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師匠と我らとの関係 20(四条金吾に関連する御抄)前
「四条金吾に関連する御抄」における弟子との関係 前編
通称・四条金吾は、「四条中務三郎左衛門尉頼基」と云い、父の跡を受けて北条の支族・江馬氏に仕えた武士で、龍ノ口の法難に際しては急ぎ現場に向かわれており、医師として常に大聖人のご体調を気遣われています。だから、大聖人から開目抄や聖人御難事 等の重要御書を含め最も多くの御消息文が贈られ指導されています。従って、ご紹介させていただく御文も多くなりましたので、前・後編に分けてご紹介させていただきます。
「法華経の信心をとおし給え。火をきるに、やすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして、「法華宗の四条金吾、四条金吾」と、鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたわれ給え。あしき名さえ流す。いわんやよき名をや。いかにいわんや法華経ゆえの名をや。」(四条金吾殿御返事 新1522頁・全1117-8頁) 文永9年5月 51歳御作
現代語訳:法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られません。強盛な大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人及び日本国の一切衆生の口に唄われていきなさい。人は悪名でさえも流すものです。ましてや善き名を流すのは言うまでもない事です。更に言えば、法華経の為の名においては言うまでもないのです。
※本抄は別名「煩悩即菩提の事」ですが、文末に、「左衛門尉」を唐名で「金吾」と称される事から、大聖人も「四条金吾」と呼ばれ、鎌倉方面の在家門下の中心者になっている事に大変喜ばれています。
「凡夫なれば、ややもすれば悔ゆる心有りぬべし、日蓮だにもかくのごとく侍るに、前後も弁えざる女人なんどの、各仏法を見ほどかせ給わぬが、いか程か日蓮に付いてくやしとおぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して、日蓮よりも強盛の御志どもありと聞こえ候は、ひとえに只事にあらず。教主釈尊の各の御心に入り替わらせ給うかと思えば、感涙押え難し。」(呵責謗法滅罪抄 新1531頁・全1126頁)文永10年 52歳御作
現代語訳:凡夫なので、ややもすれば後悔する心もありました。日蓮でさえもこの様なのに、物事の前後の分別もつきかねる女性方等は、仏法を理解していない様なので、どれほどか日蓮に付き従ったことを後悔しているかと思うと、実に心苦しかったのです。ところが案に相違して、日蓮よりも強盛な信心があると聞きおよびましたが、これは全く只事ではありません。教主釈尊があなた方の心に入り替わられたのではないか、と思えて感涙押えがたいのです。
※本抄の意義は、正法を弘通する事で、謗法を呵責(相手の非を厳しく責める)して無始以来の重罪を滅しうるからです。四条金吾を大聖人ご自身よりも強き信心のある人物だと褒められていますね。
「他人なれども、かたらいぬれば命にも替るぞかし。舎弟らを子とせられたらば、今生の方人、人目申すばかりなし。妹らを女と念わば、などか孝養せられざるべき。これへ流されしには一人も訪う人もあらじとこそおぼせしかども、同行七・八人よりは少からず。上下のかても各の御計いなくば、いかがせん。これひとえに、法華経の文字の各の御身に入り替わらせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。いかなる世の乱れにも各々をば法華経・十羅刹助け給えと、湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり。」(呵責謗法滅罪抄 新1538-9頁・全1132頁)
現代語訳:他人であっても、心から語り合えば命にも替わるのです。舎弟等をわが子とされたならば今生の味方となり、傍の目に良いのは言うまでもありません。妹達を娘と思えば、どうして孝養されない事があるでしょうか。日蓮が佐渡へ流された時には一人も訪ねてくる人はないだろうと思っていましたが、同行する者は七・八人を下らなかったのです。上下の資糧もあなた方の御計画が無ければどうにもなりません。これはひとえに法華経の文字があなた方の身に入り替って日蓮を助けているのであると思います。どの様に世間が乱れても、「あなた方を法華経・十羅刹よ助け給え」と、湿った木より火を出し、乾いた土より水を出す様に、強盛な信心で申しているのです。
※大聖人は、四条金吾に全幅の信頼を寄せておられる御文ですね。
「この経をききうくる人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく、持つはかたし。さるあいだ、成仏は持つにあり。この経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり。「則ちこれ疾く無上の仏道を得ん」は疑いなし。」(四条金吾殿御返事 新1544頁・全1136頁)文永12年3月 54歳御作
