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[11] 題名:認知症と食欲 名前:カッパ URL 投稿日: 2021/10/12(火) 16:19

認知症と食欲

先の投稿のつづきです。
私が父の介護で最も苦労したのは、父の食欲のコントロールです。
認知症が中程度にすすむと、父は異常な食欲旺盛におそわれました。

四六時中お腹をすかせ、部屋に置かれた物や冷蔵庫の中の食べ物を手当たり次第に食べます。気が付くと犬の餌を食べようとしていたり、化粧石鹸を食べようとしている。
あと少し気づくのが遅れれば、どうなっていたかと心配になりました。

認知症には、空腹の訴え、暴飲暴食、異物を食べる異食、など数種類の症状が知られています。
当時は父のかかりつけ医師や訪問看護師に相談しましたが、解決策はなかった。
インターネットを調べても、当時は「菓子などを与えて気をそらす」などという他人事みたいな無責任なそのばしのぎ的解答しか見つからない。

世の中の認知症専門家は、何をやっているのだと苛立たしくなりました。

やむを得ず、できることを全てやりました。

先ず、父の行動範囲から徹底的に「父が食べそうなもの」を隠して目につかなくします。
ドッグフードも化粧石鹸も口に入れそうなものは食べ物でなくても隠す。

次は冷蔵庫の中を空っぽにしました。
これは、案外たいへんなことです。
父に限らず、認知症のお年寄は、よくマヨネーズやケチャップをチューチューと食べてしまうことが多いそうです。

事実、私は父が両手でケチャップの容器を絞り出し、食べている姿を何回も目撃していました。「こんなものまで食べてしまうんだ」というショックは介護家族に共通してあったでしょう。

では、どうするか?
野菜入れと冷凍室以外の食品類は、全て台所のシンクの下の扉の中に隠し、ヘルパーさんに料理のときは、そこから調味料などを出して使ってもらうことにしました。
父は甘党でもあるので、砂糖なども隠さないといけません。

しかし、父は一人でいるときは、部屋のあちこちを探し回ったり、特に冷蔵庫には真っ先に向かうということを繰り返します。

野菜室は、冷蔵庫の一番下にあり、かがまないとドアを手前に引けませんし、さすがに泥のついたジャガイモなどを食べようともしませんでした。
ただ、油断は大敵なので、極力泥付きの人参などを買うようにしていました。

問題は、冷凍庫です。
冷凍庫は父にとっては、お腹の手前あたりの高さにあり、すぐにドアを引き出せます。
中には冷凍の餃子とかハンバーグなどが入っているから、父はそれらを取り出し、食べようとする。

普通は電子レンジに入れて解凍したり、熱して調理しようとするはずですが、プロパンガスコンロの自動点火をつけて、なにやら冷凍食品をどうにかしようとする。
あるいは、お湯をわかそうというつもりか、わけのわからぬ鍋窯を持ち出してきて、台所でゴソゴソする。

プロパンガスは事故が多いから、結局はガスの元栓を締め、ヘルパーさんや私が料理するときだけ、開栓するようになる。

それでも、冷凍庫から父は冷凍食品を取り出すことそのものをやめない。
冷凍食品は包装にカラフルな餃子やハンバーグや焼き魚などの写真が大きく印刷されているから、父にとっては是が非でも食べたいという食欲を逆に刺激する。

そこで、やむをえず、私は万が一のことも考え、あらゆる冷凍食品や隠している調味料容器にラベルをベタベタと貼ることにした。
ラベルにはマジックで大きく「猛毒!食べるな!」「危険!ネズミとり用毒入り食品」などと大書する。

しかし、それでも父は「毒入り食品」を平気で食べようとする。
文字が目に入らないのか、入っても意味がわからないのか、効果はまったくない。

とうとう、私は自分とヘルパーさんが台所にいない間は、茶の間と台所の境界線に、トランプ大統領の移民予防鉄壁ならぬ、椅子と家具のバリケードを積み上げることにした。

父は、簡単には台所の周辺に立ち入れなくなる。
冷蔵庫にも近づけない。

これなら、完璧だと思っていたのもつかのま、夜中に父がゴソゴソと茶の間で動き回っている。そう、バリケードを取り除こうとしていたのだ。

アメリカの壁も効果はほとんどなかったらしいが、椅子や小型の家具では父が、移動して台所に侵入するのを防げないのだった。

こうなると台所戦線異状なし?異常あり?
来る日も来る日も、第1次世界大戦の塹壕戦のように、果てしない侵入と防御線の消耗戦に突入する。

椅子や小型のラックなどでは簡単に戦線を突破されるから、重くて大きな茶の間のテーブルを横に寝かせて防御陣地を強化する。

すると、父は、重いテーブルを少しずつずらして、冷蔵庫側のテーブルの端っこを、移動することで狭いながらも台所に侵入するのだった。

では、どうするか?
防衛上の重要拠点は冷蔵庫だ。
仮にバリケードを突破されても、冷蔵庫の扉があかなければいいだろう。
さっそくインターネット検索をして、冷蔵庫に付ける鍵を買ってみる。
まあ、鎖で冷蔵庫をぐるぐる巻きにする原理だが、自転車の鍵と同じように番号を合わせないと冷蔵庫をあけられない。

これは妙案だと思ったが、どういうわけか、我が家の古い冷蔵庫にはうまく施錠ロックができない。部分的には有効だった。両開きの冷蔵用の扉は、ぐるぐる巻きにすれば、開かなくなるが、もともとここは空っぽだ。意味がない。

では、手前に引き出す冷凍室はどうか?
これが、なかなか技術的に難しく、ロックをひっかける方式とかあるが、うまく機能しない。では、どうするか?
一歩でも前進したい。塹壕戦の兵士たちと同じ気持ちだ。

やむをえず、台所シンクの下に隠してある調味料の両開き扉のとってに、自転車方式の鎖と施錠をしてみる。
これならば、冷蔵後がダメでも、シンクの秘密基地は死守できる。

さらに、我が家には1階の父用冷蔵庫のほかに、2階に私と妻用の冷蔵庫があるから、1階の冷凍庫の中身は、全て2階の冷凍庫に移動することにした。

そのおかげで、2階の冷凍食品は父用のものに侵略され、父が好きな餃子やハンバーグなどが進駐軍として冷凍室を占拠してしまう。
歯が弱くなってきた父用の徳用冷凍ひき肉大袋などを入れると、私や妻が入れていた冷凍豚のこま切れ肉やら、牛肉の切り落としといった非加工食材などを入れるスペースが少なくなる。などと、戦時中の耐乏生活ならぬ、ほしがりません(父の暴食が)おさまるまではということになった。

私は父の介護をつきっきりで行えない。妻の通院・リハビリなどで家を出ることも少なくなかったからだ。

私がいない間は、父が茶の間で虎視眈々と暴食行動の機会をうかがっている。
ヘルパーさんは夕方の1時間しか来ないし、一日おきだから父をひとりにしておく時間が悩ましい。

ヘルパーさんもたいへんだ。
「こんにちは、お父さんお元気ですか?」と我が家の玄関から入ってきたヘルパーさんは、先ずバリケードをずらす。
次に、シンク下の秘密貯蔵庫の扉の施錠を解錠する。
忘れないように、暗証番号を父が見えないところに、私が貼っておくので、それを見ながら、「え〜と、3,8,いくつだったかな、ああ、4,0」などと解錠する。

ようやく、シンクの下から食材を取り出して料理の準備をする。
ガスの元栓をあける。
あぶないからといって茶箪笥の高いところに置いたチャッカマン(点火具)を背伸びして取り出し、ガスコンロに火をつける。このころは、自動点火の具合が悪く、ときどき着火できなかったから、点火器具を併用していたのだ。

「猛毒!危険!」などとラベルが貼られた食用油や私がしまっておいた食材を使って料理をする。「立ち入り禁止!」「入るな!」などと大きな張り紙が貼られている台所の、換気扇のスイッチを入れる。。。。

など、など、初心者には覚えきれないほどの秘密のルーティーンをこなさねばならない。

そんなこんなで、とにかく悪戦苦闘を果てしなく繰り返す。
ヘルパーさんは半ばあきれ、半ば当たり前化する我が家の日常に順応してゆく。

だが、本質的解決には、ほど遠い。

そもそも、父の食欲をどうにかしなくてはならない。
あまりに、貪欲な父の暴食行動を管理しなければならない。

そこで、私は、生活圏内の医療福祉関係者がお手上げで、ネット情報もその場しのぎの他人事みないなものばかりだから、自分で抜本的な解決策を見出そうと決心した。

先ずは、長い間の私の疑問を解決しよう。

それは、こういうことだ。

★そもそも、認知症で暴食異食行動をする人は、どちらなのかを見極める必要がある。

《仮説1》胃袋が破けても、吐き出してでも「無限に食べるのか?」。石でも土でも「無差別に何でも食べるのか?」ということだ。

つまり認知症が「身体的制約を超越した食行動を際限なく突き進ませるのか?」ということだ。
もし、この仮説が真実ならば、世の中の認知症家族は絶望的な戦いをしていることになる。

《仮説2》胃袋がいっぱいになれば、「これ以上は無理だ」と食行動を中止するかも知れない。見かけ上、食品と判断しにくい犬の餌(コーンフレークなどの菓子に似ている)や、化粧石鹸(カラフルな包装紙に包まれた洋菓子に似ている)などをたまたま父が空腹時に手に取り、食べようとしたが私が発見して取りあげたのだから、実際には食べられないとあきらめた可能性もある。マヨネーズやケチャップは調味料だから、おいしいと感じて食べようとすること自体は石や土を食べるほどの異食行動ではない。

つまり認知症が「身体的制約を超越した食行動をとることはない」という予想だ。
「お腹がいっぱいになれば、しばらくは落ち着いている」「マヨネーズやケチャップは百歩譲って仕方ないとして、石や土を食べるほどの無差別的な異食行動は犬猫ですらしない」という希望の持てる予想だ。

もし、この仮説が真実ならば、世の中の認知症家族は「空腹感に襲われて異常行動をとらない程度に適度な食事管理を行えば必ずしも満腹感を常態化しなくても、適度な量と時間のコントロールでなんとかなる」という希望が見いだせる。

