[10403] 題名:
名前:末端信者
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投稿日:
2024/08/09(金) 16:41
219.109.62.32.user.e-catv.ne.jp (219.109.62.32)
先生指導(抜粋)です。
『 信心は一生である。そして三世である。 広宣流布も、長い長い旅路である。
その「幸福への旅」を、最後まで、どう完走するか。
宝の一生の毎日、毎日を、どう価値的に、すがすがしく生きていくか。
そこには賢明な「知恵」が必要である。
あくまでも、勤行・唱題の基本に 真摯に挑戦することが必要であることは言うまでもない。
日顕宗の僧侶は、(注 私は、今や、組織を食い物にする 色淫患部と 同じだと思います。)
「自行」もきちんと行ぜず、社会の中での不惜の「化他」に至っては片鱗もない。
ただ大聖人を利用し、学会員の信心を利用し、私たちだけを働かせて、
自分たちは永遠に享楽の生活を送ろうとしたのである。 極悪の魔性の存在である。
ところで「本物の信心」とは何か。 当然、さまざまな次元から論ずることができるが、
ここでは、牧口先生がつねづね言われていた一点を述べておきたい。
それは、大聖人の本物の門下であるかどうか。大聖人の御聖訓どおりの行動であるかどうかという点である。
大聖人は「開目抄」で「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」と仰せである。
牧口先生は、この御文を敷衍されて「愚人に憎まれたるは第一の光栄なり」と言われていた。
つまり″愚人にほめられたい、名声を得たいと、世間的な名誉を求めているようでは、本物ではない。
むしろ、仏法のことで愚人から憎まれ、非難を受けることは、最高の光栄なのである。
その人こそ「本物の信心」の人である″と、教えられたのである。
また、牧口先生は言われている。 「仏法者たる者は物事の根本、価値観を判断するさい、
あくまで仏法で説く 厳しき因果関係を 基準にしなければならない。
ひとの毀誉褒貶に 左右されては 大善人とはなれない」と。
仏法の厳しき因果律――いかなる事象も、この深き信心の眼で見ていけば、
おのずから善悪の本質が見えてくるものである。』