日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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ギャルゲーと浮気 - ドイツ
私のしがない人生経験ですが。聞いてください。
私は、学生時代、素人の女性に手を出すことが、
不邪淫につながると思い、ゲームでその欲を抑え、
成人になるまで、ゲームしながら恋愛や性行為をせず、勉学に励みました。仏教では、ゲームといってもギャルゲー エロゲーなどは、どのような位置づけですか。成人してからは、本当は、悪いのですが。素人の女性に迷惑かけるなら、風俗店の女性に手を出していました。そこで、風俗店は仏教から見てどのような位置づけでしょうか。
二つ目は、女性と言っても人妻と接して以来、浮気しそうになったので断って以来、女性恐怖症で、性行為は、しないのですか。男性とばっかり付き合っています。
性行為は、男性なのでないのですか。恋愛感情に近い
感情で接しています。仏教では同性愛は、どのような位置づけですか。また僕は、このままの考え方でよろしいでしょうか。少し気になったものでお願いします。
2016年04月28日 (木) 18時56分 No.3482
不邪淫戒=「夫婦間以外の性行為を慎むこと」 - こう MAIL
>仏教では、ゲームといってもギャルゲー エロゲーなどは、どのような位置づけですか。

 テーラワーダ仏教は、不邪淫戒(夫婦間以外の性行為を慎むこと)以外では、
 在家(※)の人間の性生活・性行為について特に何か制限をしているわけではなさそうです。
 「異性のグラビア、見ることなかれ」みたいなことまでは言っていないかと思います。ゲームについても同様です。

 ただ、あまりに毎日夜更かしして、仕事や勉強そっちのけでスケベ全開プレイということになれば、
 確実に自分が不幸になりますから、戒律うんぬん以前に、明らかな悪行為となります。

 ※在家・・・出家せずに、俗世間で暮らす一般の人々のこと



>風俗店は仏教から見てどのような位置づけでしょうか。

 テーラワーダ仏教では、風俗店・風俗サービスそれ自体は単純に、
 世の中にたくさんあるサービス業の一種であると見ているようです。
 「風俗、行くなかれ」という戒律があるわけでもありません。
 ただあまりにも執着して、奥さん家族が嫌だ・やめろと言っているのに通い続ける、といったことになれば、
 明らかに理性を欠いた行動であり、道徳違反ですから、不邪淫戒を犯していると言えます。
 (参考:協会HP "不邪婬戒/慈悲の瞑想" http://www.j-theravada.net/qa/gimon47.html )



>仏教では同性愛は、どのような位置づけですか。

 スマナサーラ長老の解説ではこのようになっています。
 「キリスト教やイスラム教では同性愛を悪魔の行為として忌み嫌い、
 ひどい差別や迫害の対象にしているが、仏教ではたまたま本人の
 「業」で肉体と心のギャップが起きたと考えるだけで、
 同性愛者を否定したり病気扱いすることは決してない。」
 (参照:外部ページ  http://samten.seesaa.net/article/430951212.html )



>また僕は、このままの考え方でよろしいでしょうか。

 ドイツ様のように、在家生活の中で道徳を犯さないよう努めることは本当に立派なことだと思います。
 世の中では「浮気・不倫はみんなどんどんすべき」という人間もいるくらいですから、
 道徳を犯さないよう気をつける方が一人でもいることは、人間社会にとってこの上なく心強いことです。
 
 でもやっぱり、私個人としては、性欲の方も次第にカットして行って、
 いつかは解脱の方へ赴いてほしいなぁ、と、テーラワーダ仏教の、在家信者の一人として、私が思います。
 最終的に「やるべきことは全部やりましたよ、あーホッとした」と言えるものは、そちらにしかないからです。
 (解脱や涅槃は、一切の執着を捨てる道であるとブッダは説かれています。一方、性欲は徹底的に執着の道です。正反対です。) 

 また、生身の異性ではなくギャルゲー・エロゲーを選んだとしても「欲を抑えた」ことにはなりません。
 結局は異性に夢中になっているからです。
 そこは注意が必要かと思います。


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その他、在家の性行為について解説している協会HPのQ&Aリンクはこちらです。
"宗教儀式のこと、セックスのこと"  http://www.j-theravada.net/qa/gimon20-21.html
”性について”   http://www.j-theravada.net/qa/qahp07.html
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長くなり申し訳ありません。以上です。
幸せでありますように
悩み苦しみがなくなりますように




p.s.