《実証実験》私はこの実験をした直後、訪問看護士に注意された。「お父さんを実験台に使わないでください」と。
でも「あなたたちが、適切な解決策を明示してくれないから、やむをえずしたんですよ。現実を把握せずに、対策など立てられません」と心の中でつぶやいた。
たしかに、ここまでやる介護家族は少なかろう。
しかし、曖昧にしたまま問題を先送りしてばかりはいられない。
そんな思いで、ある日、私は父とテーブルをはさんで、向かい合わせに座り、いよいよ世紀の大実験を始めたのだった。

先ず、父に夕食を自由に食べさせる。
「どうだい?おいしいかい?」
「うん、おいしいね。」
「えんりょしなくていいから、どんどん食べていいよ。」
「これは何かな?おやじが好きなサバのみそ煮だよ。残さず食べるんだよ。」
「おお、わかった。これはうまいな」
などと楽しく夕食を食べ終える。

私は時計を見る。
食器を洗ったり、犬の餌をあげたりして1時間後に、再びテーブルをはさんで私は父と向かい合う。

「おやじ、お腹がすかないかい?」
「うん、ちょっと、小腹がすいたな…」
「よし、デザートがあるよ」といって、バナナやあんぱんや牛乳などを出す。
「オッ!あんぱんか。おいしそうだな」
父は喜んであんばんを食べ始める。
しばらくして父は食べ終える。
「バナナもあるよ。牛乳も飲んだ方がカルシウムがとれていいよ」と言って両方差し出す。
「おお、バナナか、おいしそうだな」
父は大きなバナナの皮をむいて、パクパクと食べ始める。
ときどき、牛乳を飲む。
私は牛乳の入ったコップに砂糖をまぜておいたので、父は甘い牛乳もごくごくと飲み終える。
こうして、父は夕食とデザートを完食した。

私は2階にあがって自分と障害者の妻の夕食の支度をする。
「あなた、まだ残っているわよ」などと、妻が声をかけるのを背中に聞きながら、私はおかずが口に入ったままそれを咀嚼しつつ、階下に再び向かう。

茶の間では、父が満腹になって、テレビの前でうたた寝をしている。
かれこれ2時間近くたったろうか、私は父を起こす。
驚いた父は目を覚ます。

時計は夜の9時ころをさしている。
再びテーブルをはさんで私は父と向かい合う。
「おせんべがあるよ。食べるかい?」
「オッ!いいねえ。」
「これは薄焼き塩せんべいだから、親父でも簡単に噛めるよ」
「そりゃいい、食べるか」
父は細かく割った塩せんべいを口に入れ、やや食べにくそうだが溶けやすいので目をつぶっておいしそうに食べて飲み込む。
「甘砂糖でくるんだせんべいもあるよ」
「そっちもいいな、食べるか」
再び、父は細かく割った甘口せんべいを口に入れ、やや食べにくそうだが溶けやすいので目をつぶっておいしそうに食べて飲み込む。

こうして、父は第1回目の夜食を完食する。
大袋のせんべいを、かなりの枚数完食したことになる。

私は再び2階に上がって食器洗いをする。
生協の宅配注文書などに目を通したりして1時間ほど過ごし、また、階下におりる。
夜の10時を過ぎると父は眠くて普段なら寝室のベッドの中で高いびきをかいている時間だ。

しかし、この日は違う。
私は父を揺り動かして目を覚まさせる。
「オッ!ここはどこだ?」などと父は寝ぼけている。

またまた、テーブルをはさんで私は父と向かい合う。
「のどが乾かないかい?牛乳があるよ!」
「う〜ん、牛乳かあ」
「ほら、お砂糖も入れてあげるから飲みなよ!」
わざと父の目の前で大げさに砂糖をコップの牛乳に入れてかきまぜる。
「そうかあ、おいしそうだな」
「バナナもあるよ。一本食べるかい?」
「そうだな。食べるか」
こうして父は第2回目の夜食を完食する。

父はバナナや甘い物が大好きだ。
私は事前に大きなバナナを一房まるごと買ってきてある。
それを一本ずつ父に食べさせるのだった。

私はまた2階に上がる。
妻と私の布団を敷き、妻が布団の上でテレビを見ている間に、はみがきをしたり、妻が通うデイサービスの連絡ノートに、家族の一言を記入したりする。

夜の11時ころになると近隣は静まり返っている。
私は妻に「眠くなったら先に寝ていてね」と言い置き、階下に降りていく。
父は椅子に座ったまま寝ているから熟睡して上半身が傾きかけている。

またまた、テーブルをはさんで私は父と向かい合う。
「きょうはね。特別におやじにプレゼントがあるよ。」
「なんだ、プレゼントって?」よだれを拭きながら父は眠そうな赤い目をようやく開き、元気なく尋ねる。
「見てごらんよ!ジャンボあんぱんだよ!すごいだろ!」
今晩は父の好物の絨毯(じゅうたん)爆撃だと私は心中密かに意を決している。
「こりゃ、バカでかいね。食べてみるか」
「そうそう、食べたほうがいいよ。夜中にまたお腹がすかないように」と、
このあたりから、私は少し自分の実証実験が父をだますようで良心の呵責を感じ始める。

「甘いね」とか言いながら、父はちぎったあんぱんを食べ始める。
心なしか勢いがない。
「粒入り北海道のあずきだよ。すごいだろ」などと、父を一口でも多く食べるよう勧誘/誘導/甘言の限りを駆使する。
「おなかがいっぱいになってきたな。おまえも食べないか?」と、父は音を上げ始める。
「おれはいいよ。あんぱんよりクリームパンが好きだから。」などと言い訳になるような ならないような慇懃無礼(いんぎんぶれい)な応答をする。

父は食べるのがだんだん遅くなってくるから、私はテレビのニュース番組を見たりして、根気よく父が食べるのを待つ。というより観察する、というより監視する。

とうとう、父はジャンボあんぱんも完食する。
「ふー。大きかったなあ」などとため息をつきながら父は下を向き いねむりを始める。

もう夜中の12時過ぎだ。
私は2階に上がって妻の様子をうかがう。
灯りは消され、妻が寝ている。
私は様子を確認すると、すぐに階下に向かおうとする。
まだ寝入っていなかった妻が、私に声をかける。
「あなた、明日が早いから、いいかげんにして寝たら?お父さんも眠いんじゃない?」
「わかってるけど、今晩は大切な日なんだ。途中でやめるわけにはいかない。とにかくあなたこそ先に寝ていてね」と言い置き、私は下の茶の間に向かう。

またまた、テーブルをはさんで私は父と向かい合う。
「麦茶があるから飲まないかい?口がさっぱりするよ」
「おお、おおそうか…」
父は食欲よりも睡眠欲が増大していて手ごたえが少なくなる。

「それ飲む前にトイレに行こうか?だから、起きてよ!」
私は無理やり父を起こして、よちよち歩く父をトイレに連れていく。
紙おむつをしているから、必ずしもトイレに行く必要はないが、今晩は日ごろの父の暴食の敵を討つかのごとく私は実証実験という錦の御旗のもとにミッションの遂行を目指しているから、トイレで紙おむつを新しいものにはきかえさせ、父が大量に食べたあとのことを考え、もう一枚余計に紙おむつをはかせる。二重奏だ。

夜行列車に乗ったつもりで、またまた、テーブルをはさんで私は父と向かい合う。
明日の朝までは、父と向き合って真剣勝負だ。。。

「おやじ、甘い物ばかり食べちゃ体に悪い。大豆たんぱく質が必要だ」
などと屁理屈を並べ、奴(やっこ)豆腐を器に盛り、大きなスプーンで父に食べさせる。
「プリンより栄養もあるし、食べやすいだろう?」
「う〜ん、もういいや。食べたくない。」
父は弱音を吐き始める。

「こんなもの、フニャフニャで腹にたまらないから、食べてごらんよ!」
などと私は父にあの手この手で豆腐を1丁食べさせる。
ここまでくるとムリムリという状態だから、私は自分の背後に悪魔がささやくような自分との戦いになったことを自覚する。

こうして夜中の1時、少し間をおいて2時、少し間をおいて3時と、私は徹夜を覚悟で父と向き合い、無理やり用意したバナナや牛乳や軽い菓子類などを次々と父に食べさせていった。

父は、「もう食べられない。お願いだからアンパンは向こうに置いておいてくれ。あした食べるから袋はやぶらないでくれ。。」などと哀願し始める。

私は無理矢理は非人道的だから、父が泣きを入れたらストップし、10分か15分したら、少しずつ父に食をうながすというコマメな調整を繰り返した。

父は眠気もあるし、直前に何を食べたかも覚えていない認知症状だったから、毎回の少しずつの食行動が毎回リセットされて父にとっては、目の前に出されるバナナのひとつまみ、あるいは、アンパンのひと切れが、初対面のごちそうになるような間隔で、実験を続けていった。

父も可愛そうだが、私も眠気と根気という相反する意思の力だけでミッションを淡々と遂行した。夜中の3時も過ぎると、自虐的になった私は「ここらで、きりあげようじゃないか。何事もホドホドというじゃないか。最後の最後までやる必要なんてないじゃないか」と自問自答しては、また、気を取り戻して父に「初めてのジャンボあんぱん」をちぎって手渡しするのだった。

とうとう4時半近くなると、父は精魂尽き果てて「もう、食べるのはいいから、寝かせてくれ!」と懇願を繰り返す。
私も目頭が熱くなるのをこらえ、「ああ、よく頑張ったね。さあ、寝よう!」と父を寝室に連れて行き、前後不覚状態の父をベッドに寝かせ、パンパンに張れたお腹を上に向け、父が深い眠りにつくのを悲しい気持ちで私は見つめていた。

私は「家族にこんなことをさせなければならない現代医療や福祉関係者の怠慢は許せない」と一方で怒りながら、「だからといって、ここまでやる自分は許されるのだろうか」という良心の呵責に打ちのめされ、眠気以上に精神的に追い込まれた状態で、私は2階に力なくあがり、はやばやと朝刊の配達をするバイクの音を遠く聞きながら、眠れぬ眼を閉じた。

うとうとしているうちに目覚ましが鳴り、朝7時の役所のベルがスピーカーから聞えてくる。
私は重い体を起こし、ゴミ捨てに行ったり、朝食の支度をする。
妻が朝食をとっている間に、私は階下に寝る父を強制的に起こす。

実はこれからが重要だからだ。

毎朝、父は8時に朝食をとり、テレビドラマを見る生活をしている。
私は父にご飯を盛り、みそ汁を置き、卵焼きやら骨をとった焼き魚などをテーブルの上に出す。
顔を洗わせ、父を茶の間のテーブルの前に座らせる。