現代語訳:この法華経を聞いて受ける人は多いのです。でも真剣に聞き信受して、どんな大難が来てもこの法華経を常に憶い持って忘れない人はまれです。受ける事は易しいですが、持つ事は難しいのです。しかし成仏は持ち続ける事にあるのです。この法華経を持つ人は必ず難に遭遇するのだと心得て持つべきです。法華経見宝搭品の「(法華経を暫くも持つ者は)則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」事は疑いないのです。
※基本である妙法受持の難しさを述べておられます。
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。経に云わく『衆生所遊楽(衆生の遊楽する所)』云々。この文、あに自受法楽にあらずや。『衆生』のうちに貴殿もれ給うべきや。『所』とは、一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり。『遊楽』とは、我らが色心・依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや。法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。『現世安穏、後生善処』とは、これなり。」(四条金吾殿御返事 新1554頁・全1143頁)建治2年6月 56歳御作
現代語訳:一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はありません。法華経寿量品には「衆生の遊楽する所なり」とあります。この文は自受法楽の事を言っているのです。「衆生」の中にあなたが漏れることがあるでしょうか、また「所」とは、一閻浮提を示しており、日本国はその閻浮提の内にあるのです。「遊楽」とは、我々の色心、依報・正報は共に、一念三千の当体であり、自受用身の仏ではないでしょうか(だから遊楽です)。法華経をたもつ以外に遊楽はないのです。法華経薬草喩品にある「現世安穏にして、後に善処に生ず」とはこの事をいうのです。
※本抄を別名「衆生所遊楽御書」と云い、有名な「衆生所遊楽」と「自受法楽」の関係を述べられた御文です。「現世安穏・後生善処」に繋がっているのです。
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え。」(四条金吾殿御返事 新1554頁・全1143頁)
現代語訳:苦を苦と覚り、楽を楽と開いて、苦しくても楽しくても共に南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。これこそ自受法楽(法楽を自身に受ける)ではないでしょうか。より一層、強盛の信力を出だしていきなさい。
※此処でも「自受法楽」の定義を述べられ、激励されていますね。
「賢人は、八風と申して八つのかぜにおかされぬを、賢人と申すなり。利い・衰え・毀れ・誉れ・称え・譏り・苦しみ・楽しみなり。おお心は、利いあるによろこばず、おとろうるになげかず等のことなり。この八風におかされぬ人をば、必ず天はまぼらせ給うなり。しかるを、ひりに主をうらみなんどし候えば、いかに申せども、天まぼり給うことなし。」(四条金吾殿御返事 新1565頁・全1151頁)建治2年又は同3年 55は56歳御作
現代語訳:賢人は八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのです。八風とは、利(うるおい・利益を得て潤う)・衰(おとろえ・様々に弱く損をする)・毀(やぶれ・世間から軽蔑される)・誉(ほまれ・世間から褒められる)・称(たたえ・人々から称えられる)・譏(そしり・人々から悪口をいわれる)・苦(くるしみ・身心が苦しむ)・楽(たのしみ・身心が楽しい)です。大概は、世間的利益があっても喜ばず、衰えるのを嘆かないなどということです。この八風に犯されない人を、必ず、諸天善神は守ってくださるのです。ところが道理にそむいて主君を恨んだりすれば、どんなに祈っても諸天は守護しないのです。
※別名「八風抄」と云いますが、大聖人は、いよいよ四条金吾に難が襲って来たので、八風に侵されない賢人の心得を説かれておられるのです。
「竜象房、口を閉じて色を変え候いしかば、この御房申されしは、『これ程の御智慧にては、人の不審をはらすべき由の仰せ無用に候いけり。苦岸比丘・勝意比丘等は、我正法を知って人をたすくべき由存せられて候いしかども、我が身も弟子檀那等も無間地獄に堕ち候いき。御法門の分斉にて、そこばくの人を救わんと説き給うがごとくならば、師檀共に無間地獄にや堕ち給大聖人はわんずらん。今日より後は、かくのごとき御説法は御はからいあるべし。かようには申すまじく候えども、【悪法をもって人を地獄におとさん邪師をみながら責め顕さずば返って仏法の中の怨なるべし】と仏の御いましめのがれがたき上、聴聞の上下、皆悪道におち給わんこと不便に覚え候えば、かくのごとく申し候なり。智者と申すは、国のあやうきをいさめ、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ。【これはいかなるひが事ありとも、世の恐ろしければいさめじ】と申されん上は力及ばず。某は文殊の智慧も富楼那の弁説も詮候わず』とて立たれ候いしかば、諸人歓喜をなし、掌を合わせ、『今しばらく御法門候えかし』と留め申されしかども、やがて帰り給い了わんぬ」(頼基陳状 新1573頁・全1156頁)建治3年6月 56歳御作