 (私も男性ですから、あなた様の気持ちが、ちょっとくらいはわかるつもりです。ムラムラして仕方がないっていう時がある。

  私個人は、性的な衝動と出会った時、
  ⓪「性欲、性欲、性欲」と30回くらい実況中継する。(だいたいはこれで済む。足りなければ100回でも。)
  ①性的な情報をシャットアウトする。
  ②性行為をなるべく客観的に見る。
  (結局、性行為それ自体は、グロテスクだし、汚れるわ、疲れるわで、何の良いこともないのですね。
   異性の体が最高に美しいなんて嘘っぱちです。美しさなんかない。反対。人の体はどう見ても「肉と毛と汁」の集まりです。
   要するに、男女関係なく性行為は結構ばっちいんです。何より臭いし。私はそれで一気に冷めます。
   参考になるかは怪しいですが、一応…)
  ③あとはこんな風に自問してみる
   「今自分はスケベなことばっかり考えているな。これは果たして、人間の実践すべき慈悲の態度だろうか?」
   「性欲のおかげで減った事件・事故がかつてあっただろうか?性欲のせいで増えた事件・事故ならば山のようにある。」)    
   
2016年05月02日 (月) 14時22分 No.3483
上座部仏教の教学は共通ですが、社会ごとの規範は別々です - 迦陵頻伽(かりょうびんが)
「善行為を行う」という意志を持って日本の風俗店(ただし法令遵守の優良店)で働いている親友(タイ人女性)にいろいろな話を聞いている縁もあり、上座部仏教と性風俗に関わる話については、若干、お役にたてるかもしれません。

タイの上座仏教の経典や教義はスリランカやミャンマーと同じくスリランカのマハーヴィハーラ(大寺)のものです。ただ、かつて西欧列強による植民地化に対抗するための宗教改革を進めた結果、タイのサンガ(つまり全ての仏教僧)はタイ政府の指導下で「僧籍」を管理されており、スリランカやミャンマーの上座部仏教から見るとやや特殊なもののように映ります。

またタイでも現在は正式な大寺の経典だけに統一されているのですが、歴史的には、布施の功徳により来世はより幸せな境遇に生まれることを勧める「三界論」という文書が宗教改革途中で民衆に支持されていたため、各種の布施行為を熱心に実行するタンブンの習慣が現代の社会生活にも強く根付いています。

例えば、タイ北部や東部の貧しい地方では、現在でも、「貧しい親の生活費や幼い弟や妹たちが人並みに学校で勉学できるよう学資を稼ぐため、家族の中でお姉さんの立場にある若い女性が自らの意志で風俗店で働いて大金を稼ぐことは孝行であり、善行為である」と考えられてます。そんな「孝行者」の女性は20代前半で風俗業を引退し、普通に結婚します。つまり風俗業も、そのような社会規範を有する地域社会では単なる職業の一つにすぎないのだそうです。ただし、タイ社会全体がそう考えているわけではなく、貧困でない社会階層などでは風俗業の従事者等を一段低く見る社会規範も、当然ながら、存在します。

以上は今の日本の感覚とはちょっと異なりますが、「上座部仏教の正式な教学」と、「それを信奉する民衆の社会規範」は区別して考える必要があります。

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Q1: 素人の女性に手を出すことが、不邪淫につながると思い

A1:「手を出す」の意味が「職業として金で身を売るつもりでない女性を犯す」という意味なら「邪淫」そのものですね。

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Q2: 不邪淫につながると思い、ゲームでその欲を抑え

A2:お気の毒ですが、そんなことをしても意味ないです。

心・言葉・身体による行いの善悪にもとづき、自分の人生に善い結果、あるいは悪い結果が生じます。これは、例えば、物理学の作用・反作用の法則のように単なる自然現象です。

ゲームでも「心の行い」ですので、善行為とは真逆の行為を意図的に行えばアウトです。つまり、いつの日か、必ず何らかの好ましくない結果が自分の身に起こる、ということを覚悟しなければならないでしょうね。

例えば「変態行為がバレない様に上手に実行しようと思って、日常的に、コンピュータシミュレーションで熱心に反復練習していれば、その結果、十分に訓練された頭脳を備えた変態人間が出来上がる」といえば理解できますか?

