[10824] 題名:さあ、おっかなびっくり、ツッコミどころ満載の“反論もどき”が出ましたよ!(笑) 学会教学部ではなく男子部教学室だって!!
名前:姿見せない臆病者・星一郎
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投稿日:
2024/10/18(金) 23:41
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〈男子部教学室論考〉
「教学要綱」は創価ルネサンスの集大成
的外れな“批判本”を破す
2024年10月18日 https://www.seikyoonline.com/article/603E8EF7E9B96D20AF2920005F5C1C6B
●「御書根本」に学会教学は伸展
“批判本”は誤読を土台、閉鎖的宗門教学に固執
このほど、須田晴夫氏が『創価学会教学要綱』(以下『教学要綱』)を論じる本を自費出版した。
その主な内容は、“『教学要綱』は日蓮を「釈迦仏の使い」と位置づけ、その下位に置いている”という批判である。
『教学要綱』では、あくまで御書に基づき、「大聖人は、自身を『如来の使い』『教主釈尊の御使い』と位置づけ」(『教学要綱』45ページ)て、「自身こそ上行菩薩の働きを行う者であるという自覚」(同)をもって、末法の万人成仏の法を確立されたことを示している。つまり、大聖人御自身が自らを「釈迦仏の使い」と位置づけられていることに論及したものであり、それをもって上記のように批判するのは、明らかな誤読であるといえる。氏の批判は、この誤読を土台に展開されているため、全く説得力のないものである。
●「末法の教主」とは
氏は、日蓮大聖人は釈尊を超越した根源仏であると主張するが、これは宗門教学そのものであり、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない。
氏は、宗門に伝わる、いわゆる戒壇本尊の特別な意義を否定しつつも、あくまで宗門の閉鎖的・神話的な教義を立脚点として、その立場から批判しているに過ぎない。
日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏として最大に敬い、その教えを正しく拝したうえで、釈尊から滅後悪世の弘通を託された上行菩薩の使命を自ら果たし、御自身が覚知した『法華経』の肝心である南無妙法蓮華経を末法の人々を救う法として確立された。そこには、明確に「釈尊―『法華経』―日蓮大聖人」という仏法の正統な系譜を見いだすことができる。
釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない。日蓮大聖人は、末法の人々を成仏に導くために、釈尊に代わる末法の教主として、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し、末法万年にわたる人類救済の法を確立された。そのことをもって、創価学会は日蓮大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐのである。
『教学要綱』にあるように、創価学会は、宗門事件を経て「魂の独立」を果たしてから、「御書根本」「日蓮大聖人直結」の信心に立ち、大聖人の仏法の本義に基づいて、教学の在り方を一つ一つ見直し発展させてきた。
池田先生はその先頭に立たれ、30年に及ぶ膨大な教学に関する連載やスピーチ等を通して、学会教学の在り方を示し続けられた。それによって、日蓮大聖人の仏法が現代に正しく展開され、世界宗教へと飛翔していくことになったのである。『教学要綱』は、いわば、この30年の「創価ルネサンス」の集大成ともいえるものである。
それに対して、須田氏が“私が学んできた教義と違う”と言い立てているのは、この30年の学会教学の伸展を、そして、それを開いてこられた師匠の戦いを少しも学んでいないということを自ら露呈しているに過ぎない。
●普遍的に説明
また、氏は、『教学要綱』には「人法一箇」「久遠元初自受用身」といった用語が用いられていないと指摘するが、これらについて、学会教学では、宗門教学で用いるような大聖人を神格化・神秘化する用語としてではなく、実践に即したより深い意義を掘り下げてきた。そのうえで、これらの用語を用いなければ大聖人の仏法を説明できないものではないことから、『教学要綱』では用いられていないのである。
氏は、大聖人を根源仏とする論拠として、「百六箇抄」「本因妙抄」などの相伝書を引用するが、これらの相伝書が宗門の法主信仰の温床となってきたことは事実である。また、宗内でしか通用しない相伝書に依拠するのでは、普遍的な説明にはならない。
『教学要綱』では、論拠とする御書は、日蓮仏法の骨格というべき十大部を中心としている。
また、氏は『教学要綱』の内容は身延派に近接していると繰り返し指摘しているが、『教学要綱』は、創価学会の教学の柱である「日蓮大聖人を『末法の御本仏』と仰ぐこと」「本尊は日蓮大聖人が御図顕された曼荼羅本尊を立てること」を明確に説明している。それは、大聖人観といい本尊観といい、身延派とは明確に異なるものである。
(つづく)