摩訶止観ほど明らかで誤りのない法門は、前代にいまだ聞いたことがない」、また「インドの大論も、なおその比較の対象にならない」等といっている。そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。
 故に、この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻には「仏法を持ち、行解(ぎょうげ)が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる。(中略)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮の身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧(かて)とすべきである。
この釈に三障というのは、煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、おのおのの生命にある貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)等によって、仏道修行の障礙(しょうげ)があらわれるのである。業障というのは、妻や子等が仏道の障礙とあらわれることである。報障というのは、国王や父母等が障礙とあらわれるのである。また、四魔のなかで、天子魔というのもこの報障と同様である。今、日本国には、われも止観を体得した、われも止観体得したという人々のうち、誰に一体三障四魔が競い起こっているであろうか。止観のなかに、「三障四魔に随うならば、まさに人を悪道に向かわせる」というのは、ただ三悪道ばかりではなく、人界・天界、そして九界を皆悪道と書かれているのである。それ故、法華経を除いて、華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等は皆、人を悪道に向かわせる法である。天台宗を除いて、ほかの七宗の人々は人を悪道に向かわす獄卒である。だが天台宗の人人の中にも法華経を信ずるようでいて実際は人を爾前の教えへ向かわせる者は人を悪道に行かせる獄卒である。
三障・四魔
仏道修行を妨げ善心を害する三種の障(さわ)りと四種の魔のこと。三障は①煩悩障(貪瞋癡(とんじんち)等の惑によって起こる障)、②業障(五逆・十悪等によって起こる。また妻子等によって起こる障)、③報障(三悪道・謗法・一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国王や父母、権力者からの障礙)である。四魔は①煩悩魔(貪瞋癡等の惑によって起こる魔)、②陰魔(おんま)(衆生は五陰の仮和合(けわごう)したものであるからつねに苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とする)、③死魔(死の苦悩で、死がよく命根を断つので魔という)、④天子魔(他化自在天子魔の略称。他化自在天王がよく人の善事・善行を害すること。権力者による迫害等がこれにあたる)である。
本章は、仏道修行の根本指針を示された段であり、この「兄弟抄」の中でも、とくに重要な中核をなす部分である。一往、天台仏法に例を借りて説かれているが、末法の未来が正意であられたことは「門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」との仰せによっても疑う余地がない。
天台大師は、五時八教の教判を明らかにして、釈尊一代仏教の中で、法華経が最第一であることを宣揚(せんよう)した。これによって、当時、中国にはびこり、おのおの勝手な義を唱えていた南三北七の各流派は、ことごとくその立義を打ち破られたのである。
さらに、天台大師は、この釈迦一代仏教の肝心たる法華経の中から、百界千如・一念三千の法門を取り出し、像法の時にかなった修行として、一心三観・一念三千の観念観法を打ち立てた。天台大師が、薬王の再誕といわれ、像法の正師、小釈迦と称えられるのは、まさに、この一念三千の法門ゆえである。
客観的にみても、生命について、これほど厳密に、鋭く、深く分析し、その相貌を明らかにし、しかして壮大な理論体系を打ち立てたものは、他に例がない。
だが、天台の一念三千といっても、あくまでも、それは観念観法によって己心に描くのである。その一念三千の相貌は、末法に入って、日蓮大聖人が御出現になることにより、はじめて樹立されるのである。
観心本尊抄にいわく「一念三千を識(し)らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹(つつ)み末代幼稚の頚(くび)に懸けさしめ給う」(二五四㌻)と。ここに「仏」とは末法の御本仏たる日蓮大聖人御自身であり、「五字」とは三大秘法の御本尊である。
したがって「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競(きそ)はずば正法と知るべからず」と仰せの「此の法門」とは、事の一念三千たる三大秘法の大白法をさす。事実、天台大師自身も、天台の正義を受けついだ妙楽や伝教等も、三障四魔を身に受けてはいない。まさに、三障四魔紛然の天台の言葉を、事実の上に読まれたのは、日蓮大聖人にほかならないのである。
 いま本文に「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」と申されているのもこのことを述べられているのである。師たる日蓮大聖人の御生涯が三障四魔との激闘の連続であったように、大聖人の弟子として、末法の大仏法を受持した門家一同も、また、三障四魔との戦いの人生であることは、当然、覚悟の上でなくてはなるまい。




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