現代語訳:竜象房はこれ(日蓮門下の不惜身命の弘教)を聞き口を閉じ、顔色を変えてしまったので、三位房の言ったことは「この程度の知恵では人の不審を晴らそうなどの高言は無用でしょう。昔、苦岸比丘や勝意比丘らは、自分は正法を知ったから人を救ってやろうと思っていたのですが、我が身も弟子・檀那らも共に無間地獄に堕ちました。あなたの法門の程度で多くの人を救おうなどと説法するようであれば、師檀共に無間地獄に堕ちるのではないでしょうか。今日より後は、この様な説法は考え直されるが良いでしょう。この様には言わないと思ったのですが、言わなければ『悪法をもって人を地獄に堕そうとする邪師を見ながら責め顕わさないならば、返ってそれは仏法の中の怨である』との仏の戒めに免れ難い上に、説法を聴聞している全ての人々が悪道に堕ちる事が不便に思われたので、この様に言うのです。智者というのは、国の危機を諫め、人の邪見を止めることこそ智者ではないでしょうか。あなたは、どの様な誤りがあろうとも世間が恐ろしいので諫めない、と言われる以上はどうしようもございません。もはや文殊の智慧も富楼那(ふるな)の弁説も役には立ちません」といって座を立たれると、諸人は歓喜して、掌を合わせ、「今しばらく御法門をお聞かせ下さい」と引き止めました。だが三位房は、そのまま帰られてしまいました。以上の事の他には別のことは何もありません。どうか、御推察ください。法華経を信じて仏道を願うほどの者が、どうして法門の問答の時に悪行を企てたり、悪口を旨とするでしょうか。全て、その事情の経過についてご推察下さい。
※日蓮大聖人は愛弟子の四条金吾に代わって、江間氏に陳状(主君の怒りに対する弁明書)を書かれたのが本抄です。内容は①三位公と竜象房との法論の実態を述べ②讒言者と頼基が対話すれば真相究明できる③極楽寺良観と竜象房の諸行を暴露し江間氏の誤解を糾す④主君の不義に身命を惜しまず諫める頼基こそ忠臣である⑤他宗を破折し重ねて事件の真相究明を請われて結ばれています。
「仏法の中に内薫外護と申す大いなる大事ありて宗論にて候。法華経には『我深く汝等を敬う』、涅槃経には『一切衆生ことごとく仏性有り』、馬鳴菩薩の起信論には『真如の法、常に薫習するをもっての故に、妄心即ち滅して、法身顕現す』、弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり。かくれたることのあらわれたる徳となり候なり。されば、御内の人々には天魔ついて、前よりこのことを知って、殿のこの法門を供養するをささえんがために今度の大妄語をば造り出だしたりしを、御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがためにこの病はおこれるか。上は我がかたきとはおぼさねども、一たん、かれらが申すことを用い給いぬるによりて、御しょろうの大事になりてながしらせ給うか。彼らが柱とたのむ竜象すでにたおれぬ。和讒せし人も、またその病におかされぬ。良観はまた一重の大科の者なれば、大事に値って大事をひきおこして、いかにもなり候わんずらん。よもただは候わじ。」(崇峻天皇御書 新1592頁・全1170-1頁)建治3年9月 56歳御作
現代語訳:仏法の中に、内薫外護という大事な法門があり、これは仏教の原理なのです。法華経不軽品には、「私は深くあなた達を敬う」とあり、涅槃経には「一切の衆生は悉く仏性がある」とあり、馬鳴菩薩の著わした起信論には「真如の法が常に薫習する故に、妄心が即滅して、法身が顕現するのである」と説かれ、また弥勒菩薩の著わした瑜伽論に、同じ様なことが説かれています。隠れた行動が、外に現われて徳となるのです。それゆえ江馬家の御内の人々には、天魔がついて、この内薫外護の原理で江間氏一門が正法の家人となることを知って、あなたが法華経を供養することを防ぎ止める為に、今回の竜象房等の大妄語を作り出したのです。ところが、あなたの御信心が深いので、十羅刹女があなたを護ろうとして、主君の病気を起したのでしょうか。主君はあなたを自分の仇とは思われていないが、ひとたび彼らの言う事を用いた事によって、御病気が重くなり、長引いておられるのでしょうか。彼らが柱と頼む竜象房も、既に倒れてしまった。讒言した人々も、また同じ病に侵されてしまった。良観はなお一層仏法上の大罪ある者ですから、大事件に遭遇し大事を引き起こして、法罰を蒙ることになるでしょう。よもや、只事では済まないでしょう。
※本抄は、別名「三種財宝御書」と云い、大聖人は、四条金吾の短気な性格を心配して、怒りの為に身を滅ぼした崇峻天皇の物語を引かれて戒められ、仏法修行者は自己の行動・生活において立派に振る舞わなければならない、と指導されています。