日本テーラワーダ仏教協会の質問&議論用の掲示板です。
投稿は個人情報を削除した上で編集しHPや協会機関誌等に転載する場合があります。
YouTube「日本テーラワーダ仏教協会事務局」チャンネルのQ&A動画で取り上げる場合もあります。
画面左上の検索フォームで過去の書き込みをキーワード検索できます。
投稿は管理人が内容を確認後に掲載します。不掲載の理由問合せにはお答えできません。
質問や相談にコメントする場合は"真理を守る"謙虚な姿勢を心がけましょう。
お問合せは、info@j-theravada.net まで。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。
無我について - simauma当掲示板の様々なコメントの中で「無我」という言葉を見掛けますが、その言葉の使い方は一様ではないような気がします。
「無我」は仏教における重要な概念のひとつであると考えておりますので、個人的にぜひとも正確に把握しておきたいと思い、新たにスレッドを立てさせていただきました。
まず、生意気なようですが、私の考える「無我」の解釈を述べさせていただきますので、ご意見、ご批判、お願いいたします。
私の考えは下記の通りです。
「無我は体験するものではなく、推論するもの」
例;ある森に幽霊が出るという噂が立つ。そこで本当に幽霊が存在するかどうかを確認するために森を探索をする。しかし、調べても調べても動物や樹木や風があるだけで「幽霊」なるものは見つからない。いくら調べても見つからない。幽霊の存在は体験できない。そこで今まで幽霊だと思っていたものは妄想だったのではないかと推論する。それを何度も何度も繰り返す。その積み重ねによって「幽霊はいない」と結論づける。
仏教的に言えば、「色・受・想・行・識」はヴィパッサナーで体験できる、しかし「私」というものはいくら観察してみても見つからない。そこで「私」という実体はない、「無我」である、と結論づける。「無我」を直接体験するわけではない。
以下、邪推です。
「無我」と混同されやすいのはサマタ瞑想における身体感覚が消失していく体験ではないでしょうか。
しかしそれはあくまで「禅定」です。
他宗教における「無我」の解釈は分りかねますが、すくなくとも仏教の説く「無我」とは違うと思います。
私の考えるところは以上です。
まだまだ勉強中、その上、30分も冥想をしておりますと「かったるいなぁ~」「やめたいなぁ~」と思うレベルです。多々、理解の足りない部分があるかと思います。
ご批判、ご意見、よろしくお願いいたします。
掲示板全体を通して、様々な方のコメントに触発されての投稿です。他スレッドと重複する失礼をお詫びいたします。2013年03月15日 (金) 18時43分 No.2384
どこにも存在しないことの証明 - magagiok以前に、きのこさんから引用してもらったスマナサーラ長老の解説で、どこにも無い、どこにも存在しないことの絶対的な証明は無理で、範囲を限定した中で、その範囲には無い、と言うしかない、だから、正確には、見つけられないというのが正しい、というようなことだったと記憶しています。
記憶が曖昧なので、また引用してもらうとありがたいのですが。
日々実感している自我意識、主体として実体感のあるこの「私」、「我」について、瞑想などを通じて観察してみたら、それは、後から作られた概念に過ぎなかったと、その正体が明らかになる(スマナサーラ長老は、妄想概念と説明しますね)。それは実在たる実体としての主体たる私、我ではなかった。
では、その存在が伝承されてきた実体たる我が、他にあるのかどうか。
観察してみると、人間存在には五蘊しか見つけられない。
しかも、その五蘊は、どれも部分的な機能たるもので、実体たる主体ではない。
だから、人が見つけられる範囲には、実体たる主体、我は無い。
我は、見つけられない。
では、人の観察能力の範囲外に、実体たる主体があるのだろうか。実体たる我は有るのだが、人の観察能力では、それが見つけられないだけなのか。
しかし、そんなことを考えるのは、無意味である。なぜなら、人の観察能力の範囲外のことは、人は知りようがないから。
経典に、「一切」について、その意味について語られているものがありますよね。私は、その一切は、人の扱える範囲内すべて、という意味に理解しています。
そして、その経典では、その一切を超えたものについて論議しても説明に窮するだけである、なぜなら、その一切の範囲を超えているからである、というようなことが書かれていたと思います。
だから、どんなに探しても、実体たる主体、我は、見つけられない、というのが無我の意味と私は理解しています。
そして、仏教と対抗関係にあるバラモン教は、人の認識能力を修業によって極限まで高めたときに、つまり、特別な方法で特別な認識能力を得て初めてその実体たる主体、我を認識できるとされているようです。
スマナサーラ長老が、インドのヒンズー教では現代に至ってもまだ探している、見つかりっこないのに、と語ったのを聞いた記憶があります。
