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[12212]

題名:先生指導(抜粋)です。

名前:末端信者

◇WUCczklCw6
MAIL 投稿日: 2025/02/19(水) 16:30 219.109.62.50.user.e-catv.ne.jp (219.109.62.50)

良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は祈祷の7日延長を申し入れて祈りましたが、

それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。

良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。

しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。

大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、

11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。

大聖人は、厳寒の気候に加えて、衣類や食料も乏しい中、

佐渡の念仏者などから命を狙われるという厳しい状況に置かれたのです。

翌・文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく北陸・信越などから諸宗の僧ら数百人が集まり、

大聖人を亡きものにしようとしました。本間重連に制止され、法論で対決することになりました。

大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました(塚原問答)。

「日本の柱」である日蓮大聖人を倒さんとし、「日本の魂」である大聖人を亡き者にしようとした権力者。

その張本人が、平左衛門尉である。

この極悪の権力者の末路はどうであったか?

これまでも何回もスピーチしてきたが、日本の現状と将来を厳しく見ていくうえで、もう一度、確認しておきたい。

平左衛門尉頼綱といえば、軍事、警察、政務の絶大な権限を一手に集めていた。

実質的に幕府を動かし、恐怖政治をしいた強大な権力者であった。

しかし、その最後は、あまりにもあっけなく滅び去った。

熱原の法難から十四年後の永仁元年(一二九三年)四月。

平左衛門尉は、なんと自分の長男・宗綱によって、「幕府反逆の陰謀」を密告された。

長男が親を密告した裏には、醜い権力闘争があったようだ。

平左衛門尉の屋敷は、幕府の軍勢に囲まれ、全滅した。

それは、あの熱原の三烈士を拷問し、処刑した同じ屋敷であった。

平左衛門尉は、もがき苦しみながら、ついに、次男・資宗とともに、哀れな姿で死んでいったのである。

この次男は、熱原の農民に対して、矢を放って脅し、いじめ抜いた人間である。彼の最後は地獄の苦しみであった。

また、権力に群がって栄華を誇った一族郎党も、同時に滅び去った。

さらには、父を密告した長男も、佐渡に流罪になった。その後、子孫は、跡形もなく滅んだのである。

生命の因果律は厳しい。

日興上人は、平左衛門尉の一族の滅亡について、「これ(是)ただ(但)事にあらず、法華の現罰を蒙れり」

(富要九巻)と、仏法の峻厳さを記されている。




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