まだ寝たりない父も、温かなご飯やみそ汁の臭いをかぎ、ようやく朝ごはんを食べるべく箸を手にとった。

《仮説1》が正しいなら、一夜あけた父は、昨夜から深夜にかけて夜食を食べ続けたという記憶は認知症のおかげで全く失われている(リセットされている)から、いつものように「いただきま〜す!」といって朝ごはんをモリモリ食べるはずだ。
身体的には食事ができないほど「おなかがいっぱい」の状態でも《仮説1》が正しいならば、「食欲に身体的制約は影響せず、いつものように貪欲に食べる」はずだ。

《仮説2》が正しいなら、いくら深夜に食べたことを忘れているからといって、身体的には食事ができないほど「おなかがいっぱい」の状態だから、「食欲に身体的制約は影響し、いつものように貪欲に食べられない」はずだ。

結果は苦労のかいがあった。希望の光が見えた。

「おやじ、早く食べないと冷めちゃうよ!」
「うんん。なんだかお腹がいっぱいで食べたくないんだ。」

おお、そのことばをどれほど聞きたかったか。。。
私の良心を犠牲にして強行した実証実験は見事に《仮説2》を立証したのだった。

以後、私は父が暴食を重ねない程度に「3回の食事の分量を適切に調整管理する」という方法論を試行錯誤して確立していった。

世の中のネット情報などでは、お腹がすいたといったら、お菓子を食べさせたりして気をまぎらわせるとよいなどと小手先のその場しのぎ的なことを書いてあるが、私はヘルパーさんと相談し、毎日毎日、3回の食事だけで「そのときの父の適量」を調整してゆくことにより、ほぼ完璧に父の暴食行動を管理することに成功したのだった。

もしも、この記事を参考にされる方がおられるならば、1つだけ注意点がある。

それは、父だけでなく多くの認知症の方々が、日に日に、時々刻々、春夏秋冬(季節ごと)と、「絶えず変化してゆく」ということを肝に銘じてほしい。

施設の食事などは、多くの入所者を相手にするから、私と父のように、オーダーメード的に食事の量や内容をコマメに調整することが難しいだろう。

だから、「Aさんはこれこれ」「Bさんはこれこれ」と固定的に決めつけてしまいがちだ。
しかし父の行動を見ても、暴食行動自体には波があることを覚えておいてほしい。

異常に貪欲になり部屋中を探し回る時期もあれば、うそのように落ち着いて三度三度の食事をきちんと食べる時期もある。

父の場合は、母が元気で一緒に暮らしていた時期は、しょっちゅう「つまみ食い」をしていた。テーブルの上には菓子や みかんが盛られた皿やカゴが置かれていた。
だから、ヘルパーさんが夕食を作ってくれても、二人ともお腹がいっぱいだということも珍しくなかった。

この時期は、犬も一緒になってテーブルの下でお菓子などを食べていたから、犬はどんどん太り、ミニチュアダックスなので足が短いため、太ったお腹が地面すれすれにつくほどメタボ犬になっていた。

だから、長年のこうした食習慣も考慮しなければならない。
父の暴食行動は、表面的に認知症の一つの典型的症状と早合点せず、実は「つまみ食い習慣」を踏襲しようとした父が、私とヘルパーさんの食事管理下において、手持ちぶさたを解決する術もなく部屋中を探し回っていたとも解釈できる。もちろん空腹感がなければ「たべもの(おつかみ)」さがしはしない。

認知症が暴食に拍車をかけたかも知れないが、少なくとも父は長年の「つまみ食い習慣」の延長に「おやつを隠された」という未経験の「新しい習慣」に適応できずにいたともいえるのだ。

家族介護はこのように、家族の生活履歴から食習慣の見直しがしやすいのと異なり、施設などでは入所前の個別の入所者の長い家族歴の一部としての食習慣の見直しはしにくい。
当たり前だが家族でない職員は、せいぜい家族から間接的に入所者の食習慣を聞き取り調査するくらいが精一杯だろう。だが渦中の家族は目の前の暴食行動に困惑し、客観的な参考情報を伝える冷静さに欠くことも多い。聞き取り調査の協力者が平常心でいれれないというバイアスがかかっていることも考慮した。

私は介護生活卒業者だから上述のような記述ができるが、かく言う私自身があたふたしていたのだから渦中の家族の提供情報を妄信しないことも職員の技量となる。

ましてや、私のように心を鬼にして実証実験など施設職員にも普通の介護家族にもできるはずはない。
(できた自分は愛の化身か、それとも意地の悪い頑固者か?)

逆に言えば、すでに心の時効とはいえ、私のように必死になって父の認知症と正面から対峙し、克服しようと初志貫徹するほどの家族は異例だったのかも知れない。
せめて、この投稿をお読みになった読者は、何らかのヒントを拙文からお汲み取りいただければ、少しは私も亡き父も報われるということでしょう。

2021.10.12.


[9] 題名:認知症と性欲と純愛 名前:カッパ URL 投稿日: 2021/10/10(日) 20:59

認知症と性欲と純愛

認知症という呼び名は、症候群に対する便宜的な医学用語と考えます。
若年性もあれば、アルツハイマー型認知症もあれば、それ以外もあります。
人の数だけ顔があるように、認知症にも十人十色の違いがあります。

ですから、これから書くことはあくまで私の家族を中心とした一例であり、認知症と診断された人をまとめて決めつける粗暴な意見でないことは前置きしておきます。

私は経験上、知識欲や好奇心といった物事に興味や関心を寄せる脳内の機能あるいは部位が、性欲をつかさどる機能あるいは部位と密接な関係にある気がしてなりません。

父の介護は数年に及んだから、朝から晩まで、入浴介助から排便の世話まで累計数千日の父の身体的観察もしてきました。

どこかに手や足をぶつけて父が気づかぬうちに、内出血をするなどということは日常茶飯事でした。当然わたしは父の服を着替えさせたり入浴の介助をするたびに、父の全身を観察しました。

先の掲示板投稿で「知識欲や好奇心といった物事に興味や関心を寄せる」時期は、父の認知症が軽度であった。「知識欲や好奇心といった物事に興味や関心を寄せなくなった」時期は、父の認知症が重度へ進行したとテレビや新聞を例にあげて書きました。

次は性欲に対しても書かないわけにはいきません。
シニアの性欲も、まさに十人十色です。

80歳代になっても現役でアダルトビデオに出演している女優さんもいれば、閉経と同時に、あるいは出産子育てを機にセックスレスになる女性もおられます。
男性も同様です。

では、少なくとも私の父の場合はどうだったか?
父がキャッシュカードの4桁の暗証番号を忘れてしまい、年金を引き出せなくなったことがきっかけで、母から懇願され私が父母と同居介護するようになってから、正直言て大きな驚きが1つありました。

私は子供のころから父と銭湯に毎日通い、旅行に行っても大浴場で父の立派な**を見慣れていました。興奮しなくても、それなりの立派な**を父は持っていました。

男子小便器の手前の床を濡らさぬようにと、病院の男子トイレ壁に「朝顔は両手でささえ一歩前へ」などとユーモアのある川柳?がときどき貼られています。ご丁寧に絵入りもある。

絵はたいがい朝顔の花が開いた状態ではなく、しぼんだ状態で風鈴などの絵と一緒に書かれていて、上手な絵だなあなどと感心しながら用足しをしている最中は見とれたりします。

そこで、この文章では、しぼんだ状態の父の**を「朝顔」と言い換えます。
これは、父の**が認知症を発症し私が同居介護するようになってから、死に水をとるまで終始一貫して私が気にしていたことです。

それは、かつて健康で元気だったころの父の「朝顔」が、見る影もなくしぼんで、小さく、しなびた状態だったということです。
しかも、一日として、一瞬として「朝顔」は、膨らんだりしたことがなかった。
うっかりすると見過ごしてしまうほど「朝顔」は退化したように縮小していたということです。

恐らく人間は目や耳から入る情報に好奇心や興奮を覚えることが多い動物だから、テレビや新聞やヘルパーさんに興味も関心も示さなくなっていった父の認知機能と「朝顔」の縮退現象は見事に合致していました。

では、父以外の認知症の男性はどうか?

これは、近所の認知症の夫や父を介護したご家族も話したがらない。
一人だけ例外がありました。

近所で民宿を営んでおられるシニア女性の場合です。
ご主人をすでに亡くされてから月日は経過し、お子さんたちも立派に成人して家族を構えておられる。
たまたま、このシニア女性は、私と同じ「はなし好き」なので、気心が通じやすい。

そこで、うかがった彼女の話によれば、女手一つで民宿を営んできた関係上、東京から泊りに来た若い宿泊客のグループが夜すこし騒いだりして、ご近所から苦情が来た時期があったという。

今は全くそんな話はなく、ご近所の方々が喜んでテイクアウトの惣菜を買いに来ています。
ですから、ご主人を亡くした彼女が必死で民宿を軌道に乗せようとしていた時期のことです。

ある時、ご近所のシニア男性から手紙が来た。
その男性は、校長だか教頭だかをしたことのある方で、近隣住民からも品行方正で教養もある人格者として知られていたそうです。

女性が手紙を読み始めると、「貴殿の顧客、近隣住民に迷惑をかけたること、はなはだ遺憾なり。。。」などと古風な書きだしで始まる改善要求の手紙だったそうです。

民宿を営むシニア女性は、丁重におわびをし、再発防止につとめることを約束して月日が過ぎたそうです。

ある日、過去に手紙をくれたそのシニア男性と民宿の玄関先で、ばったりと対面したそうです。

その男性は見る影もなく老衰した風貌で、奥様が寄り添いながら散歩をしていた。
ところが、男性のよろける足を見た瞬間、民宿の女性は驚いたという。
男性はズボンもはかずに朝顔を露出した状態で立っていたというのです。

付き添いの奥さんに事情を尋ねると、どうやら認知症が進行した男性(ご主人)は、足腰が弱いにもかかわらず奥さんが目を離した間に、家から外に歩き出してしまったらしい。

そして、奥さんが、ちょうど、民宿の玄関前でご主人を捕まえたところだという。
「これから家に連れ帰りますから、きょうのことは内緒にしてください」と頭を下げられたという。
しばらくしてそのシニア男性は、高齢者施設に入所し、職員に介護される生活を送って亡くなられたそうです。

心配した民宿の女性がお見舞いに行くと、なかなか入所中の男性に会わせてもらえないという。
あとから、奥さんが打ち明けるには、入所中の施設のベッドに座り、男性は四六時中、朝顔の自慰行為を繰り返していたので、困っていたとのことだったそうです。

この場合、どの程度の認知機能と性欲が相関関係にあったかまでは聞けませんでしたが、福祉関連施設内での入所者同士や職員に対する性的行動は今や公然の秘密を通り越して、最も慎重な扱いを要する喫緊の課題にまでなっていると聞きます。

これが日本の現実です。

ここで、私が考えるのは、100歳になっても女性職員に抱きつこうとする男性入所者はいますし、認知症の有無や程度などの個人情報が、ほとんど公開されていないために、水面下で対処されようとしていることがどうなのか?ということです。

家族にとっても口外しにくいデリケートな問題です。
高齢のシニア男女同士が、入所施設内の自分たちのベッドで、抱き合っていたり、キスし合っていることがタブーなのでしょうか?