釈尊が見つけられなかったものを、見つけられるだろうか。
インドのヒンズー教の学者が、釈尊は、我ではないものを、それは我ではないと言っただけで、我が存在しないとは言っていない、我は有るのである、と解説する、なんとも迷惑な言い掛かりであるとスマナサーラ長老が語ったのを聞いた記憶があります。
2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2389
こんにちは。 - むいむいこんにちは。
私もまだまだ言えた立場ではないのですが、意見を書かせて頂きます。
私の場合はまったく逆で、
「無我は推論するものではなく、体験するもの」
という考えです。
例:ある森に幽霊が出るという噂が立つ。そこで本当に幽霊が存在するかどうかを確認するために森を探索をする。しかし、調べても調べても動物や樹木や風があるだけで「幽霊」なるものは見つからない。いくら調べても見つからない。幽霊の存在は体験できない。そこで今まで幽霊だと思っていたものは妄想だったのではないかと推論する。それを何度も何度も繰り返す。その積み重ねによって「幽霊はいない」と結論づける。
まったく同じです、はい。しかし私はこの例題を見て、体験によって幽霊は存在しないことを証明していると思いました。
以下、理由です。
幽霊の噂を聞く→幽霊がいると妄想する→実際に見る→いないと体験する→それによりいると思ったのは妄想だということがわかりました。
仏教的に言えば、
私がいると妄想する→「色・受・想・行・識」をヴィパッサナーで体験する(実際に見る)→しかし「私」は見つからない(調べても見つからない)→私の存在は体験できない(いないと体験する)→そこで「無我」であると結論づける。
となります。
今回の例題ですが、問題点をあげるとしたら二つあります。
①例題が相違している。
②体験度のレベルが不明
まず、①についてです。
>「無我」を直接体験するわけではない。
という結論ですが、これは幽霊の例題を参考にすると「幽霊の存在は体験できない」という項目をスキップしていると思います。
例題は、
○幽霊なるものは見つからない→幽霊の存在は体験できない=幽霊は存在しないことを体験した→幽霊は妄想だった
ですが、仏教的の例は
○私は見つからない→私は無我だった
になっています。
確かにこれなら"無我は推論するもの"であると思いますが、例題に当てはめた通りにするならば、
◎私は見つからない→私の存在は体験できない=私は存在しないことを体験した→私は無我だった
となるはずです。
次に②です。
「幽霊を探しに森へ行き=ヴィパッサナーで観察」になってしまっていることについてです。
幽霊がいないことを体験できたのは、幽霊がいると言われている森へ"実際に行った"から体験できたのだと思います。
私がいないことを体験できたのは、ヴィパッサナーで観察したから体験できたのだと思います。
しかし、この場合のヴィパッサナーの観察はハッキリとしたレベルが不明なのです。
本人は森へ行ったつもりでも、もしかすると「a.森の写真」を見ているだけかもしれません。
あるいは「b.森を遠くから」見ているだけかもしれません。
aやbの場合だと、当然、幽霊がいないということは、実際に森へ足を踏み入れた訳ではないので推論になってしまいます。
これらを考えた上での私の結論としては、
「その場にちゃんと行って、存在しないことをちゃんと調べて、しっかりとそれを体験したからこそ、存在しないことがわかった」
となりました。
以上が思ったことです。とても勉強になりました。
幸せでありますように。2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2390
目的は、苦しみの終滅 - magagiok釈尊は、存在すると伝承されてきた実体たる我を見つけられなかったが、苦しみの終滅を実現した。
だから、仏教においては、実体たる我を見つけられなくていい。探さなくていい。それを見つけられなくても目的を達成できたのだから。
というより、伝承されてきた我への執着を捨てることで、それで初めて苦しみを終滅できた。だから、それが有ると思ってそれを探してはならない。それに関わっていては悟れない。
しかし、バラモン教においては、伝承されてきた実体たる我を真に認識できたときに苦しみが終滅する、と伝承されている。その我は歓喜そのものだと伝承されてきたから。
だから、実体たる我を認識しようとする。
でも、実体たる我を認識して苦しみを終滅できた人は、いるのだろうか。
まあ、それがいるという伝承があってそれを信じているのでしょうね。
だから、仏教とバラモン教(ヒンズー教)が議論すると、不毛な論争になってしまうのでしょうね。
2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2391
自分の理解では - kou1文で言うなら「これが自分である、自分のものである、と指し示せるような、確固たるアイデンティティは存在しない」です。
