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不幸を不幸で穴埋めする - ボン長老が言ってたと思うのですが
人は不幸になると別な不幸を置き換えて
不幸が無くなったと錯覚して結局
いつまでたっても幸せにならないと言っていたと記憶してます
どういう意味でしょうか
うさ晴らしに酒をあおってストレス解消になったような気がしても
結局健康を害して不幸になるとか
そういう意味だと理解してよいのでしょうか
もっと具体例を示して頂くと理解できるのですが
あとサイト内で説明されてたらURLを教えて下さい
質問は以上です2015年12月08日 (火) 14時58分 No.3447
>人は不幸になると別な不幸を置き換えて
スマナサーラ長老が書籍のなかで、
よくお使いになるたとえはこちらです。
まず、人は呼吸をしている。
息を吸う。すい続けていると、もう空気が入らなくなって、苦しくなる。
もう限界だ、もう吸えない、ということで、今度は息を吐く。
今度は息を吐き続ける。吐く息がなくなってもはき続ける。また苦しくなる。
そして、「もう吐けない」というところで、今度はまた息を吸う。
結果だけをみれば、息を吐くことも吸うことも「苦しみ」です。
なので、わたしたちは呼吸をしているときでさえ「苦しみから、苦しみへ」次々と移動している。
この有様のことを指して、「不幸を別の不幸に置き換える」と仰ったのだと思います。
>不幸が無くなったと錯覚して
先ほどの、呼吸の例で行けば、
息を吐くことは「苦しみ」をもたらす。でも、息を吐かずにはおれない。
息を吸うことも「苦しみ」である。でも、吸わずにはおれない。
息を限界まで吸って、息を吐くことに戻ってきても、
苦しみから、苦しみへ戻って来ただけ。
でも、そこで人は「これで苦しみがなくなった」と錯覚する。
(息を吸うことをやめた分だけ、たしかに楽は感じるのだが、
代わりに始めた”息を吐く“は、やっぱり苦しみ。だけどそれに気づかない。苦しみから苦しみに引っ越ししたことに気づかない状態。)
その状態のことを仰っていると思います。
>うさ晴らしに酒をあおってストレス解消になったような気がしても
結局健康を害して不幸になるとか
そういう意味だと理解してよいのでしょうか
お酒の例でいくならば、
たとえば、お酒が大好きな人がいて、
「お酒なら、一日中飲んでいられるぞー」と自慢する人がいる。
そこで、私が「では、1日で100リットルくらいのんで見せて下さい」というと、「それはキツいです」ということになる。
いくらお酒が好きでも、限界がある。
ということは、お酒を飲むことも結局「苦しみ」だったということになります。
お酒を飲んで、健康を害するから不幸、というよりは、
「お酒を飲む自体も、結局つらいことなのではないですか?」
という意味だと私が思います。
サイト内で、具体的に説明していたURLを思い出せませんでした。すみません。
おそらく、「無常」「苦」の説明をしているセクションで、
こうした例えは登場したかと思います。
長老の書籍「無常の見方」か、「苦の見方」をご覧いただければ、
長老のわかりやすい説明と出会えるかと思います。
以上です
しあわせでありますように2016年01月28日 (木) 16時40分 No.3454
長老は間違ってます - ボンやはり理解できません
息を吸い過ぎたり吐き過ぎたりするのは苦しいに決まってます
そこまで呼吸してる人はいないでしょう
そこまでいかない時点で吸うのを止めたり吐くのを止めたりして
苦しまないように心地よい心もちで呼吸しているのに
なぜ極端な例を示して苦しんでると決めつけるのでしょうか
スマナサーラ長老の言っているような苦しむラインまで
まるで嗜癖のように追求して生活していたら生きてられないし
そんなことをしてる人はいるわけないし皆自然に呼吸して
快適な生活を追求していると思います
あまりにも現実からかけ離れています
百歩譲ってスマナサーラ長老の言ってることが正しいとしたら
人間は息を吸いきっても空き足らず更に吸いたくてしょうがなくて
それができないから仕方なく吐かざるを得ないということでしょうか
まさかまさか
そんな人はいませんよ
まるで人は苦しみを追求する生き物かのような前提で話されても納得できますか
人間というものを見くびらないで下さい
こう言ってはなんですが長老はあまりにも人間に悲観し過ぎてると思います
たとえが極端で無理があるんです
これが私の感じた違和感です
正直な感想です2016年02月01日 (月) 23時37分 No.3456
混乱させてしまい、申し訳ございません。
私の説明が至らないことで、あなたが仏教への興味をなくすことは、
私の本意ではありません。
>皆自然に呼吸して快適な生活を追求していると思います
おっしゃる通りだとおもいます。
ご飯を食べるのもお腹いっぱいになったらやめる、寒いと思ったら毛布を1枚はおる、といったように、
わたしたちはいつも、極端な苦しみなどとは出会わないように、
毎日気をつけて生きているとおもいます。
ですが、キリがないのです。
死ぬまで、コロコロと状況が変わる。お腹がすいたり、ケガしたり、病気になったりする。好きなものともわかれ、イヤなものともであわなければならない。そしてどんなに苦労しても、また、どんなに成功しても、最後には死ななければならない。
ブッダが説かれたこと、つまり仏教は、この「キリのなさをどうしますか?」ということへの知恵なのです。
(参考URL:「無価値は真理のキーワード」http://www.j-theravada.net/qa/gimon102.html)