もしかしたら、いくつになっても人間は異性に魅力を感じ、生きる意欲を持ち続けられ、女性はお化粧や身だしなみに気を配り、少しでも好きな男性に魅力的な女性として接してほしいと考えることがタブーなのでしょうか?

ここには、夫婦問題や独居老人問題や家族の遺産相続問題など「社会的な問題」が重なってきます。
ただ、シニアの恋愛は私はあってもよいと思います。
さらに、ここで書きたかったことは、ただ1つ。

認知症の有無にかかわらず、シニアの恋愛権は尊重してほしい。

仮に父が身体的生殖機能が失われていても、認知症の軽度時期には、母の好きな「氷川きよし演歌」をテレビで見せたいという愛があったし、母がやせ衰えベッドに寝たきりになっても、死の間際まで父は母の掛け布団をなおしてあげようとしていました。

そして、病院のベッドで母が息をひきとる瞬間まで、母の両足を父は両手でさすりながら、「おかあさん、ありがとね。ありがとね。」と何度も声をかけていました。
この時の父は認知症が中程度から重度へ移行していたのにです。

このことは、私のホームページの第1号(創刊号)に詳述したので繰り返しませんが、父の生涯の晩年を身近に見てきた私にとっては、次のことを感じました。

父は、少なくとも認知症になってからは朝顔はしぼみ、再び膨らむことも開花することもなかった。テレビや新聞やヘルパーさんにも性的な好奇心はおろか、外部刺激全体に対する関心や興味(好奇心)も薄れていった。

しかし、母が意識のある間は、もっといえば、母の死の直前まで、父は母に対する「純愛」の気持ちを抱き続けていた。なぜ私があえて「純愛」ということばを書いたかといえば、父は純粋に母をいたわろうという気持ちしかなかったからだ。
私のように世間体や利害関係などという愛には不純な情報を持ち込んだりしなかったからだ。

このことは、私の父母に対する敬愛の情を(記憶の)宝物とするに充分すぎるものだった。
私は四半世紀に及ぶ家族の介護生活をしてきて、こんなに感動的な真実を目の当たりに体験できただけでも介護で自分が成長できたと信じている。

介護生活には新たな発見がいくらでもあるのだった。
家族がいなくなった今だからこそ、その四半世紀が「かけがえのない宝物」だったことに感謝する。
人生は捨てたものじゃない。

送れるものなら、今もう一度、あの介護生活を送ってみたい!
今度こそ、もっと上手に家族との日々を送れるだろう。

苦しく切ないかも知れない。
でも、でも、「介護生活?いや、もう一度!」と心底願う。

どうか入院患者や施設の看護・介護をされるみなさま。

症状によってはやむをえず、ベッドに縛り付けたり、「つなぎ」と呼ばれる拘束衣を着せたりしなければどうしようもない現実も一方であることは承知しています。

でも、シニアを十把一絡げにしないでください!

あるいは絶望的と思いつめた家族介護に疲れ果てているみなさま。

看護・介護は永遠には続きません。

気持ちのゆとりを持つことは難しいかもしれませんが、若いロミオとジュリエットの物語もあれば、シニアのロミオとジュリエットの物語もあることを忘れないでください。

2021-10-10-<(_ _)>


[7] 題名:父母はこうして認知症が進んだ('x') 名前:チビカッパ URL 投稿日: 2021/10/10(日) 16:15

父母はこうして認知症が進んだ('x')

認知症はシニア世代当人や子や孫の家族にとって悩みの種の1つだ。

ときどき、役所のスピーカーから「行方不明のお知らせ」が聞えてきて驚く。
「えっ!60歳そこそこで認知症を発症したの?」
「70歳代の行方不明者は、あいかわらず後を絶たないなあ」
「80歳代以降は出歩く元気もなくなるのかなあ?」
と。

認知症は以前は「ぼけ」と呼ばれていたが、差別用語だとして「認知症」というかっこのいいことばに置き換えられたが、実態が変わったわけではない。

認知症は症候群だから、原因も症状も多岐にわたる。
ただ、私の場合は、父母の一挙手一投足を介護してきたので、いかに世の中の専門家が実態を知らないかも感じている。

施設職員や福祉関係者は「しごととして複数のお年寄」をまとめて見聞きしているから、家族の絆とか愛憎とか深いかかわりはしていない。

そんなかかわりをしていたら、いくら涙腺や毛の生えた心臓を強化しても追いつかない。
一定の距離を置くからこそプロなのだ。

私に言わせれば、対岸の火事とまではいわないが、いざという時に親身になって理解しあえる人材はわずかである。
親身になれる人は、たいがい家族介護の経験が大なり小なりあることが多い。

誰にも分かる形で、我が家の父母の認知機能と家族愛・夫婦愛の関係をご紹介しよう。

私が同居して本格的に父母の介護生活に入った時期は、両親は見かけ上は良好な夫婦生活を何とかやっていた。ヘルパーさんなどの社会資源を利用していたおかげもある。認知機能の一部を肩代わりしてサポートしてくれていたのも大きい。

今回はテレビを一例としてとりあげてみよう。

1.夫婦愛から来る茶の間のテレビ番組の初期段階は、一日中つけっぱなしのテレビ放送の中で、父が時々チャンネルを切り替えていた時期だ。

ある時間帯では、午後のサスペンスドラマの再放送を毎日、父は見ていた。
母はヘルパーさんと長話をしたりして殺人事件を毎日見ている父の存在は意識していない。

夜のゴールデンタイムや隙間時間に再放送される歌番組は、父が「お母さん、氷川きよしが出ているよ」と母優先の番組選局をしていた。

ちゃんと父は長年愛読してきた『読売新聞』のテレビ番組表をチェックし、適宜、殺人事件とズンドコ節を切り替えていた。

2.少し事態が悪化してきたころのテレビ番組。

私は非常に不思議に思うことが増えた。NHK教育テレビの子供番組を、長々とかけっぱなしにする時期が続いたからだ。

長い人生で、父母が子供番組のアニメや着ぐるみの映像に興味を抱くとは意外だったのだ。
ところが、観察していると、事態は深刻であった。
興味があってテレビを見ていたわけではなかった。
なんとなくスイッチを入れると子供番組が流れているのを、つけっぱなしにしているだけだった。

母は慢性腎臓病が悪化し、強度の貧血からソファーに横たわったまま天井を見て過ごすことが多くなっていた。
ズンドコ節どころではない。

父は認知症が進み、新聞のテレビ番組表をチェックすることもしなくなっていた。
それどころか、以前はすみずみまで読んでいた新聞そのものを読もうという意欲が失われていた。

どういうわけか、父は犬や猿の着ぐるみが飛び跳ねたり、歌ったりする子供番組をつけっぱなしにするようになった。

不思議なのは、私がNHKのニュース番組などに切り替えておいても、不思議と子供番組に逆戻りする時期が少しの間はあったが、その後は父がチャンネルを切り替えるという行為は皆無に近くなった。この時期は長かった。

今でも理由はわからないが、テレビを「見る」という興味が失われつつあった時期は、何やら父の目の前で激しく変化する画像や騒々しい歌や子供の叫び声に、かろうじて注意を向けることもあった程度だったのだろう。

テレビの前でいねむりをするほうが多くなり、時々目覚めては「ちらっとテレビの画像」に注意を向ける程度だったようだ。画像の変化と音の変化に、チラッと目を向ける程度だった。

好奇心からテレビ番組の「内容」に興味や関心を示す時期は去り、たまにテレビに耳目を向けるというルーティーンだけが形骸化して残存していたのだろう。

子供番組は映像や音の変化は確かに大きい。
政治討論などよりは注意をひきやすいという程度だったのかも知れない。

3.いよいよ私にとっての失望落胆の日々がやってくる。
母は入院死亡してしまい、父は一人で茶の間のテレビの前にやることもなく、居眠りをしている状態に陥った。

1の時期には、毎朝カレンダーに父はマジックで過ぎた昨日の日付を斜め線で消し、今日は何月何日何曜日ということを自己チェックしていた。

2の時期以降は、カレンダーの存在も忘れてしまった。
そして3の時期も注意深く思い返せば、認知症の重度症状のテレビと新聞に対する素行に微妙な変化があった。

私は介護生活費を節約するプレッシャーと常に戦っていた。
母が死ねば母の年金収入はなくなる。
父の認知症の進行にともない、紙おむつ代や、訪問リハビリ、ヘルパー、認知症薬など逆に出費は急速に増えていく。

そこで、私は姑息な節約方法を試みた。

姑息な経済政策の第1段階:

全国紙『読売新聞』よりも、地方紙『静岡新聞』のほうが購読料は安い。
こっそり、知らんぷりをして毎朝テーブルの上に置く『読売新聞』を解約し、『静岡新聞』を父の目の前におくことにしたのだ。

何十年も父は巨人軍と『読売新聞』を生活習慣の中心に置いてきた人だ。
もしも『静岡新聞』に置き換わっていたら、どれほど烈火のごとく父は怒るだろうと私は内心ひやひやだった。

ところが、父は『静岡新聞』を広げ、「読むふり」はしたが、もう記事に関心もなく、文字も読むわけでもなく、なんとなくテーブルに置かれた新聞「紙」を広げるという生活習慣をかろうじて、「なぞっている」に過ぎなかった。