もう少し短く言うと「実体論の否定」。
「如来は死後存在するか」という、いわゆる無記にブッダが答えた経典があります。
質問者にブッダが答えます。(意訳)
「この色が如来でしょうか?」
「いいえ」
「ではこの受が如来でしょうか?」
「いいえ」
「ではこの想が、行が、識が如来でしょうか?」
「いいえ」
「今現在においてさえ「これが如来である」と言えないのに、過去未来に如来がどうであるかなどとは言えたものではない」
http://suttatoday.hatenablog.jp/entry/sn44_002
私は無我は実際に体験して理解するものだと思っています。
「今までこれこれを自分だと思っていたが、実はそうではなかった」というのはちょいちょい経験することで、これが進めば最後に「全部自分ではなかった」と経験するのはありえないことではないな、という「推測」です。
2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2392
お邪魔いたします - Rsimaumaさん、こんにちは。
お呼びでないかもしれませんが、厚かましくもこのスレッドにお邪魔させていただきます。
>しかし「私」というものはいくら観察してみても見つからない。そこで「私」という実体はない、「無我」である、と結論づける。
仰せの通りだと思います。
>「無我は体験するものではなく、推論するもの」
ここでsimaumaさんがおっしゃっている「体験」とは、「ある状態に陥る」ということならば、確かに無我は「体験するもの」ではありませんよね。
ただ、無我であることを「見破る」「実感する」ことを「体感する」と申すことができるのならば、「体験」ではなく「体感」するものだとは言えると思います。
無我を理解していない状態では「推論」も当然必要ですが、推論だけでは足らず、simaumaさんの仰せの通り、「観察」を通して実感することが大切だと思います。
幽霊の例は、「自我は存在する」と思っていたところ、確認して見たら存在しないことがわかったということの例えですよね。
従って、幽霊の存在を信じている人にとっては、とてもわかりやすい例だと思います。
しかし、幽霊の存在を信じていない人にとっては、もともと「存在しない」と思っているものを「ほら、やっぱり存在しない」と確認するだけになってしまうので、あまりピンとこないかもしれません。
>「無我」と混同されやすいのはサマタ瞑想における身体感覚が消失していく体験ではないでしょうか。
しかしそれはあくまで「禅定」です。
その体験が「禅定」かどうかはわかりませんが、「変性意識状態」と言われているものかもしれませんね。
「変性意識状態」は、飲酒などによっても引き起こされるそうです。
私も若い頃、深酒をして、そのような感覚に陥いったことがありました。
また、風邪か何かで発熱し、頭はぼーっとしているものの体は辛くないということが1度あり、布団に横になっていたところ、そのような状態になりました。
私の場合、「飲酒」「発熱」といったように、明らかに脳がダメージを受けているときの体験でしたので、「すばらしい体験」というよりも「脳が誤動作している」「一過性とはいえ、あまり好ましくない状態」という印象が強かったので、その体験に執着することはありませんでした。
しかし、自分という境界線が曖昧になり、世界と一体化したような、えもいわれぬ気持ちよさや至福感を感じましたので、これがもし「瞑想」等、別に体に悪いことをしてるわけではない状態で陥ると、それが真の世界だと思ってしまう、といいますか、思いたいという気持ちになるのも、よくわかります。
最後に、無我についてひとつ追加させていただくと、「自分とは、あるインプット(刺激)に対し、欲や怒りの反応を自動的にアウトプットするだけのプログラムやロボットのようなものであり、そこに自由意志はない」ということも、重要なポイントだと思います。
2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2400
simaumaさんへ - いづる我々が実感している自我は‘幽霊の噂’程度のものではありません。誰もが100%信じて疑わないものです。実感しているものです。
その実感がどのような仕組みで生じるのかを瞑想で発見し、幻覚であったと発見するのです。
こちらをご参考にしてください。
[Dhammacast]Q&A集 「自我」という幻覚を破る
http://gotami.j-theravada.net/2006/04/dhammacastqa-3.html
僕からは以上です。
それでは、幸せでありますように。2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2404
もともと、覚りとか無我は、無知におおわれた我々には、言語では理解できないものだと思います。
