去年、手塚治虫が無音の擬音「シーン」を初めてマンガに取り入れたとテレビで放送していたのを見た。
ざっとググると、同様の擬音(しん、しいん、森)は、以下の様に過去に辿れるらしい。
「お座敷は三月しんとしづまりて」 俳諧・毛吹草 1638年
「各(おのおの)しんと座をしむれば」 滑稽本・古朽木 1780年
「雪の夜で蕭然(シン)としてゐるから」 三遊亭円朝・真景累ヶ淵 1869年頃
「頭の中へしんと浸み込んだ様な気持ちがする」 夏目漱石・琴のそら音 1905年
「もう足音も人声も静まり返って、森としている。」 夏目漱石・坊っちゃん 1906年
「四辺(あたり)はシインとして来る」 久保田万太郎・末枯 1917年
「朝の氣の漲つたぐるりは清淨で、そしてしいんとしてゐました。」 水野仙子・ある妻の手紙 1917年
「彼女の心はしいんとしたなりで」 有島武郎・星座 1922年
これ、豆な。
さて、
無音が、何故、「しん」、「しいん」、「シーン」と擬音化されたのか? おそらく、無音・静寂の中で、自分の血流が耳の奥で聞こえる音を擬音化したものであろう。
日本のマンガが海外向けに翻訳された時に、「シーン」は、どのように翻訳されているのだろうか?
更に、日本以外で、無音を擬音化した文化はあるのだろうか?
疑問は尽きない...
夕べは酔っ払って、今朝早起きしてしまったので、思わず調べてみた(^.^)
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