宿坊の掲示板
★★師弟不二ARCHIVE★★
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[12182]

題名:末端信者さんへ

名前:霞ヶ関リークス

◇5WBnmh.AZo
MAIL 投稿日: 2025/02/13(木) 21:39 2001:ac8:88:2000:8e28:d35d:e7ba:7e0c(IPv6:) (2001:ac8:88:2000:8e28:d35d:e7ba:7e0c)

[12124]
>しかし彼らは大聖人の御遺誡に背いて、後継の正師・日興上人から離れてし
まった。

<<池田 : 大聖人の御入滅後には、血脈相承を受けられた第二祖日興上人に
違背し、大聖人の正義から離れてしまった。
怨妹のためか、臆病のゆえか、あるいは大聖人の仏法の深義が理解できなかっ
たゆえか、日興上人以外の五老僧は退転してしまったのである。>>


聖人が六老僧を選定されたのは、正しく聖人の仏法を継承して行ける僧侶だ
と判断され選定されたのであって、興師を除く五老僧は、蓮祖滅後に起こった
幕府からの弾圧から教団を守るために幕府に屈したのである。

おバカの歴史的経緯を無視した我見の回答は、日蓮聖人を愚弄する回答である
と断じておく。

鎌倉の門下が反対勢力として対峙していたのは、真言律宗や念仏宗・禅宗でし
たから、世間一般の見方通り、天台宗の中の日蓮として“天台沙門”と公称し
たのは自然であると理解できます。

さて、日興の場合ですが、日蓮在世から滅後の前後における駿河での弘教にお
いて、鎌倉の門弟と異なり、実相寺・四十九院・龍泉寺といった天台宗系の寺
院だったことだと思います。

日興が孤立の道を択び、天台宗から独立した日蓮としての歩みを踏み出しはじ
めたのは、日興自身、所属していた天台寺院から擯出処分を受け、もはや“天
台沙門”を公称できない立場、私度僧にあったがゆえであったためではないで
しょうか。

興師自らが書写した、立正安国論(玉沢妙法華寺蔵)の題号次下には、

 『天台沙門日蓮勘之』 との署名があります。

文応元年(1260)7月16日、最明寺入道時頼に『立正安国論』を進呈した時、天
台沙門、の名乗りであったことがうかがえます。

少なくとも、鎌倉の老僧は比叡山で受戒を受けた、文字通りの「天台沙門」で
あるし、日蓮自ら「立正安国論」で「天台沙門」を名乗っている以上、この名
乗りは当然であり、普通のことだと思います。

日興は日蓮が“天台沙門日蓮”と署名した安国論を書写している(玉沢蔵)の
で、逆になぜ日蓮に倣い日興が天台沙門と名乗らなかったのか興味深い。

ただ当の天台宗側は前科者の日蓮とその門弟をはたして“天台沙門”すなわち
天台宗の僧として認めていたのか?という疑問があります。

比叡山で学んだのは草創期の中では日蓮と日昭だけで、あとの門弟は日蓮の膝
下で学んだ人たちでした。

晩年はたしかに身延に草庵がなり、そこに弟子を養ったことも記されています。

しかし、ここは庵なのであって、延暦寺に対置するような寺院ではありません。
弟子達は、日蓮から天台学を学んだのでしょう。そうすれば、仮に叡山遊学を
なしていなくとも、いわば副次的叡山の経験者であることになります。

ただし、これは当時の比叡山と親和性を言うものではないです。いわば天台、
伝教以来の系譜として学問の徒として立場でしょう。

当時の比叡山より、日蓮の“塾”は、むしろ純粋に天台学が学べる場であった
のではないでしょうか。

また、身延の草庵があったとしても、通常、弟子達は、それまでどおり、天台
宗寺院に起居していたわけでしょう。

こうした様から見るとき、「天台沙門」という以外、どんな言い方があるのか
は思いつきません。

天台法華宗の本朝沙門の、その弟子はまた、「天台沙門」ではないでしょうか。

たとえば、東大の教授の弟子が自分の地位を語るとき、「東大卒、学士、博士」
というのは、当然で、教授の弟子という記述はしないでしょう。

私的には日蓮弟子で、公式には天台沙門でしょう。

こうしたことから考えると、いったい、日興は何が言いたかったのかよくわか
らないというのが、正直な感想。





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