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宿坊2の掲示板


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題名:フェイク 第1777号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/10/25(金) 17:46 2a0d:5600:5b:9000:d145:e2d:dc20:3ae7(IPv6:m247-ltd-newyork) (2a0d:5600:5b:9000:d145:e2d:dc20:3ae7)


(発行=24.10.24)

妙観講の指導教師、日顕の手先で暗躍
日蓮正宗大石寺・理境坊の小川只道が死去
謀略紙の監修や身延派とのパイプ役も

日蓮正宗大石寺の理境坊住職で妙観講の指導教師をしていた小川只道が二十一
日に入院先の病院で死去した。享年八十三歳。僧階は大僧都。二十二日午後六
時から通夜、二十三日午前九時から告別式が行われた。

 告別式の日は雨が降り続いて時折、打ち付けるような激しい雨になり、気温
は十九度、肌寒い日であった。午前八時過ぎから参列者の車両が次々に到着。
裏門の駐車場や三門の西側駐車場も満車になった。

 小川只道は昭和十六年五月十一日に生まれ、俗名は桂一。同三十八年四月に
得度。同四十七年十月に常灯坊の住職の後、同五十二年三月に理境坊の住職に
なり、同五十七年五月には大石寺理事になった。平成十一年三月には理境坊住
職を兼ねて雪山坊住職になり、同十五年四月には大石寺執事に任じられた。

 この小川は学会男子部出身の〝臨得(臨時得度)〟坊主で、男子部時代は任
用試験に二度も不合格。信仰心は薄いが、食うために頭を丸め、宗門の裏の汚
い仕事をやらされてきた。

理境坊の住職として説法しても、説得力がない、つまらないと不評で、御講の
参加者は次第に少なくなったということだ。

 以前、学会青年が五座三座の変遷、御書の刊行などを論じても、小川は何も
知らなかった。これが大僧都で大石寺の執事、理事とは唖然とする。

こんな坊主だから墓檀家の指導も満足にできないが、 日顕は小川を学会攻撃
の先兵として用いた。

平成六年十二月に宗門に復帰した元弁護士で反逆者のペテン師・山崎正友の受
け入れ先として指名したのが理境坊所属の妙観講で、〝狂言訴訟〟の信平信子
も同講に所属していた。

 また、日顕の肝いりで創刊した謀略紙「慧妙」の監修や本山警備会社「清昌」
の運営を任せていた。

今は「慧妙」の監修は辞めているが、親しく交流している身延派日蓮宗とのパ
イプ役もやっていた。

 これに関しては、いつも下劣な言葉で学会を批判している謀略紙「慧妙」が
釈明できないよう実例を示す。

平成六年十一月五日に身延僧が大石寺に参拝に来たことがあった。このことは
身延派の第一部布教師会発行「布教師會報」第二〇号(平成七年三月三十一日
付)に詳細に記録されている。
その中の「日蓮正宗総本山・大石寺研修参拝記」と題する記事は、身延派の布
教師会長で総本山久遠寺内の志摩坊住職・佐藤順映が書いたものである。

これを読むと、大石寺と身延派との親密度が窺えるので、この「大石寺研修参
拝記」の一部を紹介する。

身延僧に電話・礼状

「平成六年度本会の布教研修会が昨秋十一月五日に実施され、参加者八名と少
数だったが、充実した内容となった」と記し、大石寺参拝を大石寺内事部に事
前に通知し、承諾を得て実施したと、次のように書いている。「本会の名にお
いて、大石寺参拝の申請願書を送付して二十日も過ぎてから、当局内事部の理
事から応諾の電話を頂戴し」と明記している。

また「布教師會報」には「二時間以上に亘って懇切なる案内をしてくれた教師
から、ほどなく一通の礼状が届いた。〝皆様の暖かなお心に触れ、外はめっき
り寒くなっていたにも拘わらず、暖かな気持ちで御案内申し上げる事ができま
したことを感謝しております〟と。察するに今置かれている大石寺の立場を鮮
明に表しているものと理解するが、うがち過ぎだろうか」

