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仏法の化導は、元初の昔より 衆生の生命に内在する 尊き仏界の輝きを
内から薫発せしめ、自ら悟らしめるための化導です。
幸不幸の 根本の鍵である 信仰において、いかなる師に 化導されるかが、
その人の人生にあたって 決定的な意味をもつことは いうまでもない。
御本仏たる大聖人に化導を受け、
その本眷族として 自体を顕照できる 私たちの福運を 喜ぶべきです。
法華経に説かれた 種・熟・脱の法門も、
迹門、本門、文底と立て分けることが 肝要であります。
法華経の文上の説法は、釈迦が 過去においてすでに 下種していた仏種を、
熟し脱せしめるために 説かれた法門であるといっても 過言ではありません。
化導される側の衆生もまた、釈迦有縁の衆生であり、
このような機根の衆生を指して 本已有善の衆生と 称するのです。
末法という時代は、釈迦とは無縁の衆生、本末有善の 衆生のみが 出現して、
五濁悪世の時代を形成しているというのが、大聖人の捉え方であり、
また、仏法の眼からみた 時代相の深い洞察であったのです。
本末有善の衆生に対する化導こそは、
久遠元初の自受用報身如来による下種によらなければならない。
その種子の本体は、寿量文底・三大秘法の南無妙法蓮華経なのであります。
一生のあいだに種・熟・脱のすべての過程が一挙に具わるのです。
これが、文底仏法における種・熟・脱の法門であります。