>まるで人は苦しみを追求する生き物かのような前提で話されても納得できますか
人間というものを見くびらないで下さい
「このキリのない苦労の連続は一体なんなのか。
日々こんなに色々なトラブルがあるのに、
わたしたちが人生でやっていることは、結局、
生まれて、生きて、年取って死ぬ。
たったこれだけだ。なんとかならないのか?」
と疑問に思った方に、ブッダは教えを説かれたそうです。
「人生はすばらしい、とりあえず死ぬまで、そこそこごまかしながら楽しく生きておればそれで十分ではないか、生きていて何が困るというのだ。すばらしいではないか。」
という人間には、ブッダさえも何も語らなかったそうです。
(参考URL:「存在の意味」http://www.j-theravada.net/qa/qahp43.html)
>あまりにも人間に悲観し過ぎてると思います
「地球が丸い」というときに、わたしたちは何か悲観しているでしょうか?ただ、事実を確認しただけだと思います。
同様に、仏教で「この世の真理は苦である」と言った時は、
「この世を悲観して」いるのではなく、
「この世を観察して」言っているのです。
「人間に悲観」すらしていないのです。
よくみたらそうだったのです。
ブッダが説いた「苦」と、
わたしたちが世間で使っている「苦」の、
定義に違いがあると、お気づきになると思います。
(世間で言う“苦”と、ブッダの説いた”苦”は、同音異義語であると、
申し上げなかったのが私の前回のコメントの失敗でございます。申し訳ございませんでした。)
ぜひ、この「苦」という言葉について、もう少し知ってほしいのです。
「仏教は悲観的だ、聞く価値がない」とこの場を去ってしまう前に、
仏陀や長老たちが使った言葉の定義、言葉の意図を十分に把握してからにしてほしいのです。
冒頭に申し上げましたが、私の至らなさで仏教から人が離れていくことは心苦しく思います。それは私の本意ではないのです。
ーーーーーーーー
どうぞ、HPの「ブッダの智慧で答えます(Q&A)http://www.j-theravada.net/qa/index.html
をご覧になって下さい。
長老が見事に様々な質問に答えを出していることがわかっていただけると思います。
(これは私の主観ですが、スマナサーラ長老は、人をだましたり、極端な話で相手をうまくいいくるめて布施をもらおう、なんていう人間ではありません。全くも慈悲の気持ちで布教活動をしていらっしゃる。
人をだまそうという人間が、
「人は死ぬに決まっていますよ。何を言っているんですか。一体何を執着しているのか。バカではないのですか」などと、わざわざ世間に人気のないセリフを、大声で、何度も、何十年も異国の地(日本)で叫び続ける必要はこれっぽっちもないと、私が思います。)
長くなりました。
私の申し上げることは以上です
しあわせでありますように2016年02月02日 (火) 16時14分 No.3459
ボンさんへ - aumaコレ、聞きなはれ
↓
http://gotami.j-theravada.net/2010/06/ustreamdhammacast.html
聞くの面倒だったら、コレ、読みなはれ
↓
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/11/16/050000
でもって興味が湧いたら、コレ、ダウンロードしなはれ
↓
http://gotami.j-theravada.net/2010/09/15/nazekuha.pdf
もっと興味が涌いたら、コレ、買いなはれ
↓
http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%A6%E3%81%AE%E8%A6%8B%E6%96%B9%EF%BC%88%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8%EF%BC%89%E3%80%8C%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87%E3%80%8D%E3%82%92%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%81%97%E3%80%8C%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%BF%E3%80%8D%E3%82%92%E4%B9%97%E3%82%8A%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%82%8B-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-65-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%A0%E3%83%83%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9/dp/4865640193/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1454403480&sr=8-1&keywords=%E8%8B%A6%E3%81%AE%E8%A6%8B%E6%96%B9
2016年02月08日 (月) 13時11分 No.3460
苦は友達 - ボン回答ありがとうございます