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Q3: 風俗店は仏教から見てどのような位置づけでしょうか。

A3: 先に述べたとおりです。その個々の社会規範に照らして、やり方によっては善行為と呼ばれることもあります。

ちなみに、お釈迦様が「この職業はやめておきなさい」と勧めた職業は「毒物製造、武器製造、生き物を殺生すること」などです。

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Q4: 仏教では同性愛は、どのような位置づけですか。

A4: 僧侶として出家することは禁止です。

しかし、在家の生活者として生きるのであれば、その社会を構成する民衆の社会規範次第ですね。

現代の日本社会では変態扱いされて笑われるケースもあるでしょうね。でも、タイではレディボーイもオカマもゲイもオナベもみんな堂々と生活出来るんです。 寛容なんです。

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Q5: また僕は、このままの考え方でよろしいでしょうか。

A5: それは自分で決めることですよ。他人に判断を求めても正解なんて得られません。

善因善果・悪因悪果。それだけのことです。話は簡単でしょ? 

ところで、「何が善で何が悪か?」についてはお釈迦様が明快に教えてくれています。

「何が善で何が悪か?」について興味があれば、きちんと勉強してみることをお勧めします。


2016年05月02日 (月) 14時22分 No.3485
おや? - 迦陵頻伽(かりょうびんが)
こう様

いつも穏やかな語り口で書いておられ、いろいろ学ばせていただいております。てっきり女性かと思っておりました。失礼しました。

ところで、追伸の部分ですが、ちょっと異論があるので、ご意見を賜ればと存じます。

>私個人は、性的な衝動と出会った時、

以下の文章ですが、一般的には、「自分が守ろうと決意した戒律の範囲を思い起こすこと」、というステップを忘れてはいけないのではないかと思います。

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例えば、私は普通の在家者で、梵行者ではないので、日常生活では5戒の範囲については最優先で、逸脱せぬよう注意しております。それでも、寺で短期の瞑想修行を行うときは、8戒の範囲まできちんと頑張って守るようにしています。

もし普通の在家として生きるのであれば5戒、梵行者の在家として生きるなら8戒。つまり8-5=3の中には、「いかなる性的な行為も全面禁止」という項目があり、5戒ではそこまで含まれていません。

つまり、善行為として有料で商業ベースでビジネスとして提供されている風俗業のサービスが存在するケースでは、その善行為の範囲(例えば、日本の厳格な法規制を遵守して提供される、軽易な性感系サービスまで包含したタイ古式マッサージによる心身の癒しにより、心身の疲労を回復して明日からの仕事をがんばる、など)で感謝して善行為を受け取ることになんらの問題もない、と考えています。

もし、こう様が、梵行者として生きる方であるなら、仰ることは十分わかるのですが、私のような単なる在家であればそこまで厳しくすると生活がしにくくなるように思います。

たとえば、「男女関係なく性行為は結構ばっちいんです。何より臭いし。」とおっしゃいますが、それはやり方の問題で、保健衛生上の自己管理を徹底すれば十分に解決します。

「性行為それ自体は、グロテスクだし」とおっしゃいますが、そもそも「食事をすること」だって大便の元を口に入れて咀嚼しているわけです。性行為にしても食事にしても、生き物として種や個体が存続するためには欠かせないことです。問題は「善行為」の範囲を逸脱せぬように注意して行うことではないでしょうか?

