[12219] 題名:勝他の念
名前:FT
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投稿日:
2025/02/20(木) 21:18
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増上慢の生命は、十界で言えば、「修羅界」に当たる。勝他の念である。″どうしても他人に勝ちたい″″相手を見くだしたい″という、ゆがんだ心である。
修羅界について、天台は『摩訶止観』で次のように言っている。
「つねに他人に勝つことを願い、その心を抑えきれず、人を見くだし、他人を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろす姿のようである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を掲げて、(表面的で、自己満足の)低級な善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(御書430㌻、通解)と。
増上慢の人間は、「人に勝つ」欲望に支配されている。「自分に勝つ」ための精神闘争がない。ゆえに自分の境涯の向上はない。策動すればするほど、自分自身が転落していく。
彼らは、嘘をつき通したり、自分を飾って宣伝したり、法華経の行者を迫害するために策略を練ったりと、悪事に忙しい。大変なエネルギーを使っている。
しかし、それらは結局、不毛である。自身の境涯の変革もなく、人を傷つけ、自らも地獄界に堕ちていく。
彼らにたぶらかされた者も、ともに地獄界へと堕ちていく。こんな悪人に、絶対に、だまされてはならない。たぶらかされてはならない。
増上慢の本性は「臆病」である。彼らは慢心しているゆえに、自分を大きく感じる。
修羅の姿は「身長みのたけ八万四千由旬・四大海の水も膝を超えない」とされる。
しかし、修羅は、自分の実力が及びもつかない偉大な帝釈と戦った時、とても敵わないので、池の蓮の穴に逃げ込むほど小さな身となった。この「小さな身」が、修羅の正体である。
大聖人は「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」おごれる者は、強敵に会うと必ず恐れると仰せである。
増上慢の人間は、″本物″である法華経の行者が現れると、自分の本性が、あぶりだされてしまうことを怯える。聖者とか人格者とか信仰者という仮面を、はぎとられてしまう恐怖に、身ぶるいする。
そこで、法華経の行者を逆恨みして、なきものにしようとするのである。今の世も、こういう人間に満ちている。しかし最後は必ず正義が勝つ。大聖人は断言されている。
「末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
法華経の行者を軽んじ、広宣流布を破壊しようとする増上慢の悪人は必ず滅びる、との高らかな御宣言である。
正義の勝利。それを勝ちとるのは、「師子王の心」である。「師子王の心」で戦う人間だけが「仏」になれる。そうでなければ、どんなに長く信心しても、「仏」にはなれない。
大聖人は、仏になる人は「爪上の土」(小さく、すべりやすい爪の上に載る土のように少ない)と述べられている。