しかし、今は、ネットでだれでもなんちゃって評論家になれる時代であるため、知識欲がすごく、やたら専門用語を使って、分かった気になっているのです。
知識欲を満たすために仏教を学んでも進歩はないでしょう。
瞑想については、効果を期待過ぎて、逆に効果が出ない人が多いと思います。
長老は、【充実感こそ幸せ】と説かれます。
瞑想をやってその効果を得ることは、確かに幸福ですが、それをやりがえにすると全然結果は出ません。
結果を出すためには、その瞑想をしている瞬間に充実感を実感することが大事であると思います。
その充実感をやりがえにすることが瞑想の効果を得るための正しいやり方です。
詳しくは、長老の法話dvdのやる気について説かれた法話をご覧になって下さい。
この充実感を生きがいにする必要性は、瞑想だけでなく、お布施にしても、戒律を守るにしても、俗世間における、仕事、勉強においても一緒です。
2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2406
こんにちは。 - クロ無我については、
パティパダー巻頭法話
魂は巨大妄想の産物である
http://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
に書かれています。
『仏教辞典』ポー・オー・パユットー著
には、
無我性ー自我のないこと。
空定ー空を考察して見る定、すなわち無我相を定めて解脱に至らしめる観。
無我想ー一切法の無我を観想する。
と書かれています。
無我を観る方法があったんだなぁと思いました(笑)
特定の個人の
悟りの体験(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果)と、
禅定体験の違いは一般人には判断できませんが、
悟りについては『悟りの階梯』に書かれているみたいです。
悟りの体験か、禅定体験かは専門家にみてもらうのが一番ですね(^^)
私もヴィパッサナーはしんどいなぁと思っていました。
でも、
『マインドフルネス気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ著
を読んで、
24時間ヴィパッサーナーの素晴らしさがわかりました。
実践はできていませんが(笑)
「今」に集中する素晴らしさ、慈しみの素晴らしさが書かれています(^^)
私は長老の本を読んだときに、ドゥッカを見てショックを受けました。
今も苦しんでいます(苦笑)
諦められればいいのでしょうが、執着が残って苦しんでいるのです(笑)
無常と無我だけなら、よかったのですが、
お釈迦様は全てはドゥッカだから私たちを救ってくださるために、
法を説いてくださったのですよね。
「常住、善いもの・楽なもの、我はある、体はきれい」
という顛倒やありえない期待・願望をなくしたいものです(苦笑)2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2407
調べました - クロ無常・苦・無我の見方などというのは結局、存在の「ありのまま」の状態の説明なの
です。だから、どの方法がいいかなどと議論する必要はありません。同じことなのです
から、自分にわかる見方で見ればいいのです。
もしも苦の見方が身についたのなら、無我や無常の見方も同じなのです。べつに気に
する必要はありません。仏教で「智慧」と言っているのは、つまりこの「ありのまま」
を発見する能力のことです。この定義はよく覚えておきましょう。
『苦しみをなくすこと』p165-166
それで、お釈迦様は、
「(感じるものはすべて苦に属する)」(パーリ語省略)
ということを教えています。
このように、生きるためには苦をまず知り尽くす必要があるのです。生きることの中
に一つも楽はないのです。「少しは楽がある」ということもないのです。「もしたとえわ
ずかでも生きることに楽・幸福があるならば、私は一切衆生に解脱について語りません」
とお釈迦様が明確に説くのです。
『苦しみをなくすこと』p180
“無常の見方”を万能薬にしましょう。すべて無常だという見方でいると、冷静でいられ
ます。幸も不幸も長持ちしないと知って心を落ち着かせることができるのです。「私は安
心・安全でありたい」という完全な状態を望んでも絶対叶わないという苦しみを、“無常
の感覚”が治すのです。
私たちが犯す失敗の多くは、その根底に“無常の忘却”があるからこそ起こるものです。
無常の見方で生きる人は、因果法則(因縁)を理解します。
一切の現象は、原因と結果という因果法則によって一時的に成り立つことを知るのです。
一切の現象は、変化しつつ消えるものです。
自分も世界も因果法則によって起こる一時的な現象だと理解する人は、一流の“人生の
整備士”になれます。体や心がトラブルを起こしても、あわてずにさっさと修理して、最
善のコンディションを保つことができるのです。
無常と因果法則が身についた人は、“自我”という幻覚から解放されます。
