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なぜ、堕落が始まり、腐敗していくのか……。
それは広宣流布という至上の目的に生きることを忘れているからなのだ。
この一点が狂えば、すべてが狂ってしまう。
残念なことだが……広宣流布を口にしながらも、
多くの僧侶(宗教屋)が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。
……つまり、欲望の虜(とりこ)となり、畜生の心に堕(だ)してしまっているのだ。
大聖人の仏法は、外敵によってではなく、
臆病(おくびょう)で、姑息(こそく)な、僧侶(インチキ)の保身によって滅ぼされようとしたのだ。
宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。
あの五老僧も、大聖人が生きておられる間は、まだ良かった。
しかし、厳しい師匠の目が無くなったとたんに、だめになった。
五老僧は一致団結して迫害と戦うどころか、
「天台沙門」(天台宗の僧侶)と名乗って迫害を避けた。
当時の権威であった天台宗の″権威の屋根″のなかに逃げ込んだのである。
そうやって、身は守ったが、大聖人の正義を地に落としてしまった。
師匠が見ている時は、だれでも頑張る。
師匠の目から離れた時にこそ、どう振る舞うか。
そこに″本物″と″にせもの″の違いが出る。
師匠が見ていようがいまいが、
自分自身の信念で、師匠の恩を報じきっていくのが、本当の弟子である。
心が師匠と″分離″しては、おしまいである。
何をしても空転であり、何の価値も生まない。
結局、わがままになり、堕ちていってしまう。
1998年10月24日 日米各部協議会(抜粋)
先生は、青年を、こよなく愛された。
とくに晩年は、″もう青年しかない。青年しか信頼できない。青年が後を継ぐのだ。
青年が伸び、青年が増えれば、学会は大きくなり、
広宣流布はもっと早く進んでいく″というお心であられた。
私も今、戸田先生とまったく同じ気持ちである。
広宣流布に生き抜くことが最高に「名をあげる」ことである。
広宣流布の人生こそ、最も偉大な人生なのである。
それが大聖人の御確信であられた。
青年部の皆さんは、この一点を生涯、忘れないでいただきたい。
社会的地位とか肩書は関係ない。
どこまでも信心が根本であり、人間としての力がどうかである。
2005年7月本部幹部会(抜粋)