オウムは意味のわからぬ「こんにちは」を叫ぶ。父は意味のわからぬ「紙の束」を広げた。

つまり、テレビも新聞も、見るふりという形骸的な行動習慣をかろうじてやっているだけだった。

テレビも新聞も1〜2分で見なくなり、あとは両腕を組み、足を投げ出して一日中いねむりをする生活になっていた。

私やヘルパーさんに起こされたら、驚いて目を覚まし、ご飯を食べる。
時々、ヘルパーさんに「お父さん、サスペンスドラマにしましょうか?」と尋ねられると見向きもしないで生返事をする。
テレビは見ず、黙って目をつむり、ご飯を食べる。

この時期は、そうは長くなかったと記憶する。

姑息な経済政策の第2段階:

私と妻が愛読する『朝日新聞』の前日か、前々日の古い新聞を父のテーブルに置くという、骨太の財政再建策を私が実行した時期だ。

『静岡新聞』もタダではない。安いとはいっても家計の節約には痛い。
だから、『静岡新聞』を解約し、『朝日新聞』の前日分を父に読んでもらおうという魂胆だ。
どうせ、読まないんだから、一日や二日古くても大丈夫だろうという私の下心だ。
だいたい、政府の骨太の財政再建策だの全世代型社会保障費の改善だの大げさなスローガンの裏には裏事情があることは見え見えなように、私の家計節約策は、父の認知症の進行に付け入った姑息な手段だったのだが、私は介護家族として愛があるから、良心の呵責に悩む。
政治家は悩まず国債を増発する。内閣秘密費でわけのわからない浪費をする。
どっちがマシか?
五十歩百歩の裏事情だが、国家財政のほうは、私のような庶民の裏事情に比べれば巨悪に近かろう。蟻と巨人の関係だ。きみらが介護保険や年金をダメにした張本人ではないかなどと叫んでも仕方がない。

脱線したが、認知症が重度に進んだ時期には、父はテレビのスイッチを入れていようがいまいが無関心、新聞が何であろうが置かれていようが置かれていまいが無関心、外部刺激に無頓着で注意力すら散漫になってゆくという状態になってしまった。

1の時期がなつかしい。
テレビのリモコンが見つからないと大騒ぎをしていたこともあった。

『読売新聞』のテレビ番組表に、父がラインマーカーで事前チェックをし、殺人事件やズンドコ節や巨人軍のナイター試合や、あれやこれやに興味を示し、内容を自分の脳裏にインプットしようとしていた時期がなつかしい。

新聞受けから私が茶の間に『読売新聞』をとどける途中、こっそりとチラシを抜き取っていた時期がなつかしい。父がチラシの通販で、デジカメだのタラバガニセットだのと電話注文しまくっていた時期が私のトラウマになって、父にはチラシを見せないという時期があったが、そんな1の時期は牧歌的な家族愛に満ちていたのだった。

余談だが、ときどき、週刊テレビ番組表の裏面に大きな通販の広告が印刷されていることがあり、私は父が広告に気づかないかどうかおびえていた時期もあった。
しかし、そんな1の時期は、悲しくもおかしもある懐かしい思い出になった。

2の時期は子供番組でも構わない。テレビのスイッチを入れようとする意欲が残されていただけでも3の時期よりはマシだった。

☆教訓:
「ものごとに関心を寄せなくなったら要注意!」

「何かをしようという『意欲』がなくなったら要注意!」

「もしも、今のあなたが、何かにつけて『おっくう』がっていたら要注意!」

「自室に閉じこもって外界との接触が減って来たら要注意!」

少なくとも私の周囲にも、孤独なシニア男性の認知症予備軍が多い。
早く警鐘を鳴らさねば!

「ダメですよ!家にばかり閉じこもってちゃボケちゃいますよ!」と。

残念ながら父は上述した経緯の「自覚」を「一度も」感じなかった。
それが認知症の恐ろしいところだ。

だから、今日も行方不明者の役所のスピーカーは鳴り続けるのだろう。

2021-10-10-(^^♪


[5] 題名:歯と血はシニアの人生を左右する 名前:チビカッパ URL 投稿日: 2021/10/10(日) 09:52

歯と血はシニアの人生を左右する

喜寿の祝い(77歳)が歯の分水嶺らしい。
昔は数え年だったから、76歳あたりが歯の分水嶺となる。

政府は8020運動を推奨する。
80歳でも20本の自分の歯を持つことが健康の証というわけだ。

2020年の統計記事を見てみよう。
(引用開始)
8020運動が開始された当初、「8020」を達成している高齢者(後期高齢者:75歳以上)は10人に1人にも満たない状況でした。 しかしその後「8020」達成者の割合は増加し、最新の全国調査(平成28年歯科疾患実態調査)では、75〜84歳の51%が達成してることが示され、今後も増加することが予測されています。
(引用終了)

私は父母が90歳という人生の分水嶺を境にして明暗を分けたことを思い出す。
母は87歳で亡くなったので、人生の分水嶺は越えられなかった。
父は94歳で亡くなったので、人生の分水嶺は越えられた。

父母には1つ違いがあった。
母はかなり早い時期から入れ歯生活だったことだ。
父はかなり歯が丈夫だったということだ。

つまり、母は歯の分水嶺も越えられていなかった。
父は歯の分水嶺を越えていたということだ。

では、父は歯の健康に気をつけていたか?
まったく父は無関心で運転免許を返上する前まで父が運転するクルマに乗るのが私は嫌だった。歯槽膿漏で口臭がひどく、狭い室内に父の口臭が充満しているのが耐えられなかったからだ。

しかし、歯医者によると、本来は正しい歯磨きや、歯の定期健診などを心がけるべきだが、父のように全く歯に無関心でも、そこそこ入れ歯にするほど歯槽膿漏が悪化しにくい人もいるということだった。

思い起こせば、父は火葬場職員に市内でも稀に見る骨の丈夫な人だと驚かれるほどだったから、恐らく歯のほうも人並み以上に丈夫だったのだろう。

父は建築一筋の人生だったから、私が幼いころは、職人さんたちと酒は飲む、たばこは吸う、大声で下品な歌を歌うという豪快なタイプだった。歯磨きもへったくれもない。

母の遺伝を引いた私は、痩せっぽちで虫歯だらけの気の小さな子供だったから、父や職人さんに囲まれて、「どんぶりばちゃ、浮いた浮いた、ステテコシャンシャン!」だの、「三島女郎衆はのおおおおおええ、三島女郎衆はのおおおおおええ、ええ、三島さいさい、女郎衆は〜お化粧が長い。お化粧長けりゃのおおおおおおおおおおおええええ、」と、いつまでも終わらぬの「ノーエ節」の酒盛りに有難迷惑なピエロ役をさせられるのが嫌だった、となるはずだが、けっこう楽しかった(笑)

「ぼうず!」「おまえも飲め!」
「だめだ!まだコノコは未成年だぞ!」
「だったら、うまいものがあるから、これを食え!」と、興がのると、おやじの出番だ。

なんと、親父はキリンビールの瓶を片手に、勢いよく歯で硬い金属の栓をこじあけて、瓶のビールを飲み干してしまうという芸当を、しょっちゅうやっていたくらいだ。
気が荒い職人さんたちも、これには驚き、みんな拍手喝采だった。

だが、父も寄る年波には勝てず、認知症で私の介護を受けるころは、前述のように歯槽膿漏が進み、私が強制的に歯をみがかせていた。

もっと、認知症が進むと歯ブラシを持たせても歯をみがくこともままならなくなった。

それでもヘルパーさんたちが驚くほど歯は残っており、肉でも魚でもモリモリ食べていた。
喜寿を越えてから、一度、父の歯がグラグラするからというので、歯医者に連れて行ったら、差し歯が1本あったくらいで、他は全て自分の歯だった。

しかし、80代も後半にさしかかったころからだろうか、歯槽膿漏で歯が抜け出すと崖を転げ落ちるように歯を数本ずつまとめて抜くことが多くなった。
ご飯を食べていて、「あれ、なんか出てきた」と口から抜けた歯を摘まみだすことも少なくない。
あれよあれよといううちに、総入れ歯になってしまった。
こうなると認知症も進むし、ご飯も食べにくいから食事の時間もかかるし、元気もなくなってきて、楽しみにしていたテレビのサスペンスドラマも見なくなり、新聞も読まなくなり、すっかり意欲がなくなってしまった。

これほど歯の健康というのは老後の生活の質を左右するのだと生き見本の父を見て思い知らされた。

同時期に老いた犬も歯槽膿漏で歯が抜けだした。
動物医院の医師によれば、ミニチュアダックスフントはあごの骨が弱く、放置しておくと歯茎からあごの骨までが歯周病菌におかされ、腐ったあごを、ちょっとした所に軽くぶつけた程度でも複雑骨折をしてしまうという。

そうなると、犬はあご(実質的な食べるための口全体)が使えず、飲み食いもできずに死んでしまうという。

それはかわいそうだというので、ぼろぼろと抜け落ちて餌箱のまわりに散乱する犬の歯を見ながら、動物病院で手術してもらう決心を私はした。

なんと、犬の場合は残された歯を抜くには全身麻酔を行い、獣医師の中でも抜歯経験と設備のある専門の病院で行う必要があるという。費用だけでも十万円以上かかる。犬には健康保険がないからだ。

1泊2日、それに加えて点滴栄養補給などで、1週間ほど入院させなければならなかった。
そちらの費用もバカにならない。

手術入院が終わり、犬を病院にひきとりに行くと、エリマキトカゲのように首のまわりにラッパ状の覆いをつけている。
エリザベスなんとかという麗しい名前の保護シールドがないと、手術後のあごの保護ができないというので、しばらくは帰宅後も世話のかかるものだった。

いやはや、人も犬も歯は老後の生活を左右するといって過言ではない。

もっと、切実なのは「老人性貧血」だ。
知人のミカン農家のご主人が膝と腰が痛くて、手術を大学病院ですることになったが、半年も手術ができずに困っているというのだ。

理由は、「老人性貧血」のため、普通の整形外科的な手術なのに、手術自体ができないほど貧血がひどいからだという。

話をきくと、大学病院には他にも手術をしたくてもしてもらえない「老人性貧血」の人たちがおおぜいいるというのだ。

かくいう私も若いころからの貧血で、健康診断ではいつも「経過観察」と指摘される。「女性の基準なら合格なんだけどね」といった軽度の慢性貧血だ。

しかし、これだけ栄養状態の良いはずの日本に暮らしていて、多くのシニアが貧血のために手術ができない「手術待機予備軍」を形成しているという現実は、もっと世の中のシニアは知った方がよい。

では、自分が貧血かどうかを判断するのはどうしたらよいか?
簡単だ。
鏡を見ながら、片目ずつ「あっかんべー」をして、下のまぶたの内側を見ればよい。
毛細血管が生き生きと「真っ赤っ赤」なら問題はない。
薄いピンク色や、真っ白に近い状態なら間違いなく貧血だ。

貧血はあなどれない。
治療が案外難しいのだ。
単に鉄剤を処方して飲むだけで治る人は稀だ。

実は貧血を治すには、充分な栄養をとり、ライフスタイルを根本から変えるくらいの覚悟が必要だ。睡眠不足も運動不足もよくない。

つまり、貧血傾向の人にとって、貧血は健康的生活のバロメーターだということだ。

貧血傾向でない人も、安心はできない。
シニア世代には、特有の基礎代謝の低下その他の「老化」という大敵が潜んでいる。
去年は大丈夫だったから、自分は貧血なんかじゃないと高をくくってはいけない。

厳粛な真理をお伝えしよう。
老化は崖を転げ落ちるように進行する。
歯槽膿漏や貧血も老人性の場合はあっと言う間に悪化するということだ。
個人差はあるが、老化は確実に、驚くほど「瞬時にあなたの体を衰弱」させるということだ。
耳と目の老化も、骨と歯と血の老化も、程度の差こそあれ、例外なく万人におとずれるということだ。

私の母も父も例外ではなかった。
もちろん、私も例外ではない。(^^♪

健康を祈る!