このように身延僧に大石寺参拝の承諾の電話をかけ、その後も参拝に対する礼
状まで送っていたのである。

理境坊で「被害者の会」の設立の会合も

過去には「被害者の会」というのがあって、自分の不幸は全て学会のせいにす
る哀れな者たちのグループが「自由の砦」という機関紙を発行して学会を批判
していた。

この愚劣な「被害者の会」の設立準備の会合を平成六年十月に開いたのも理境
坊であった。

加えて、正本堂の解体工事について、大手建設会社が軒並み断るなか、引き受
ける業者を見つけてきたのも小川の配下である妙観講の最高幹部であったとい
う。

 このような数々の汚れた謗法行為や破壊工作を日顕は喜んでいたようだ。
 また、面白いのは小川が「道祖神」を拝んで御供養を受け取ったということ
だ。

大石寺近郊の熊久保地区 は、江戸時代の寺請制度によって、地域全体が大石
寺の信徒になった地域で、今も約三十戸の全世帯が理境坊の所属になっている。

 その地区内には神社があり、その中には「八幡宮」の扁額を中心に、第五十
三世・日盛の板曼荼羅が二体、安置され、歴代法主の御本尊を何体も持ってい
る家があるが、それらは年一回お盆の時に祀られるだけで、普段はお巻きして
ある。神棚、神札を祀っている家も多いが、小川は信心指導ができなかった。

 この地に日頃は行かない小川が平成三年八月四日、熊久保地区に出向いた。
道路の整備に伴い、道端の「道祖神」を移動させることになり、その厄払いを
するためだ。小川は「道祖神」に向かって合掌し勤行・唱題。謗法厳誡の話な
どしないで、御供養を受け取って帰った。
 
妙観講は解体か?

 こんな小川只道について特筆すべきは、当時は妙観講という名称ではなかっ
た大草一派が所属していた法道院(南池袋)の主管・早瀬日慈に誹謗中傷の限り
を尽くして昭和五十二年十二月に離籍、その大草一派を理境坊に受け入れたこ
とだ。

 大草が「編集並発行者」となって昭和五十三年一月二十五日に発刊した「法
道院信徒209名 離籍の真相」という小冊子がある。

 その「まえがき」で大草は次のように書いている。「私以下、元法道院所属
信徒二百九名は、昭和五十二年十二月二十八日付をもって日蓮正宗法華講・法
道院支部を離籍した」と述べ、法道院に対しては「隠忍自重して『悪口・批判』
することのなきよう慎んできた」と。この「隠忍自重」とは、怒りや苦しみを
じっと抑えて外に表さず、軽はずみな行動をしないこと、という意味である。

大草らは法道院に対して怒りを感じ、苦しみを味わってきたと言っているのだ。

また、離籍の真の理由を公にしなかったのは「法道院主管・日蓮正宗総監早瀬
日慈尊能化の権威・威光を傷つけ汚したくなかったがためである」と書いてい
る。

これでは諸悪の根源が法道院主管の早瀬日慈だと明言しているのと同じである。

本文で「『早瀬一族から次の猊下が出るのは当然のことだ』など、とても信じ
られぬ」等々、早瀬家を愚弄する記事も載せている。

日慈の長男である法主の日如に大草や妙観講員が心底より信伏随従しているの
かどうか、実に疑わしい。

日如は大草一派が法道院から理境坊に移籍して妙観講という名称になった経緯
を〝謀略だった〟と熟知し、日慈に「妙観講と戦いますか」と語っていた。

宗門関係者は謀略集団の妙観講の指導教師に誰がなるのか、色々と噂している
とのことだが、或いは妙観講を解体して講員を各末寺に分散するのだろうか?

大草を今年、大講頭に再任しなかった日如の才覚と決断に注目が集まる。






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