私の場合、このような煩悩を振り切ることができず、善行為の範囲を逸脱せぬように注意しながら在家生活を満喫しております。

宗教にかかわると過剰に潔癖になったり、逆に、反動で5戒すら無視する生活に走るケースをよく目にしますが、食欲も睡眠欲も生存欲も性欲も、ありのままに観察する対象であると自覚して、善行為を心がけながらそれなりに享受すれば(普通の在家者としては)良いのではないかと思います。

逆に、在家として5戒までだけを注意して守って、善行為を心がけながら諸欲を享受しているに過ぎないわが身であるのも関わらず、あたかも「梵天の如き聖人君子」のごとく演じようとすると、知らず知らずのうちに無理が出て、「(自分自身に対しても)嘘を語ってはならない」という5戒の1つにも背くように思えます。

2016年05月05日 (木) 14時19分 No.3487
助かります - こう MAIL
迦陵頻伽(かりょうびんが)様、
コメントをいただけて、とても助かりました。

>「自分が守ろうと決意した戒律の範囲を思い起こすこと」、というステップを忘れてはいけないのではないかと思います。
 
 誠にその通りかと思います。
 私のコメントには、その辺りの前提が抜け落ちていたみたいです。


>8戒。つまり8-5=3の中には、「いかなる性的な行為も全面禁止」という項目があり、5戒ではそこまで含まれていません。
>梵行者として生きる方であるなら、仰ることは十分わかるのですが、私のような単なる在家であればそこまで厳しくすると生活がしにくくなるように思います。

 在家の守るべき五戒、八戒の違いについて、私が知識不足でした。とても助かります。

 私の前回のコメントの、追伸部分の意図はというと、
 「不淫戒(八戒の一部)の守り方」みたいなことを、知った風に申し上げたかったのではなくて、
 「異性に夢中になりすぎていると感じるとき、どうしましょうねぇ…」という程度の話がしたかったのですね。一男性として。
 
 しかし今見れば、お喋りが過ぎたということかもしれません。


>食欲も睡眠欲も生存欲も性欲も、ありのままに観察する対象であると自覚して、善行為を心がけながらそれなりに享受すれば(普通の在家者としては)良いのではないかと思います。

 賛成です。
 私たち個人は大前提として、まず独立して自由な存在ですから、五戒を守りながら生きるかどうかさえも各自の自由ですし、
 戒律を守った上で何をどのくらい楽しむか、ということもやはり各自の自由であると思います。


>逆に、在家として5戒までだけを注意して守って、善行為を心がけながら諸欲を享受しているに過ぎないわが身であるのも関わらず、あたかも「梵天の如き聖人君子」のごとく演じようとすると、知らず知らずのうちに無理が出て、「(自分自身に対しても)嘘を語ってはならない」という5戒の1つにも背くように思えます。

 賛成です。
 在家の五戒を守る人間はあくまで「私は五戒を守っている」と言えるのであって「それ故に、私は梵天のように、あるいは出家のように立派である」とまで言うと話が飛んでしまいます。
 本人の成長もそこでストップしてしまうので、大いに避けるべき事態だと思います。
 (ただ、例えば在家の身で瞑想修行に励み、例えば預流果に悟って「今はこの段階です」と自分で堂々と言えるレベルにまでなったなら、それは構わないと思います)


 (私も、日々五戒を守ってみて生活している人間で、八戒、十戒…まで守る、という段階の人間ではありません。
  ただ、性欲が頭を支配すると、どうしても他人に対する優しさみたいなものが、まるで失せてしまうのですね。それはぞっとする体験です。
  でも、夢中になっているときはそれと気づかない。しかも刺激が強い。だからマズい。
  「八戒守るぞー」とまで厳密に決めないまでも、「性的なことから少しずつでも離れていこう」ということは、
  あくまで私個人の、現時点での課題です。これからは、できそうな日には八戒も守ろうかと思います。)



長くなりました。以上です。
幸せでありますように
穏やかでいられますように
2016年05月06日 (金) 15時05分 No.3493
汚いというか、そこはレッドオーシャン - 迷い犬
私は、慈悲の瞑想で身近な人達の幸せを願い、幸せな姿をよろこぶのが一番の快楽です。
ギヤルゲも男もただではないでしょう。
こちらはおまけで感謝されるんですよ。
2016年05月18日 (水) 13時39分 No.3515


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