2010-10-10(^^♪


[4] 題名:耳目は老後を左右する 名前:チビカッパ URL 投稿日: 2021/10/08(金) 11:57

耳目は老後を左右する

四半世紀近く家族介護をしてきた経験からシニア世代に共通する課題をひとつ書きます。

耳と目の検査は定期的に行いましょう!

老後の健康的な生活、心身の健康を保つには第1列島線ならぬ第1検査線があります。

耳の検査は、市区町村や会社の健康診断では軽視されています。

せいぜい行っても簡単な聴力検査程度です。

しかし、聴力検査にもいろいろあり、耳鼻科医に診てもらう場合は、どの周波数のどの方向とか、精密な聴力の状態が分かります。
また、糖尿病や腎臓病や口腔外科的な大きな病気が隠れていないか?
耳鼻科的な病気が隠れていないかをしっかり診察してもらえます。

先ずは、私の体験上、悪化した場合の事例をひとつだけあげます。

それは、「自分の後ろから誰かに声をかけられて気づかない」状態になれば、自然回復が難しい中程度の耳の健康不安があるということです。

買い物の途中で、駐車場や狭い道路を歩いていて、背後から無茶な運転をして近づいてきたバイクなどに気づかず、ちょっと体を横方向にスライド移動しただけなのに、バイクと衝突して複雑骨折してしまい、寝たきりの生活に追い込まれるような危険も高まります。

目の検査もたいせつです。

できれば、毎年一回は眼科医院で、一通りの専門的検査を受けましょう。
単なる視力検査のほかに、視野検査や眼底の毛細血管の異常や出血をみる検査など、数種類の検査が行える設備を整えた病院がおススメです。

どの程度の規模の眼科医院がよいかといえば、お住いの地域の多くの中高年齢層と学童の両方の世代が頻繁に出入りしていることが、1つの目安です。
さらに、毎日のように複数人の白内障手術や血管系の標準治療(眼球への注射や照射治療など)を行っているような中程度の規模以上の病院がよいでしょう。
大学病院のような総合病院もありですが、先ずは地域の事実上の中核的眼科専門医院が最初に尋ねるべき「かかりつけ医」です。

日本人の多くは白内障は程度の差こそあれ、罹患しています。
ただ、歯槽膿漏・歯周病と同じで、40歳代でも罹患しているが、自覚症状があらわれるほど進行してしまうのが、ちょうど70歳代から80歳代のシニア世代だということです。

白内障のレンズ交換手術は成功率も治癒率も高く、手術後のみなさんは、メガネがいらなくなったとか、世の中が、こんなにハッキリ見えるなら早く手術しておけばよかったと言われます。

一方、緑内障や眼球の奥の毛細血管(網膜など)にかかわる病気は発見が難しく、自覚症状も感じにくいため、目が見えにくくなってからだと手術や薬の治療は、「これ以上目が悪くならないようにする」ためという消極的な治療手段しか残されない場合が少なくありません。

私の父は片目が緑内障による視野狭窄(片目の視野の下半分が見えなくなる)で、手術も2回やり、毎日、目薬などを使って進行を止めようとしましたが、悪化は止められませんでした。

その結果、階段を下りるときなど、片目しか見えないし、遠近感がつかめないので、片足ずつ、さぐるようにして段差を確認し、おそろしいほど「ゆっくり」しか階段を降りることができなくなりました。
最終的には誰かに片腕を抱えてもらい、階段の途中でころばないように支えてもらわないと歩けなくなりました。

このように、目の病気は、歳をとるほど生活に支障を生じる恐ろしい病気だという認識を持つ必要があります。
人間の情報の60パーセントから80パーセントは視覚情報といわれています。
つまり、人間は「目に頼ることが圧倒的に多い」動物なのです。
犬のように目が悪くても嗅覚で生存情報を充分に補える動物とは違います。
うさぎのように、聴力で生存を確保できる動物とも違います。

つまり、人間は目を第1とし、耳を第2とする複合的なセンサーに頼って生きる動物なのです。

父母も妻も聴力が歳をとるにしたがい、急激に衰えました。
普通に会話していても、「エッ、エッ、…」と、聞き返したり、テレビの音のボリュームを大きくして、わたしのように聴力健康人間にとっては、うるさくて仕方がない状態になっていきました。

本人たちは茶の間で後ろから声をかけても気づかずにいます。
電話の相手の声も「エッ、エッ、…」と、聞き返したりします。

明らかに生活上の支障が生じていますが、耳鼻科に行こうとしません。
あまり、私がすすめると怒ることさえありました。
「耳が遠い」という事実を認めたがりません。

早期検査、早期治療が病気の原則です。
耳の病気も完治は難しいですが、最近はハイテクの補聴器が次々と開発され、「こんなことなら早く耳鼻科で診てもらえばよかった」というシニアも増えています。医学と技術の進歩はすばらしい。

それより、もっと重要なことを書いてしめくくります。
父母も妻も「認知能力が劇的に低下しました。」
考えて見れば、当たり前です。

日々、私たちは五感を通じて膨大な情報をインプットしています。
それを前提に認知機能を保持しています。

なのに、肝心の目や耳からの情報が、健康な人ならば、100パーセント感じられるはずの外界情報が、30パーセントとか40パーセントしかインプットされなかったなら、どうなるでしょう?

そうです。
認知機能も急激に低下し、さらには、意欲も低下します。
刑務所の独房で長い間生活した人が、認知症のような症状に陥ることは知られています。
袴田事件の袴田さんは、体は丈夫なのに、認知症患者に似た言動を繰り返します。

このように、視覚聴覚(センサー機能)という「からだ」の健康のみに問題を矮小化せず、認知機能という「心」の健康にも問題を広くとらえることが必要です。

認知症の診断を受けた父と違い、妻は「自分はだいじょうぶ」と言い張っていましたが、亡くなる数年前から、「二三年前に、自分が言っていたことを忘れる」とか、「思い違いを頑なに押し通そうとする」などといった性格が変わってしまったのかと疑うような症状が散見していました。

特に「独り暮らし」のシニアは、気づくことが難しいですから、どうか、定期的に目と耳の専門医による検査をしていただきたいと強く願います。

最近増えている「独り暮らし老人のひきこもりや鬱」というのは、案外、こうした「耳目」にも一因があるかと推定しています。

「耳目(じもく)に触れる」という慣用句があるほど、「耳目」の健康は老後の生活の質(QOL)を左右するというお話しでした。

2021.10.08.


[3] 題名:黒いタオルはタオルじゃない! 名前:チビカッパ URL 投稿日: 2021/10/07(木) 16:25

黒いタオルはタオルじゃない!

四半世紀近く介護生活をした私にとっては、思い出し笑することが多い。
青色のクルマの話から連想をしたできごとがある。

父の認知症が進んで中程度になった時期、父と私で激論を交わしたことがある。
今から思えば、あまりに大人げなかったから記憶のかなたに消えかかっている。

それは、私が介護者として膨大な洗濯物に追われていた時期のことだ。
父には、いつも白いタオルを持たせていた。
よだれがひどくなり、たれた唾液が着ているTシャツの胸元やズボンに沁みていたため、せっかく洗って干したTシャツやズボンが唾液だけのために、いつも汚らしく見えていたからだ。

ヘルパーさんが来ても、汚れたTシャツやズボンを見られるのが嫌だった。
いかにも男手ひとつで父の身の回りの世話に無関心だと思われたくなかったからだ。

唾液は普通なら透明だから、それほど衣類を汚すはずはないが、父は食事中も食後も常によだれをたらすから、食べ物の色が唾液に混ざり、予想以上にTシャツの胸元や太ももの上あたりのズボンを汚してしまうのだった。

ある時期は父がテーブルの上に置いた白いタオルで、口元をぬぐったり、教えてもいないのにお行儀よく首のまわりに巻いたりしていた。
ヘルパーさんが手を貸してくれていたのかも知れない。

認知症には大きく分けて2つの段階がある。
何とか自主性が残っていて、父が自ら、タオルで口元をぬぐったりできる段階が初期だ。
後期になると自主性は失われ、着せ替え人形のように、まわりの人がなすままに、身を委ねてしまう段階が来る。

では、初期段階で父がなんとかタオルでよだれの汚れをどうにかしようとしていた時期は介護する私にとって楽だったかといえば、必ずしもそうとはいえない。

介護経験者が戸惑うのは認知症の家族が想定外の行動をすることだ。

父は、完璧にはほど遠いものの、形だけでもよだれを拭いていた。
何もしないよりは気持ち的に救いがある。

ところが、食事中も食後も、少なくなった髪の毛をタオルで拭いたり、テーブルの上に落とした食べ物を拭いたり、余計なところまでタオルを使いまわす。

果ては、犬の餌入れをタオルで拭いたりもする。
こうなると洗ったばかりの100円ショップで買ってきた白いタオルは、あっという間に汚れてしまう。

つまり、膨大な洗濯物に占めるタオルの割合も一向に減らない。

認知症の父が多少は意志を持って動き回っていた時期と重なったため、うっかりするとヘルパーさんが台所のシンクや扉などを拭き終わったダイブキンを持ってきて、口をぬぐってしまったりする。

父は片目が網膜奥の出血や緑内障により、視力と視野を失いかけていたから、ものがよく見えない。見えずらい。

だから、テーブルに予め置いておいた「よだれ用の白いタオル」を、なんかの拍子に足元に落とすと、椅子の下にあるタオルに気づかず、タオルがないぞとばかりに台所に出かけて行って、ダイブキンをタオルがわりにするのだった。

以前は、歯槽膿漏でほとんどの歯を失った老犬の餌のそばにも、老犬がドッグフードを食べ散らかした後を拭く雑巾を餌箱のそばに置いていたが、まかり間違えると父は犬用の雑巾で口を拭いたりして平気でいることすらあった。

一度、父の目の前のテーブルの上に、タオルかダイブキンか雑巾が鎮座ましますと、父は肌身離さずそのどれかで、よだれを拭いたり、髪の毛をぐるりと何度も拭いたり、テーブルの上を拭いたり、親切にも犬の餌箱を拭いたりするという悪循環に陥る。

仕方ないから、私はしょっちゅう100円ショップで白いタオルセットを買ってきて補充する。テーブルの上には、白い新品もしくは洗いたてのタオルが2〜3枚常備されることとなる。

これだけ準備しても、一日のうちに、何回か、白いタオルは紛失したり、ダイブキンや雑巾と入れ替わっていたりする。

いったい進駐軍の補充物資より多いかというほどの大量の白いタオルはどこに消えるのだ?

