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大聖人は仰せになられた。
「 目連ほどの聖者であっても、母を救えなかったのは、
低次元の教えに執着していたからである。
その目連が法華経に帰依し、妙法を唱え、自ら成仏したときに、
初めて父母もまた成仏することができた 。」 (同1429ページ、趣意)。
「自身が仏に成らなくては、父母さえ救うことは難しい。
ましてや、他人を救うことなどできない」(同ページ、通解)
私たちが題目を唱え、題目を広めることに勝る 追善供養は、絶対にない。
戸田先生は、痛快に言い放たれていた。
「仏法を売る者を、禿人という。世の中で一番悪い害虫は坊主(色淫患部)ではないか」
仏法は、恩が根本である。恩を忘れた人間が、真に人間らしく生きることはできない。
また、恩や信義を忘れ果てた社会は、絶対に幸福な社会にならない。
仏法者の眼から見れば、恩というものを知らないがゆえに、
どれほど多くの戦争が起こっていることか。
恩知らずの振る舞いが、結果的に悲惨な争いを引き起こす。
恩を知る。そして恩を報ずる ── この知恩・報恩の道こそ、幸福の道である。
平和の道である。
ゆえに、恩を忘れ、人間社会を乱す「不知恩の輩」とは、
人間として、仏法者として、決然と戦わなければならないのである。
学会の大恩を受けながら、自分や一族のみの名聞名利しか考えず、
悪辣に私腹を肥やし、恩返しをしようともしない。
そういう人間は、厳粛な仏法の鏡に照らせば、ことごとく、欲深き食法餓鬼であり、
法盗人なのである。
狡猾に立ち回って、かりに世間の法や国法の追及を免れたとしても、
厳しき生命の因果は、絶対に逃れることはできない。
仏法の世界は、あまりにも厳正であり、峻厳である。
戸田先生は、訴えられた。
「もっともけしからんものがある。それは、学会を喰い物にする者である」
永遠に忘れてはならない、恩師の遺言である。
万が一にも、そうした悪党をのさばらせてしまえば、
清浄無比なる学会の和合僧が毒され、撹乱されてしまう。
ゆえに、鋭く見破り、責め抜いていかねばならない。
ともあれ、これからは、今まで以上に、「権力のための宗教利用」の蠢動を厳格に見破る、
「民衆の力」「民衆の智慧」が求められる時代となっていく。