日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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無意識について - えふ
疑問があるので伺いたいのですが、スマナサーラ長老が、無意識はない、心を多重構造でとらえることに反対、とおっしゃっているのを講話のメモ?のHPで読みました。
これは潜在無意識や集合無意識とか言われているものも無いということなのでしょうか?



2010年07月20日 (火) 14時08分 No.508
えふさんへ - いづる
これは潜在無意識や集合無意識とか言われているものも無いということです。
お読みになったのは『仏教の「無意識」批判」』というご説法ですよね?無意識についてのご説法はこちらもあります。
『無意識は「ない」~俗世間の心理学とブッダの心理学~』
http://gotami.j-theravada.net/2007/04/dhamma.html

ご参考になると思います。僕は西洋心理学に対して批判する気持ちは全くありませんが、役に立つと思うので一点だけ申し上げます。ブッダの心理学以外はそもそもの人間の認識については厳密に徹底的に検証してはいません。心理学を作る、学問として組み立てるのは人間です。またそれらを使う、活用するのもまた人間です。しかしながら、その人間の認識自体はいわば無法地帯で、徹底的に検証されてはいないのです。逆に言えば、仏教を実践すれば西洋心理学でいう無意識として説明されているものは実はどのようなこころの現象のことを言っているのか分かります。なぜ‘無意識’という概念を使って説明すると、我々はこころを把握しやすいのか理解できます。その長老のご説明も上で紹介したご説法にあったと思います。

最後になりますが、僕は決して西洋心理学を否定するつもりはないので、ご理解ください。

ご参考にして頂けると嬉しいです。
幸せでありますように。
2010年07月21日 (水) 12時25分 No.510
いずるさんありがとうございます - えふ
返信ありがとうございます。
とても参考になります。紹介してくださったご説法も聴いてみました。聴いていて、何がどうという以前に、そもそも西洋心理学についても仏教についても漠然とした知識しか持ってない自分に気がつきました。
しかし落ち着かないので、もう少し質問、というか確認したいのですが、Q&Aの【27】 意欲と行動/能動と受動において、

西洋思想では無意識、潜在意識、集合無意識といっているのが、受動的行為です
 一般的に「意識的行為」と「無意識的行為」として理解されているものは、我々が言う「能動」と「受動」の2つです。心の働きは西洋的に、二重、三重、多重構造で考えた方が理解しやすいのです。本来は、こころはズーッと繋がっているものですが、一般的に人は心の働きをひとかたまりに考えていますから、多重構造で考えた方が理解しやすいと思います。

と書かれています。それと今回いずる様が返信でご説明くださった内容から考えて、本当は無意識は無いけれど、便宜上の理解としては西洋的なとらえ方も否定はしない、という理解で良いのでしょうか。
2010年07月24日 (土) 18時12分 No.514
能動と受動 - magagiok
その問題は、私も説法を聞いていて、いまひとつ、スマナサーラ長老の言いたいことがよく分からない、という感じでしたが、無意識はない、あのときは無意識だったと後で思われる行動においても、実は、そのとき、そのときには、意識している、という説明で、まあ、それは、そうだな、というぐらいの理解で、それ以上は気にしないでいました。

今回の質問を読んで、気になってきたので、調べてみたら、次のような記載がありました。

「生命の行動は、二種類です。能動的と受動的という二種類。」

「意識しないで行う行為は受動的です
 やってはいけないと知っていても、やってしまう。悪いとわかっていても、止められない。もう癖になっているからしょうがない。それから一日中の妄想、空想、夢想の暴流もあります。また、怒りっぽい、欲張りなどの性格もあります。この受動的な行動の世界は、強引に変えようとしないと、脅さないと、騙さないと、変わらないものです。本人にとってはどうにもならないものです。」

「西洋思想では無意識、潜在意識、集合無意識といっているのが、受動的行為です
 一般的に「意識的行為」と「無意識的行為」として理解されているものは、我々が言う「能動」と「受動」の2つです。心の働きは西洋的に、二重、三重、多重構造で考えた方が理解しやすいのです。本来は、こころはズーッと繋がっているものですが、一般的に人は心の働きをひとかたまりに考えていますから、多重構造で考えた方が理解しやすいと思います。」

http://www.j-theravada.net/qa/gimon27.html

長老が、無意識はない、そのとき、そのときに意識している、ということを語るその意味は、仏教は、一般的に言われている無意識による行動(仏教における「受動的行動」)を、それをちゃんと科学的に解明して、その真の解決策を、その真理を見出している、ということを言いたいのだと思います。