あきれるやら腹が立つやらで、私は白いタオルの捜索をしょっちゅう行う。
捜索結果は多岐にわたる。

多くは、父のベッドの枕の下やベッドの下にタオルがまるめて潜んでいる。あるいは打ち捨てられたように隠れている。

父は寝癖はそれほど悪くないが、必ず枕を縦置きにしたりして寝ながらテレビを見たりラジオを聞くことが多い。
すぐに寝てしまったりするが、先ず被害程度が軽く発見しやすいのは、枕の下敷きになった数枚のタオルということになる。

ベッドへの移動のときにも、パジャマズボンのお腹まわりにはさんだタオルが、ひょいとベッドの下に落ちたりする。
一度落ちたものは父にとってはこの世界に存在しないものになってしまう。
単に視力低下が原因でなく、タオルが落ちたことに気づかないという注意力の低下、果ては、タオルを茶の間からズボンに挟んでベッドまで来たという記憶が失われつつあるから、落ちて目の前から見えなくなったものは全て存在していないも同然となる。

たまに掃除機をかけていたりすると、勢いよくスリッパの下とか、ベッドの下に落ちたタオルを吸い込みかけて予想外の発見をすることもある。

今度は被害程度が重くなる場合の例だ。
そう、トイレの床の上に落ちていたりする場合もある。
正確な時期は忘れたが、わがやのトイレは洗っても拭いても父が、排泄物を床に落としてしまう「落とし物です。忘れ物です。そこのあなた!」といった状況もあるので、洗濯機の向かいのトイレは、タオルの墓場になりかねない。

気持ち的にはまだ使えると思っても、いつしか白いタオルはトイレの雑巾に様変わりする。

こんな具合で、白いタオルは、常に「汚れたタオル、影武者のごとく変身する雑巾、行方不明者の捜索結果、白いタオルとして現役復帰可能な場合と、引退して雑巾に左遷される場合など、いずれにせよ短命となる。」

そんな時期に、私は不純なアイデアを思いついた。

これは日本の財政再建同様に小手先の「その場しのぎ」だが、何か危機打開策の知恵を絞り出すという無駄な抵抗的なドン・キホーテの気持ちに私は襲われたのだった。

それは、100円ショップで「黒いタオル」を買って来るという妙案(珍案)だった。「黒い」タオルなら「汚れが目立たない。」
もしかしたら、洗濯も多少は手抜きができるかも知れない。
もしも、毎月10枚も20枚も「白いタオル」を買っていたとして、それが黒くて汚れの目立たないタオルなら3枚でも5枚でもいいから、買うお金を節約できるかも知れない。

これまでは、異次元の金融緩和ならぬ「異次元の白タオル緩和」で、部屋中にお醤油や魚の骨やドッグフードのついた「見かけ上の白いタオル」が、散乱していたが、「黒いタオルによる財政健全化」計画も4本目の矢として我が家の家計に貢献するかも知れない。

「無駄な抵抗はやめよ!」と今の私なら大所高所に立った骨太の死生観から介護真っ最中の過去の私にアドバイスしてあげられるのだが、人間は思いつめると藁をもつかむおもいで妙案(珍案)を実行に移したのだった。

これまで父の周辺に置かれていた白いタオルは一斉に引き上げられ、全て黒いタオルに置き換えられた。

こころ密かに私は我が家の財務省官僚になったかのごとく、心の中で自画自賛していた。

父が目を覚まし、寝室から茶の間にやってきた。
テーブルの上にたたんで置かれた数枚の黒いタオルを見て、父は私にこう叫んだ。
「おい。タオルがないぞ!」

私は何食わぬ顔で「目の前にあるだろ!」と父に答えた。

すると、短気な父は、「これか?こんなのタオルじゃない!」と黒いタオルをつかみながら、私にくってかかる。

「何を言ってるんだ?色が違うだけで立派なタオルだろ!」
私は平常心を少し失う。国会答弁に窮した財務官僚の気持ちがよくわかる。

「こんなのダメだ!白いタオルを早く持ってこい!」
声をあらげる野党議員のように父は興奮してくる。

「白いタオルでも黒いタオルでも、みんなタオルだ!」と、どこかの国の偉い人が語ったとされる名言に近いスローガンをはからずも私は口走る。

「こんなのはダメだ!」
「使ってもらわなければ困るんだ!」
などと、大の大人が真剣な論争を繰り広げ、その間も、父の口元からは大量のよだれが飛散する。

結局は私が涙をのんで引き下がる。
「わかったよ!これでいいだろ?」と、洗濯機の中から何枚かの白いタオルを取り出してきて父の前に置く。
「なんだ、タオルはあるんじゃないか。さっさと出せばいいんだ。。」
ああ、また、元の木阿弥かと私は黒いタオルに無駄な財政出動をした浪費の結末に失望感を感じた。

あの、高揚感は失望感へと転落してしまった。

しかも、感情的になった余韻が収まらない。
父は認知症のおかげで、健康だったころの怒りを根に持つような執拗さは低減しているから、思いのほか精神的回復は早い。

しかし、私は高ぶった怒りが、くすぶっている。

しかし、しか〜し、捨てる神あれば拾う神あり。
今度は不純な動機にはじまった財政再建策が、一縷の望みを残していることに気づいた。
「そうだ!台所のダイブキンをこの黒いタオルで統一しよう!」
私は2枚ほどの黒いタオルをたたみ、知らんぷりして台所のシンクの脇に置いておいた。

しばらくして、ヘルパーさんが、やって来た。
1時間ほど食事の支度や茶の間・寝室・トイレの掃除などを手際よくやってくださった。
連絡手帳に「きょうもお元気で食欲もあります。」などと書き、父が食べ終わった小皿を台所で手際よく、洗ってくれる。
「じゃあ、あとは、お願いしていいかしら?」といつものように言いながら、私が置いた黒いタオルを以前のダイブキン同様に使って、シンクまわりを拭いたりしている。まったくタオルが白から黒になったことに特別の感情を覚えることはない。

さっきまで、私は黒いタオルに特別の感情というより怒りと失望感を感じていたのに、無頓着に黒いタオルを使って帰宅しようとするヘルパーさんのそぶりに、気の小さな私は、こう思うのだった。
「やれやれ、黒いタオルにも出番があってよかった」とため息とともに、「でも、基本的なことは何も解決していないよなあ…」と、あらたな感慨にふけるのだった。

ところが、一度あることは二度あるとはタオルにもいえる。

そもそもが黒いタオル導入には私の不純な動機があった。
財政再建とか異次元のタオル緩和などと掛け声だけが勇ましかったが、実質的な成果は部分的だった。

では、どうするか?
ホームセンターに激安紙おむつ特大セットを買いに行った時のことだ。
場所が場所だから、通路には「ぞうきんセット」も置かれていた。
見ると「けっこう白い」。
しかも単価計算すると100円ショップの白いタオルよりも若干安い。

「そうだ!白いぞうきんを再導入しよう!」
父には黒か白かが大きな問題であり、白ければ雑巾でもわからないだろう。。。

この結末は、あまりに私の良心がとがめて書けない。

こんな平凡な介護の日々は、急激に父の認知症が進んだため、つかのまの悲喜劇に終わってしまった。数か月か、へたをすれば数週間で、予想もつかぬ新たなフェーズに移行してしまったのだ。

では、あの時の騒ぎは何だったのか?
姑息な考えに私自身が良心の呵責にさいなまれたりしたあの時期は何だったのか?

母も父も妻も亡くなってしまった今の私にとっては、全てが「なつかしい」思い出となっている。

半世紀近くも家族の介護を最優先に暮らしてきた私にとっては、「渦中の試行錯誤と悪戦苦闘の日々」が、たまらなくいとおしい。

今は、ヘルパーさんも訪問看護師もケアマネージャーも誰も我が家の茶の間にはいない。

「祭りの後」ということばがあるが、私にとっては、
ローマ市民のグラディエーターや、ギリシャ悲喜劇の野外劇場の遺跡みたいな空疎な静けさの中で、あいかわらずドッグフードを食べ散らかす老犬に餌をやる日々を送りつつ、やがては訪れる私の終末人生を、ふと思うのだった。

作り物のテレビドラマ以上に、ドラマチックな介護生活を送ってきた私は「うそっぽい脚本や政治答弁」が「黒いタオル事件や白い雑巾の誘惑」以上に琴線に触れることはほとんどなくなってしまった。

ある意味で人生の老いと終末期という濃密なドラマを必死に伴走した当事者として「老後の不安」などという漠然とした恐怖心を超えた達観にも似た心境に今はいるようだ。その時が来たら受け入れるだけのことだ。何をガタガタ騒いでいるのだ?

のど元過ぎれば熱さを忘れるというが、なんともタオルの色で一喜一憂していた自分が、ふてぶてしくも達観などとは、あまりにも「おこがましい」ではないか?(笑)
2021.10.07.