私は人生に苦はつきものだが人間には賢さがあり
苦と上手くつき合ったり苦を減らす為にゲーム的に工夫をしたり
経験を積んで生活の質を高めたりして
日々生きていることの充実感を得るのが本当の生き方だと思ってます
苦は人為的にコントロールすることは十分に可能で
苦さえも豊かな人生の一部にしてしまうのです
人生に苦はある
それはスマナサーラ長老とも同じ意見です
現実に毎日多かれ少なかれ苦はやってきます
それらの苦と上手におつき合いして人生を面白くしたいと思います
体がなまったら運動してみる
運動する事によって爽快感がある
とても気持ちいい
リラックスして休息する
美味しい食事を摂る
食べ過ぎないように気をつける
でもたまにお酒が進んでもいい
たまにはいい
翌朝気持ち良く目覚める
仕事をがんばる
時々息抜きする
働いてる充実感を得る
でも少し疲れたら少し休む
帰る
暖かいお風呂に入る
今日はぐっすり眠れる
この極めて人間らしい日々の営みを
苦から逃げているだけだと言い切ってしまうのはおかしいです
行ってみれば苦とは人生の友達かもしれません
上手くつき合えば生きることがとても豊かになる気がします
仏教はそういう人間らしい営みを達観する立場で低く評価してる気がして
違和感があるのです
われわれはまごうことなき現実の世界に生きています
私はこの現実の世の中が好きです
私の理解が足りないのかもしれませんが
本当は仏教の教えが正しいのかもしれません
しかし私はその教えが現実と離れてると思います
以上です2016年02月08日 (月) 13時11分 No.3461
追記 - ボン重ねて失礼します
私は仏教の教えと違う意見を持ってます
それに対して仏教の立場は沈黙です
その仏教の姿勢に対して怒るのは簡単ですが
何か興味をそそられるのは事実です
私なりに少しずつ仏教の教えを調べてみようと思います
知らないことを知りたいと思う心が私にはあるので
私は自分の生き方に迷いはありませんが
自分の考えが絶対に正しいと思えるそんな偉い人間でない事もわかってます
最後に丁寧な回答ありがとうございました2016年02月08日 (月) 13時11分 No.3464
個人的解釈です。 - 迷い犬不幸のおまけに幸福がついているということでしょう。
生殖の危険に愛情と快楽、生活の苦労に子供の笑顔、その他いろいろ。社会経済制度も倣ってます。
不幸過ぎると誰もやろうとしませんから、進化上幸福感をかんじるようになった!?
苦労の結果の慰めならばいいのでしょうが、慰めが目的化すると予想外の不幸に押しつぶされます。
それに負けないようになぐさめを。
おなじ金額の商品でも貯めて買うよりろーんのほうがきつい原理と同じですね。2016年02月08日 (月) 13時11分 No.3466
日本語の定義を離れてみる。 - クロ残念ながら、ドゥッカ=苦=不幸=苦しみ ではないのです。
なんで「苦」という漢字をあてたのかなぁと思うのですが。
「ドゥッカ」という新しい単語として理解してみてください。
皆様がたくさん書かれているので、補足はいらないと思います。
私はちゃんとドゥッカ理解せず、
「人間らしい日々の営み」で
「苦」(ドゥッカ)と向き合うこと「から逃げている」
のです(笑)
これわかってもらえたらすごくうれしいなぁ(^^)
(嫌味ではなく、自虐です)
ドゥッカの定義がわかるといいですね(^^)2016年02月09日 (火) 13時53分 No.3468
ボンさんのこの意見を肯定します - とも>私の理解が足りないのかもしれませんが
>本当は仏教の教えが正しいのかもしれません
>しかし私はその教えが現実と離れてると思います
私はボンさんのこの意見を肯定します。
たいへん優れた視点だと思います。
ところで、ボンさんのおっしゃる「教え」というのは、本当にゴータマ・シッダールタ氏(通称:釈迦尊)が述べた内容でしょうか? ボンさんに「教え」を伝えた話者の間違い、勘違い、または、聞き手自身の聞き違いや思い違いはありませんか?
テーラワーダ仏教の伝承によると、釈迦尊は、「聞いた教えを頭から信じてはならない」、「自分できちんと観察し、正しいと分かったことだけを、自分の生き方に利用しなさい」と仰った。
それゆえに、私は(テーラワーダ仏教の)教えは、電子工学や機械工学の工学実験に使う「セオリー」のようなものかと思っています。このセオリーの背景にある現象そのものは釈迦尊が創造神(笑)の如くに造ったわけではなく、地球人類が生まれる以前の太古の昔からそこにありました。釈迦尊は、あくまでも法則性を発見し解説した者(教師)にすぎません。
そして釈迦尊は「教えられた(と思い込んでいる)セオリーを頭から信じてはならない。誤解することもある。あくまでも自他の現象を実験的に観察し、正しいと検証できて分かった範囲だけの知識を、自分の人生の研究開発に利用しなさい」と言っている、と私は考えています。
だから、ボンさん、テーラワーダ仏教の教えのうち、正しいと分かったことだけを自分自身の生き方に活用したらいいですよ。
それと、ボンさんには、中部経典の第一経「根本法門経」をお勧めします。これはテーラワーダ仏教の根本的な本質を語っています。
普通の人間は、この経典を読んでもチンプンカンプンです。
しかし、ボンさん、あなたなら仏教の本質を読み取れるかもしれません。
ボンさんが「私なりに少しずつ仏教の教えを調べてみようと思います」とおっしゃった通りに実行なされば、必ず道が見えますよ。
がんばってください。
2016年02月09日 (火) 13時53分 No.3469