そして、西洋心理学は、その問題を、無意識という言葉で片付けて、そこに真の解決策を見出せていない、無意識という「人間の神秘」の問題として、曖昧な対応しかしていない、という事をいいたいのだと思います。
2010年07月24日 (土) 18時12分 No.517
えふさんへ - いづる
無意識はないのは事実です。これは事実だから僕のような頭の悪い人間でも、「無意識は本当はないのだと僕は思います。」とは書けません。「地球は丸いと僕は思います。」と書けないのと同じです。
ここからは僕の私見です。長老がご説法なさる際には、我々日本人からデータを取って話されていると思います。つまり、‘無意識’という用語を使うのは日本人の中で、西洋心理学を学んでいる方々に対する
‘対機説法’だと思います。対機説法について、長老はこのようにご説明されています。
『対機説法は最上の特効薬』
・・・対機説法とは、相手の性格や能力、素質に応じて、相手が理解できるように法を説くことで、これはちょうど医者が病人に的確な薬を処方するのに似ています。風邪をひいている人には風邪薬を、胃の調子が悪い人には胃薬を、頭が痛い人には頭痛薬を与えるように、お釈迦さまは出会う人々の性格や能力、素質に応じて、その人の問題が解決するように的確に教えを説かれたのです。そうすると、聞く側は自分の問題の解決法を具体的に教えてくれるのだから、目も耳も自動的に開き、わずかにでもよそみをしようとせず、お釈迦さまの言葉一語一語にじっと耳を傾けて聞くのです。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi139.html
ここからも僕の私見ですが、人間の考えうる概念、理論、哲学のバリエーションには限界があるはずです。なぜならば普通の人間の認識には限界・制限があるからです。ブッダの教えは人間の認識次元を破って真理を解き明かしたものですから、逆に人間の作る理論、哲学などなどに仏教から説明ができるのだと思います。(その逆は不可能です。)ですから、どんな人でもブッダの教えにアクセスできるように、時として‘無意識’という用語を‘あえて’使って説法なさるのだと僕は思います。
ご参考にして頂ければ嬉しいです。
幸せでありますように。


2010年07月25日 (日) 05時15分 No.528
ひとつの言葉でいろんな意味が表現されてしまう - magagiok
「無意識というのは一般的な考え方で、科学的な分析ではないのです。」

「しかし、無意識で「やらされている行動」ということはありえません。やっているその瞬間は、本人が自分の意志でやっているのです。だから現代社会で犯罪者を精神鑑定で無罪にしたとしても、仏教は決して無罪にしません。自分のやった行為の結果として業となるのです。」

「仏教で否定するのは二重構造の無意識です。」

「寝ているときは意識がない。熟睡状態です。それも無意識といえば無意識です。そういう「無意識」なら反対しません。しかし、その無意識(アビダルマの有分心)も命を繋ぐはたらきは欠かさないのです。考えることが不可能なだけです。」

「夢で犯す罪も罪なのです。仏教の人は、夢の中でも道徳判断して罪を犯さないのです。夢は無意識だから管理できないよ、という人に私は、「いま起きているあなたの意識も管理できないでしょう。妄想だらけで、あらゆるマインドコントロールを受けているんだから」と答えるのです。」

「心の流れを一本にして考えるなら、無意識の概念にも反対ではありません。仏教は、意識の多重構造の考えには反対なのです。それは心の機能からしてあり得ない、不可能なことですから。」

(http://gotami.j-theravada.net/2008/04/post-214.htmlのサイトの法話メモより。)

西洋心理学の影響からか、一般的に言われている「無意識による行動」ということは、仏教的には、それは無意識ではない、そのとき、そのときには、意識している、意志が働いている、それを正すのが仏教である、意識していることだから、それは、意識によって、意志によって、つまり、修行によって、正せる、ということを言いたいのだと思います。

西洋心理学における心の多重構造による説明は、理解しやすい印象を受けるから、それが一般的に浸透しているが、しかし、心とは、常に生滅を繰り返す一本の流れ、のようなものであることが真理だから、多重構造(多層構造)ということは、仏教においては否定される。

つまり、仏教が否定しているのは、心の構造が、多重構造(多層構造)である、ということだと思います。

そして、多重構造である無意識の領域は、完全にはコントロールできない、という西洋心理学の立場を、仏教は否定している、仏教においては、それは、完全に解決できる、それが悟りである、ということになると思います。

また、心には、内臓の働きを司る機能がある、それは、本人が意識しないのに行われていることだから、本人の意志に関係のないことだから、それを無意識と言うのであれば、心にも無意識はある、と言ってもいい。

長老が、無意識はない、というときの無意識とは、そのような内臓の働きを司るような無意識のことまで含めているのではない。

長老が、無意識はない、と言うときの無意識とは、無意識に行動してしまう、無意識に妄想してしまう、と言うときの無意識のことであり、それは、無意識ではないのである、そのとき、そのときに、意識している、意志が働いているのである、ということを言いたいのだと思います。

それから、長老自身も、他の説法で、無意識による行動、ということを言うことがありますよね。

それは、我々に対して、一般的に浸透している意味で使っている、ということだと思います。

長老は、我々に対して仏教の専門的な話はしたくないとか、いちいち厳密な論理を言っていられないので、論理的に穴のある一般的な言い方をしている、と発言しています。

それが、待機説法ということだと思います。

でも、長老は、やはり、仏教の専門的な話、厳密な論理に触れざるを得ないときがあるので、それを話すことがある。だから、それを聞いている我々は、そのことをちゃんと理解する必要があると思います。
2010年07月26日 (月) 06時14分 No.532
待機説法 - えふ
いづるさん、度々の質問に答えて下さってありがとうございます。magagiokさんも、意見を書いて下さってありがとうございます。
なんというか、やはり、いろんな次元で相手に合わせて説かれる、待機説法なのですね。
いろいろ参考になりました。本当にありがとうございました。
2010年07月29日 (木) 16時31分 No.553


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