[2] 題名:人の気持ちは【千変万化】 名前:チビカッパ URL 投稿日: 2021/10/07(木) 12:15

人の気持ちは【千変万化】

妻が倒れて左半身マヒの障害者生活を送ることになった当時のこと。
中途退職金のほとんどをマンション購入費と室内のバリアフリー化に使いました。
中堅マンション販売会社が県内でも初めてという本格的バリアフリー改装をし終の棲家のつもりでお金と精力のほとんど全てをここに注ぎました。

残された蓄えから、当時はまだ珍しかった障害者対応の自家用車を買うことにしました。
予算からいえば、マツダのファミリアかなにかがリーゾナブルで妻も半分はこの車の購入に傾いていました。

私はマツダよりも高いが、長く乗るものだし、車でも最善のものにしたかった。
幸いにもトヨタが、ラウムという画期的な普通乗用車を販売したばかりでした。

他のメーカーの障害者対応自家用車は、もともとが普通の乗用車の一部を改良したものだったので、マツダを含めて、ほとんどの車はトランクに車椅子をたたんで寝かせて入れる方式でした。
これだと、運転者の私が、いちいち「よいしょ」と持ち上げる必要があり、歳を取ったら腰を痛めるかもしれないと一抹の不安が残りました。

その点、ラウムは通常の量産モデル自体が、お年寄や体が弱ってきた人にも考慮した「乗る人にやさしい配慮がほどこされている」画期的な設計思想から作られていました。

私はトヨタの設計思想に感動し、値段的にはマツダより高い物の、長く乗るつもりだったので、このクルマに決めました。
当時のラウム販売にかけるトヨタの良心がすばらしかった。
先ず、ドアの開閉が車椅子から乗り降りしやすくなるよう、思い切って広く開くようになっており、助手席に妻を乗せやすいように、椅子が私の指一本で回転できました。

妻は麻痺のない右手で、ドアを開けた室内の窓周辺にバランスよく配置された手すりをつかまって、自分でも腰を浮かした体を支えやすくなっています。
老父母が通院するときも、これらの手すりは必ずにぎるほど、ちょうどよい場所に配置されていました。
もちろん、座席がゆっくり回転するし、足は折り畳みの足置きプレートに乗せられるので、回転中も安心です。

椅子にはさらに麻痺した腕を受け止めてくれる折り畳み式のひじ掛けがついており、私は冗談半分に「あなたは重役席、ぼくは運転手席」とジョークを飛ばすほど隅々まで気配りが行き届いていました。

そして、このクルマの圧倒的な便利さは、いちいち後ろのドアを開けてトランクに車椅子を「よっこらしょ」と持ち上げて乗せたり下ろしたりする必要がなかったことにあります。

予め注文しておけば、車椅子を折りたたんだ時の補助ホイールが飛び出した厚みに合わせ、数センチ後部座席を短くしてくれるのです。

後部座席と助手席シートの間に、ゆったりしたスペースが確保でき、私はたたんだ車椅子をそのまま転がして、わずかに車椅子の前輪を低床の後部座席足元スペースに、「ほい」と収めることができます。
これは長い間このクルマを利用しつづけ、一番ありがたい機能でした。

せっかくなので、オプションで後部ドアの内側に電動小型ウインチをつけてもらいました。
これも優れものでした。
スイッチひとつで電動ウインチのホックを昇降できるので、車椅子も楽々トランクに積み下ろしできます。
これなら腰を痛める心配もない。

ただ、後部座席の足元に、スムーズに折りたたんだ車いすを出し入れできたので、この電動ウインチはほとんど利用する必要はありませんでした。
しかし、いざというときの安心には貢献しました。

妻もこのクルマを気に入り、最後にクルマの色を決めようということになりました。
私は常識的には無難なメタルグレーみたいな色でいいと思っていましたが、カタログ見本を見つめる妻の目は満足していない様子が読み取れました。

そこで、試しに「この青い色も美しいからありかもね?」と鎌をかけると、
妻は「ほんとう?私もこれが一番いいと思っていた!」と大喜び。
私は想定外の色でしたが、妻が長い障害者生活の足代わりに使うクルマなので、妻が気に入ったのなら、それもよかろうと青に決めました。

納車され、車椅子ステッカーをピカピカの青いクルマの後部に貼り、いよいよ長いクルマとの生活が始まりました。

長い長い妻の闘病リハビリと私の介護生活は常に青いトヨタ・ラウムを中心に暮らしてきたといっても過言ではありません。

そうこうするうちに、一度だけラウムはモデルチェンジをしたものの、販売数は人気車種に比べればはるかに少なく、あまりに「人にやさしい地味すぎる車種」として製造は中止され、もう古くなったからと言って買い換えることはできなくなりました。

妻にとっても私にとっても、乗りなれた青色の初代ラウム障害者対応モデルは、すでに私たちの移動の相棒を超え、不可欠な存在にまでなっていました。
たとえていえば、箸と茶碗と移動時のラウムといった感じです。

途中何回か大きな部品交換なども行い、ひたすらラウムを長生きさせることに私たちは第2の精力とお金を注ぐことになりました。

そして、いよいよ妻が不治の末期がんを宣告されるころには、ラウムも歴戦の勇士といった魂を持ったペットかなにか、いや、それ以上の存在になりました。

私は妻がラウムを必要とする間は、どんなことがあってもこのクルマをメンテナンスして乗り続けようと決心していました。

そのころ、私にはラウムに対する葛藤が芽生えていました。
妻に万が一のことがあったら、自分はおそらく青いラウムを見るのが辛くなるだろう。
喜びも悲しみもともにしてきた、このクルマを見るたびに私は妻を失った現実に耐えられなくなるだろうという不気味な予感です。

たまたまメーカーの部品保管期限が過ぎても、車検会社のかたが、あちこち電話して交換部品を取り寄せてくれたりして、かろうじてラウムは車検に合格してきました。
これも綱渡りみたいなものでした。

そうした事情だったから、車検会社の社長さんは、新しい軽自動車に買い換えたらどうか?
「変な話、奥さんが亡くなられたら、それを機におススメの軽自動車に買い換えて気分転換をされたらどうか?」と強くアドバイスしてくださる。
売り上げのこともあるでしょうが、私の心中を察して、善意でアドバイスしてくださった。

私はそんな迷いを抱えながら、とうとうある日、吐血に苦しむ妻をラウムの助手席に乗せ、私は妻を入院させました。妻は二度と戻ってくることはありませんでした。

クルマは6か月ごとに定期点検があるので、妻の死後、私は悲しみと向き合いながら、漫然とラウムを運転して買い物にでかけたりしていましたが、車検会社の担当者に、私は点検の日に、意外なことばを口にしました。

「妻を亡くす直前は、青いラウムを見るたびに妻のことを思い出すのが恐くて、耐えられないだろうと本気で思っていた。だけど、妻が亡くなって半年以上経つと、逆の思いが強くなった。それは、妻の遺品が家にあるけれど、それらと違って、このクルマこそが妻と私の長い生活の中心にあったといっても過言ではない。落ち着いて考え直すと、『この最大の妻と私のふたりだけの思い出を失いたくない』という気持ちでいっぱんなんだ。どんなことをしてもこのクルマだけは乗り続けたい。」と、目頭が熱くなるのを感じつつ話すと、若い修理担当者も、
「お客さんの気持ちは私にも痛いほどわかります。奥様とお客さんの思い出がつまったラウム、ぼくらができるだけの全力をかけて、メンテナンスしていきますよ!」と私の顔を凝視する。

車検会社の社長さんは、黙って背中で私たちの会話を聞いている。

このとき、つくづく「ああ、いい人たちだなあ」と私は感謝の気持ちが湧いてきた。

「でも、おたくの会社がすすめてくれた限定軽自動車とかは。。。」と私が言いかけると、
担当者は「そんことどうでもいいですよ!それよりもお客さんの気持ちが何より大切です。ぼくらは修理できるうちは、この大切なおクルマをメンテナンス修理させていただきます。まだまだ、このおクルマは大丈夫ですよ…」と私を励ましてくれた。

人の気持ちは千変万化。
妻の死の直前まで愛車を手放そうとしていた私は、今、こうして妻の分身であるかのごとき愛車が、名実ともに「愛車」であったことに遅まきながら気づいたのであった。
2021.10.07.


[1] 題名:【ごあいさつ】みなさん、はじめまして (^^♪ 名前:チビカッパ URL 投稿日: 2021/10/05(火) 14:25

【ごあいさつ】みなさん、はじめまして (^^♪

この掲示板は、私が今年(2021年)の7月に公開を始めた個人ホームページ(https://13579.jp)のご感想を聞かせていただいたり、ご感想に私が学ぶ点などをご返事させていただく目的で設置しました。

どうぞ、宜しくお願い申し上げます。

私は昨年、父と妻を相次いで亡くしました。
数年前に母を亡くしたので、今は17歳の老犬とともに毎日を送るシニア独身男性です。
子供はいません。

昨年12月に妻を亡くして以来、この掲示板の初投稿日(10月5日)まで約10か月が経過しました。

親しい知人、友人、親戚などから励まされ、表現することで癒しと前向きな気持ちを得ることができています。
ありがたいことです。

7月の創刊号は私の苦悩と楽観の軌跡の始まりでした。
記念すべき第1歩です。
以来、毎月1回のペースで3回の更新を重ねることができました。
世の中に「3号雑誌」ということばがあって、すぐに休刊してしまう雑誌の代名詞として使われています。

私のホームページは近刊の第4号を公開することで、電子月刊誌的なつもりで作ってきた一人ホームページも最初のハードルを超えられそうです。

そこで、今まで限られた知人や友人のみなさんとの間で、事実上内部公開的に発信してきたホームページに、徐々に人の輪を広げて一方的な情報発信でなく、双方向的な意見や感想の交流を行えればと思い、おそるおそる掲示板にチャレンジすることにしました。

自己紹介は、これくらいにして、興味のある方は、私の『個人ホームページ』 https://13579.jp 「ソクラテスとチビカッパ」and「Zine Spring(Zineの泉)」をご覧いただければ幸いです。

少しでも私と同じような境遇の方々や、好奇心旺盛な方々のご参考になれば、これに過ぎるものはございません。
なんか、あらたまった表現が苦手なので、緊張していますが、私のモットーを書いて、第1回本人投稿とします。

《モットー》柔軟に!おっくうがらずに好奇心全開で生きよう!
★お粗末様でした(^^♪




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