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宿坊2の掲示板


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題名:師匠と我らとの関係 22(鎌倉方面の門下に宛てられた御抄)前

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/10/30(水) 19:10 2001:ce8:127:e3a4:8cb8:a1f3:e854:cf82(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:8cb8:a1f3:e854:cf82)

師匠と我らとの関係 22(鎌倉方面の門下に宛てられた御抄)前


「鎌倉方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 前編 


鎌倉は、大聖人が延応元(1239)年18歳から文応元(1260)年39歳の21年間、及び文永5(1268)年47歳から文永8(1271)年50歳の3年間、およそ25年の間在住した当に本陣の地であり、多くの門下が誕生しています。その中から一部ですが、私が独断で気付いた御文を御紹介します。(勝手ながら、紹介すべき御文を追加させて頂いたので、前・後編に修正させて頂きました)


「止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。「前の六重は修多羅に依る」と申して、大意より方便までの六重は先の四巻に限る。これは妙解にして、迹門の心をのべたり。「今は妙解に依って、もって正行を立つ」と申すは、第七の正観、十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千これよりはじまる。一念三千と申すことは迹門にすらなお許されず。いかにいわんや、爾前に分たえたることなり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。ただし、真実の依文判義は本門に限るべし。されば、円の行まちまちなり。(中略)
真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべきことは南無妙法蓮華経なり。心に存すべきことは一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には、ただ一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は、三世の諸仏、皆、南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり。阿弥陀・釈迦等の諸仏も、因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。」(十章抄 新1665頁・全1274頁)文永8年5月 三位房に与える
現代語訳:「摩訶止観」は十章から構成されています。大意、釈名、体相、摂法、偏円、方便、正観、果報、起教、旨帰です。「前の六重は修多羅に依る」とあり、大意から方便までの六重(六章)は解了の部で、前四巻に限ります。この解了、即ち妙解は迹門の心を述べています。今、「妙解に依って以て正行を立つ」とある第七の正観章は、十境・十乗の観法の説明であり、本門の心を述べたものです。一念三千の法門はこの章から始まります。一念三千の法門は迹門にさえ許されていません。ましてや爾前の諸経には絶えてない法門なのです。一念三千の出処は略開三顕一の十如実相の文ですが、その義は本門に依っています。爾前の諸経は迹門の義に依って判ずべきであり、迹門の文は本門の義に依って判ずべきです。真実の依文判義はただ本門に限るのです。そして、円教の修行も種々あるのです。(中略)
真実の円教の修行として、常に口に唱えるべき事は、南無妙法蓮華経です。心に観ずべきは一念三千の観法です。しかしこれは、智者の行解(修行と知解のこと、仏法を修行しその教えを解了すること)です。日本国の在家信仰者は、ただ一向に南無妙法蓮華経と唱えるべきです。名称には、必ず実体にいたる徳があります。法華経に十七種の名があります。これは通名です。別名は三世の諸仏が皆、南無妙法蓮華経とつけられています。阿弥陀如来や、釈迦如来等の諸仏も因位の時の修行は、必ず心に一念三千を観じ、口に唱えたのは南無妙法蓮華経なのです。
※三位房(生没年不詳)は、大聖人の高弟の三位房日行のことで、三位公・三位殿とも呼ばれ、本抄の他に、御輿振御書、法門申さるべき様の事、教行証御書、等を賜っています。しかし、才智に溺れ大聖人の指導に背く事があり、熱原の法難頃退転し、不慮の死を遂げたと推定されます。
補足
A。天台大師の「摩訶止観」の内容:第一章「大意」は、止観全体の大意をまとめ、第二(以下「章」は略す)「釈名」は、止観の名義を明かし、第三「体相」は、止も観も共に同一法性、同一実相の寂照二面であることを述べています。第四「摂法」は、一切の諸法はことごとく実相であり、実相を体とする止観は一切法を摂することを明かし、第五「偏円」は、止観にも種々の事物があるが、爾前の止観は偏理の止観であるのに対し、法華経の止観は円頓止観である事を述べています。第六「方便」は正修止観の準備である二十五の方便行を示し、第七「正観」は、正しく一念三千を示し、その修行の方法として十境十乗の観法を立てています。第八「果報」は、発心して修行した結果として得られた感果を明かし、第九「起教」は、感果によって現れてくる衆生教化と救済の能力を示し、第十「旨帰」は、能化も所化も共に大涅槃の境地に帰入する事を明らかにしています。
B.天親(世親)の法華論・序品七成就の章では、法華経について十七種類の名を挙げています。今列挙してみると、①無量義経 ②最勝修多羅 ③方広経 ④菩薩法 ⑤仏所護念 ⑥切諸仏秘密法 ⑦切諸仏之蔵 ⑧切諸仏秘密処 ⑨生一切諸仏経 ⑩切諸仏之道場 ⑪切諸仏所転法輪 ⑫切諸仏堅固舎利 ⑬切諸仏大巧方便教 ⑭一乗経 ⑮一義住 ⑯妙法蓮華経 ⑰最上法門 の十七種です。これら全ての名は、必ずしも法華経のみに冠せられる名ではなく、他の諸経に冠せられても通用する名なので「これ通名なり」と仰せです。だが、⑯の妙法蓮華経の名は、法華経独特の名では、との疑問は残ります。確かに、天台大師は法華玄義十巻において、妙法蓮華経の五字が法華経全体の意を顕すという観点から、五字の題号を五重玄(釈名、弁体、明宗、論用、判教)に従い論じています。しかし、日蓮大聖人がその妙法蓮華経の五字の題号を〝通名〟とされたのは、釈尊の説いた文上の法華経は末法の下根・下機の衆生には相応しないからでしょう。


