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ARI (2963)投稿日:2012年08月11日 (土) 16時52分 返信ボタン

>こうしてあの時代を語りおこすのもご供養になると…
そうですね。

>なんか大昔に小倉の空に雲の切れ間が無かったお話を伺った気
>がしてならない…
それは大昔、岩屋城とかいう方が話されたんでしょうか… 曇り
だったと話されたのでしょうか…

その日、小倉上空に雲はありませんでした。
広島の時と同様に快晴に近い天候だったといわれています。
ただ、前日8日に小倉中心部から7km西の八幡製鉄所が
B29の別部隊から空襲を受けており、火災は鎮火したもの
の、製鉄所の燃料である石炭カスやコークスが煙を吐きなが
らくすぶり続けていました。

原爆搭載機B29「ボックスカー」は、会合地点である屋久
島の上空で写真撮影機のB29を待ち続けていました。が、
予定時刻から40分過ぎても現れない…。やむを得ず単機で
小倉に向かいます。そして計画どおり、国東半島北東海上か
ら小倉の投下目標点に向けて、爆撃進路に入ります。
そして9時44分、投下ポイントに到達しますが、地表低く
モヤか煙がたれこめている…、空は晴れているのに。
機長は上官から、目視確認での精密投下を命じられていまし
たので、投下は中止。ただ、目標の小倉造兵廠(現在の勝山
公園)の直上はモヤは無い。今度は、進入角度を大幅に変え
て2回目の投下を試みます。又しても、モヤが低く垂れこめ
て、爆撃手はボタンを押さず。そして3回目。又進入角度を
変えて小倉上空へ。又、モヤで自信が持てなかったのかボタ
ンを押さなかった。この間40数分。 前日の八幡空襲での
コークス類のくすぶりが、たまたま吹いてた「西風」で小倉
市街に低く流れては消え を繰り返していた様です。

原爆搭載機が小倉上空に来る1時間前に小倉上空に行って、
気象情報を知らせてきた、B29気象観測機からはそんな
情報は送られて無かった様です。屋久島上空での僚機を
待った40分のロスの間にモヤが現れたのかは判りません
が、その40分のロスにより、テニアン基地迄の帰路燃料
不足の恐れが出始めました。4回目の投下行動は無理…と
機長は判断し、原爆を抱いたまま、テニアン基地に戻るか
それとも…。原爆を乗せたまま万一着陸事故を起こした場合
を考えたのかも知れませんが、テニアン基地へ戻らず、長崎
市へ投下して、沖縄・嘉手納基地へ戻るコースを決断します。

そして、長崎市上空。雲に覆われており、地上が見えません。
焦ったでしょう。暫くすると、雲の切れ間が見え、地表に建物
などが見えたそうです。レーダー確認も山の多い長崎市ではう
まく機能しなかったでしょう。
小倉では、あんなに目視確認投下にこだわり過ぎた結果、本来
の大目的に失敗したのに、長崎では焦って(?)ろくに位置確認
せずに投下しました。11時2分。 長崎市街のずっと北でした。

不思議な偶然と機長の性格が要因となり、大きな作戦が現場
の一指揮官によって実行されなかった世界の戦史上でも稀な
例です。普通の指揮官であれば、状況を見て、レーダー輻射
爆撃に切り替えて投下したでしょう。多少目標が左右にズレ
ても、当時から小倉は巨大都市。いまの勝山公園近くか紫川
の周辺でしたでしょう。
広島型原爆より5割威力が強いプルトニウム原爆でしたし、
小倉中心部の人口密度は広島市より高い。広島市の様に東西
に山は無い。予定通り落とされていたら、広島原爆の被害を
かなり上回る人的・物的被害が発生していたといわれています。
小倉と長崎… あまりに悲しすぎる現実です。


/うきき (2964)投稿日 : 2012年08月13日 (月) 22時15分

 詳細にまでいたるお話ありがとうございました。
初めて知った内容ですが、実際は災害で発生した『雲』の奇跡だったとは…。
以前にも書いたかも知れませんが、昔見たTVでは、アメリカのどこかの資料館ではファットマンとリトルボーイのアクセサリーをミュージアムショップで販売しているとのこと。日本人が抗議していました。
今でも売っているのでしょうか…。
その後、実際に自分がニューヨークに行った時に、『9.11 Ground zero』グッズ(帽子など)がお土産として販売されていたのを見て、あの国はメンタリティーそのものが日本と違うと思ったのですが…

でも、そんな日本でも一昨年かに自衛隊基地で「回天」キューピーを発売して批判続出でしたね。

□明日は終戦記念日。/ARI (2965)投稿日 : 2012年08月15日 (水) 00時05分

>実際は災害で発生した『雲』の奇跡だったとは…

いえいえ、書いてるように、あの日の小倉は快晴に近く、『雲』
はなくて、八幡製鉄所から燻って出ていた『煙』だったんです。

翌朝に原爆を落とす予定ならば、西に僅か7kmにある八幡の
爆撃を延期、或いは中止するのが作戦上は普通ですが、それが
何故かミスなのか判りませんが、為されていなかったのも運命
です。
そして、その時間帯がもし西風でなければ、そのミッションは
予定通り実施されたでしょう。その他にも、B29ボックスカー
の機長と爆撃手ふたりの、↓に書いた微妙な性格と瞬間の判断、
さらには滅多にないであろう、屋久島上空での、僚機の到来の
大遅延による、帰路ガソリンの消費という事態の惹起、という
事も、運命に組み込まれるでしょう。 

それらの複雑な組み合わせがなかったら、
小倉は一瞬で壊滅し、20数万人ともいわれる即死者が出、
その日に助かった方でも、相当の数の方がその後の原爆症で苦し
まれただろうといわれています。
隣接する戸畑は勿論、門司の西部、若松の南部へも放射能は深刻
な影響が及んでいたでしょう。

1発目の原爆が投下されるはずの京都市は、7月下旬に突如候補
から除外されて、第2候補であった広島市が候補の筆頭に。
そして第3候補ですぐには落とす予定ではなかった小倉市が、
すぐ落とす第2発目の投下目標へ変更。 
長崎市は、その次の新潟市の、また次の候補でした。

こうやって考えると、「人が命があって生きているのは、それ
自体が奇跡」とも思えます。 今、小倉に住んである方々も
そうですが、日本中がそうだとも思います。

/ARI (2966)投稿日 : 2012年08月15日 (水) 00時31分

>実際は災害で発生した『雲』の奇跡だったとは…
【追記】
「災害」ではありませんよ。八幡市と工場施設への「空襲」
です。
米軍B29による八幡空襲であり、市街地も焼かれましたし
死傷者も多く出ました。 (8.8八幡空襲として記録に残って
ますよ)
小倉に垂れこめた煙は、その際に破壊された製鉄所から出て、
翌日も燻り続けた煙のことです。



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