[10838] 題名:先生指導(抜粋)です。
名前:末端信者
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投稿日:
2024/10/20(日) 13:59
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『 御本尊を信受しようという気になった動機は、ほとんどの場合、
人生、生活のうえでの、低い次元の小さな願いであったに違いありません。
成仏という最高の境界を思い描いて、それにあこがれて信心に入ったという人は、
おそらく皆無に等しいでしょう。
仏界の大生命は、御本尊と自身との真剣な冥合の作業のなかに涌現するものであり、
所詮、自得とは信心であり、受持即観心であります。
御本尊は絶対の対境であり、御本尊なくしては私達の成仏、観心はありえない。
しかし同時に、受持すなわち、自らの信心より発する修行精進がなければ、
御本尊の功力が顕れるはずがないことも明らかであります。
求道の心とは、自らの現状に甘んずることなく成長し、向上していこうとする心です。
そうした求道、向上の心があってこそ、仏法の偉大さ、
素晴らしさは身にしみて感じられ、理解されてくることを忘れてはなりません。
自己の悟りのためにのみ、仏の声を聞いていた声聞達が、ひるがえって、人々のために、
仏の声を聞かしめる声聞として、見事によみがえったことをあらわしております。
法華経以前の声聞について「開目抄」には
「二乗は自身は解脱と・をもえども利他の行かけぬ
設い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・
かへりて不知恩の者となる」と破折されています。
この法華経の開会がなければ、声聞の修行はただいたずらごとにすぎません。
法華経のこの二乗作仏が、珠玉の原理とされるのはそのゆえであります。
「我等が己心の声聞界なり」とあるように、
我が己心の声聞も、また法華経の声聞として、
仏の声を聞かしめる戦いへと回転させていくべきでありましょう。』