[10528] 題名:罰も利益も信じない 観念的な「理の信仰」
名前:末端信者
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投稿日:
2024/09/16(月) 12:21
219.109.62.59.user.e-catv.ne.jp (219.109.62.59)
池田先生指導(抜粋)です。
『 牧口先生が″最も感銘した″と言われた言葉がある。
スウェーデンの化学者であり、ノーベル賞の設立者ノーベルのある言葉、
その言葉とは、「遺産は相続することが出来るが、幸福は相続する事は出来ぬ」であった。
事実、財産を相続したために堕落したり、悪人や愚かな人間となって不幸を招く場合も多い。
幸福は相続できない。「幸福」は、だれからも与えられない。だれも与えることはできない。
「幸福」は、自分自身が「創造」する以外にない。
自分自身の正しき信行で勝ち取る以外にない。これが仏法である。
これが牧口先生の信条であった。
牧口先生は一生涯、「どうすれば人間が幸福になれるか」を追求された。
その結論は「教育革命」以外にない、
より根本的には「宗教革命」以外にないということであった。
人間をつくる、すなわち「人間革命」する以外に幸福はないのである。
因果の理法は厳然である。その裁きからは、だれびとたりとも逃れることはできない。
長く見ていけば、必ず結果が出る。
再び、牧口先生の卓見を紹介しておきたい。
論文の要点は、いわば、罰も利益も信じない観念的な「理の信仰」ではいけない、
現実の生活と一体の「事の信仰」でなければ仏法の生命はない──ということである。
牧口先生はこう御書を引かれている。
「日女御前御返事」に、こう仰せである。
「また法華経を経文のように持つ人々であっても、法華経の行者を、
あるいは自分の貪り・瞋り・癡の三毒の煩悩のために、
あるいは世間的なことに寄せて、あるいはさまざまな行動を見て憎む人がいる。
この人は、たとえ法華経を信じていても、信ずる功徳はない。
それどころか、かえって罰を受けるのである」
たとえ、その正法の信者であっても謗法となる場合があるのだ、と。 』
「事の信仰」 やっぱり唱題しかないということだと思います。
題目を唱えられない者が、何を言っても空回りになってしまいます。
4・5・6と その色淫患部連中を見ていて、思い知らされてきました。
本当に、正しい心があるなら行き着く所は、唱題しかないと実感すると思います。