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池田先生指導です。
寿量品では「久遠の仏」が説かれる。
その仏とは、だれのことか。
前にも語ったが、大聖人は「我実成仏己来、無量無辺百千万億那由佗劫(我実に成仏してより己来このかた、無量無辺百千万億那由佗劫なり)」の「我」とは「法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり」と仰せだ。
寿量品の「久遠の仏」とは
一切衆生のことなのです。
私どものことです。
凡夫は凡夫のままで仏なのです。
命に差別はない。
平等です。
平等に仏です。
違うのは、
それを自覚しているか否か、
その「心」の違いだけです。
三十二相八十種好で
身を飾るのが仏なのではない。
我が生命そのものが本来、仏です。
宇宙そのものが本来、仏なのです。
太陽が出るのも慈悲。
月が照らすのも慈悲。
緑の木々が美しく呼吸しているのも慈悲です。
宇宙全体が無始無終にわたって
慈悲の活動を続ける大生命体なのです。
その大生命を久遠の仏という。
そして、十界の誰の生命も、
この寿量品の仏と一体なのです。
その本来の生命に帰るカギが信心です。
全宇宙が自分の銀行口座のようなものだ(笑い)。「信心」次第で、いくらでも宝が引き出せるのです。
そして「信心」とは「魔と戦う」こと以外にはない。正義とは、悪と戦うことであり、仏法とは難と戦うことです。
ある時、四条金吾が度重なる苦難に、思わず弱音を吐いた。「法華経を信ずる者は現世安穏のはずであったが……」と。それを伝え聞いた大聖人は、こう指導されている。
「松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる(中略)法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし」
松が風雪に耐えて「万年の寿命」を証明するように、法華経の行者は、難に耐えることによって、「永遠の生命をもつ仏」という本地を現わす。今こそ、尊極の「仏界」を現わす時である。
最高の功徳が出る時なのに、何を弱音を吐くことがあろうかと、励ましておられる。
受持です。「自分には広宣流布の使命があるんだ」と信じ、妙法を受持しきって生き抜くのです。