「かねがね申せしがごとく、日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず。彼々の経々と法華経と、勝劣・浅深、成仏・不成仏を判ぜん時、爾前・迹門の釈尊なりとも物の数ならず。いかにいわんや、その以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下してもその過有らんやと意得て、宗論すべし。 (中略 文末)
公場にして理運の法門申し候えばとて、雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず。浅ましきことなるべし。いよいよ身・口・意を調え、謹んで主人に向うべし、主人に向うべし」(教行証御書 新1676-7頁・全1282頁)文永12年3月 三位房に与える
現代語訳:機会が有るごとに言ってきた様に、日蓮が弟子等は臆病であってはなりません。彼らの依経と法華経との勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ずる時は、爾前迹門の釈尊であっても物の数ではないのです。どうして説明すれば良いでしょうか、それ以下の等覚の菩薩など言うまでもないのです。ましてや、権宗の者どもにおいても同様なのです。法華経という大梵王の位にいるのですから、彼らを民とも下し、鬼畜などと下しても、あえて誤りではないと認識した上で法論をしていきなさい。 (中略 文末)
たとえ公場で道理に適った法門を説明したからといって、悪口を言ったり、粗暴な言葉を吐いたり、自慢気な様子は人に見せてはなりません。それはあさましい事なのです。態度にも、言葉にも、よく注意をはらって、謹んで相手に向かわなければならないのです。
※三位房は 自信家でしたが、臆病な面もありました。大聖人は見抜いておられたのです。     
前文では、少し言い過ぎの様ですが、正論からの発言だからこそ、堂々たる態度で接する事が重要なのですね。そして、文末のこの所作こそが、常識豊かな人の行動なのですね。


「法華経は『正直に方便を捨つ』等、「皆これ真実なり』等、『質直にして意柔軟なり』等、『柔和質直なる者』等と申して、正直なること弓の絃のはれるごとく、墨のなわをうつがごとくなる者の信じまいらする御経なり。糞を栴檀と申すとも、栴檀の香なし。妄語の者を不妄語と申すとも、不妄語にはあらず。一切経は皆、仏の金口の説、不妄語の御言なり。しかれども、法華経に対しまいらすれば、妄語のごとし、綺語のごとし、悪口のごとし、両舌のごとし。この御経こそ実語の中の実語にて候え。実語の御経をば、正直の者、心得候なり。今、実語の女人にておわすか。(中略)
当に知るべし、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏、上行・無辺行等の大菩薩、大梵天王・帝釈・四王等、この女人をば、影の身にそうがごとくまぼり給うらん。日本第一の法華経の行者の女人なり。故に、名を一つつけたてまつりて、不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云々。」(日妙聖人御書 新1682-3頁・全1217頁)文永9年5月 51歳御作
現代語訳:法華経は「正直に方便を捨てて」等、「皆是れ真実である」等、「意が質直で柔輭である」等、「柔和質直である者」等と説いており、正直であること、あたかも弓の絃を張った様に、墨繩をうった様な真っすぐな心の者が信ずる御経です。糞を栴檀と云い張っても糞には栴檀の香は無いのです。妄語の者を不妄語であるといっても妄語は不妄語となりませえん。一切経は皆仏の金口の説で不妄語のお言葉です。しかしながら法華経に対するならば妄語の様なもの、綺語の様なもの、悪口の様なもの、両舌の様なものです。この法華経こそ実語の中の実語なのです。実語の法華経は正直の者が信じ会得できるのです。今、あなたは実語の女人でおれるのでしょう。(中略)
まさしく知らなければなりません、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、上行菩薩、無辺行等の大菩薩、大梵天王、帝釈天王、四天王等が、この女人を影が身に添う様に守られるでしょう(あなたは、)日本第一の法華経の行者の女人なのです。それ故に名を一つ付けさせて頂き、不軽菩薩の義になぞられて。「日妙聖人」等と。
※日妙聖人(生没年不詳)は、鎌倉在住の強信者で、寡婦となったが、佐渡におられた大聖人を訪ねた純真な信心を「日本第一の法華経行者の女人」と讃え、本抄で「日妙聖人」の法号を賜っています。


「いよいよ強盛の御志あるべし。氷は水より出でたれども、水よりもすさまじ。青きことは藍より出でたれども、かさぬれば藍よりも色まさる。同じ法華経にてはおわすれども、志をかさぬれば、他人よりも色まさり、利生もあるべきなり。」(乙御前御消息 新1690頁・全1221頁)建治元年8月 54歳御作
現代語訳:益々強盛な信心をしていきなさい。氷は水からできていますが、水よりも冷たいのです。青い色は、藍という草から生まれますが、重ねて染めれば、藍よりも色が鮮やかになります。(信仰も)同じ法華経(御本尊)ですが、信心を強く重ねていけば、他人よりも顔色もすぐれ利益もあるのです。
※乙御前とは、日妙尼(日妙聖人)の娘のことで、大聖人が、信心は修行が深まれば深まるほど強盛になると云う「従藍而青」で例えるほど、母に似て信心強盛な女人だったのでしょうね。


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