[11989] 題名:戸田先生指導(抜粋)です。
名前:末端信者
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投稿日:
2025/01/25(土) 08:10
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電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、
われわれは信心したから御本尊という電灯がついている。ですから我々の命はこうこうと輝いている。
だから顔の色つやもよくなるのです。
信心して青い顔をしている者は、信心したと言っても本当にしていない。インチキなのです。
隣の人が景気のいい顔色してるかどうか見てごらんなさい。
青い顔をしている者は、信心しているといっても口先だけです。
桜色にパッとしていなければならない。
この御本尊も信ずる心に収まっているのです。
われわれの体にあると言ってもどこにあるのか、御本尊様を信じ奉るその心の中に収まっているのです。
それが以信得入という言葉であります。それを大聖人様は信ずることをもって入ることを得たりと。
どこへ入るのか、それは御本尊様の中にであると、こういう意味です。
法華経以前の経を方便教と言いますが、
この方便教を捨て、余経の一偈をも受けざれと法華経に説かれています。
ほかの経文は一切やってはいけない。信じてはいけないと。
こういう立場になれば、初めてこの宝塔の中に入ることができる。御本尊の中に入ることができる。
その御本尊様の一分身として活動できると、こういう意味です。
如何にも後生をたしなみ給ふべし・たしなみ給ふべし、
また死後の命の幸福ということを考えなさいということです。
穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、
南無妙法蓮華経と唱え、仏になることが人生の肝要であるという意味です。
信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす、信心の厚薄によるべきである。
幸せになるのもならないのも、あなた方の願いが叶うのも叶わないのも、信心の厚薄によるというのです。
この言葉は大事です。
仏法は信心ということをもって根本とすると、大聖人様は決定あそばされています。
釈尊もそういっていますが、また誰人でも仏法というのは信心がなかったならば何にもならない。
いくら理屈を覚えても、いくらどんなことをしゃべっても、信心のない者には功徳がないのです。