宿坊の掲示板
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[10822]

題名:シン・広宣流布10

名前:ジョーカー

MAIL 投稿日: 2024/10/18(金) 21:17 240f:79:8f6a:1:2d4a:cde7:51b8:4d64(IPv6:kddi-jpnic-jp-20171026) (240f:79:8f6a:1:2d4a:cde7:51b8:4d64)

認識せずして評価することなかれ―これが創価学会員の基本的な姿勢(のはず)である。だが、内容云々ではなく、「週刊誌」「ネット」というだけで嫌悪感が生じ、拒絶反応を起こすのが、創価学会員のメンタリティーの一面であることも事実である。須田氏の記事が週刊誌に掲載されたが、正しく認識も評価もされず、感情的な「嫌悪」「悪」として捉えられてしまうのではないかと懸念している。

教義に関して過ちがある、間違いがあると指摘しても、所謂「合理的無知」が働き、真摯に向き合う人は稀なのではないか。とくに、組織が大きければ大きいほど、合理的無知に傾斜するのが人間の性ではないだろうか。ここでいう合理的無知とは、教義を正しく認識することにかかる時間と労力に比べ、得られるものが少ないと判断された時、はじめから無知でいることを選択すること。教義の過ちを知ったところで、それを変える術は会員一人ひとりには存在しない。変えられないのなら、無知でいた方がいいという合理的判断となる。

合理的無知の根底にあるのは、自分一人が動いても何も変わらないという無力感。それは、一人の人間革命が一国の宿命転換、ひいては全人類の宿命転換を可能にする、創価の「人間革命」の思想と対極にあるものといっても過言ではない。合理的無知から抜け出すポイントは、自分の親しい人が問題に対して関心があること。例えば選挙の投票で、自分の一票では何も変わらないと思っていても、大切な友人等が「投票に行った」と言えば、自分も行こうかなとなり易い。仏法的に表現すれば、「善知識」がキーワードとなる。

人は合理的無知により、自分が変えられるもの、手に届く範囲のものに関心が向く。創価学会員においては、自身の地域のことまでは考えることが出来るが、自国のことや、創価学会総体のことには目が向きにくい。ましてや、複雑な教義に関しては、敬遠するのも無理はない。だが、世界宗教を目指すのならば、会員自身がバージョンアップし、合理的無知を乗り越えていく必要がある。主役はどこまでいっても会員であり、組織そのものではないからだ。

自分と向き合い、問題と向き合っていくのが信心です。正しい信仰というのは、人を強く賢く善くする。反対に、間違った信仰は、人を弱く愚かにし、悪くする。日蓮仏法は、他責思考でも他力本願でもない。自分のこととして捉え、創価学会員ならば、会長の自覚に立てるかどうか。そのためには、知ることが大事であると考えます。
知ることへの努力を怠らない、自分自身の合理的無知との戦いが本丸です。

今、会内で教義に関して問題を感じている人が少なからずいる中、その声に耳を傾けるのか黙殺するのか。「誰も置き去りにしない」という言葉を重視するのであれば、どのような行動をとるのが正解なのか。教義の問題と向き合うのか向き合わないのか。世界宗教のあるべき姿は果たしてどちらなのか。もしかしたら、然るべき立場でありながら、問題が起きていることにすら、気づいていない人もいるかもしれない。

とにかく、一人ひとりが会長の自覚を持つことが大事であり、いつまでも馬の尻尾にひっついている、ハエの意識ではいけない。浅きを去り、深きにつくのが仏法であるからだ。現実の立場上、自分に出来ることには限りがあったとしても、祈ること、学ぶこと、考えることは出来る。また、仏法というのは一念の因果であることも忘れてはならない。合理的無知を乗り越え、問題と向き合い、正しく認識し、自分の考えを持つことを期待します。




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