すべては無常で、因縁より起こる現象なので、不変に固定された芯のような自我や魂な
ど成り立たないのです。仏教を学んで理性が身につくと、「わたし」という確固たる実体
はどこにもない、そんなものは幻覚だとはっきりわかるのです。
人間の一切の問題の原因は、この自我という幻覚から起こっています。
「自我は幻覚である」と納得できれば、どんな逆境にも負けない強者になれるのです。
“無常の見方”を万能薬にして、因縁を理解して、自我は幻覚であるとはっきり知った人
は、一切を「捨て去らねば」と覚悟します。
私たちはすべてを捨てて死を迎えなくてはいけないのです。
人生はすべてレンタルなのです。
何一つ「自分のもの」にはならないのです。自分から必ず離れていくのです。
そしてその自分さえ最後に捨てて離れていかなくてはならないのです。
生きるとは、次々と直前の自分を捨てていくプロセスです。捨てた自分はもう二度と拾
えません。
一切は捨ててしまうものだと覚悟した人は、捨てて、捨て続けた先に、この上ない心の
自由に到達するのです。
『小さな「悟り」を積み重ねる』p15-162013年03月18日 (月) 22時43分 No.2410
こんにちは。
無我に成った訳では、ありませんが、自我というものが
何なのか、私の体験を書きたいと思います。
前に病気が酷く無い時に4時間位瞑想をやっていたときの事です。
嫁と話しているのに、相手の言葉に勝手にサティーが入り、
日本語なのに音にしか聞こえず、
理解出来なくなってしまった時がありました。
不便なので戻しましたが、
自我を形成しているものが感情だと理解しました。
好きなお笑い番組を見ていても、
「感情にエネルギーを流さない」と言う事が出来て
笑いをコントロール出来ました。
2時間TVを見て、面白いと言う感情にエネルギーを行かせなかっただけで一回も笑う事もありませんでした。
人が前から歩いて来る時も、「避けなくちゃ」
という感情が生まれますが、そこにエネルギーを流さないと、
避けないでいられて、相手が避けてくれました。
自分を運転している感じでした。
心臓も少しだけれど鼓動も調節出来ました。
感情はありますが、完全にコントロール出来ました。
無我には遠いですが、感情とは一枚壁が出来ている状態でした。
これがもっと進めば、「感情自体が無くなっていくんだなあ」
と言う事を体験しました。
私は自我を発見出来ましたから、無我を理解出来ました。
少しでもお力に成れれば幸いです。
ちなみに今は、あまり瞑想が出来ないので、元に戻っています。
2013年03月18日 (月) 22時43分 No.2411
皆様、ご回答、ありがとうございました。 - simauma仏教に出会って二年強、少々仏教のことが分りかけて参りました関係でこちらに投稿する機会も多く、そんなこんなで恥ずかしながら、最近、かなり慢心しておりました。そんな慢心からか自分の見解には執着し、他人の意見へは怒りを覚えるということも多く、その上、充分に理解していないことにも口を出す始末。このままでは自分は「裸の王様」のになってしまうのではないだろうか、とのちょっとした不安がありました。
今回、改めて質問者の立場に戻り、このような投稿をさせていただく機会を頂けたこと、そして多くの皆様よりご回答を頂いたこと、深く感謝しております。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2415
magagiokさんへ - simaumaどうもその節はお世話におりました。
>経典に、「一切」について、その意味について語られているものがありますよね。私は、その一切は、人の扱える範囲内すべて、という意味に理解しています。
>釈尊は、存在すると伝承されてきた実体たる我を見つけられなかったが、苦しみの終滅を実現した。
第一義的には現実の幸福の追求、それが仏教を学ぶ目的だということでしょうか。なぜ仏教を学ぶかを改めて考え直す必要がありそうです。ただの議論好きの中高年になるのだけはなんとしても避けようとおもいます。
今回もご指導いただき、ありがとうございました。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2416
むいむいさんへ - simauma>まったく同じです、はい。しかし私はこの例題を見て、体験によって幽霊は存在しないことを証明していると思いました。
私は自分の認識能力が不充分だと思いますので、
「自分の体験できていないもの」=「ないもの」
とはならない、と思うのです。それはむいむいさんの下記に疑問への答えともなります。
>体験度のレベルが不明
いやぁ~、実はかなり低いです。
>実際に森へ足を踏み入れた訳ではないので推論になってしまいます
そうなのです。ですから、私にとっては永遠に推論になりそうなのです。
それは自分の才能、精進の問題なので仕方ないとして、問題は智慧に至るための方法論として間違っていないだろうか、ということだったのです。どうやらそれほど間違ってはいないようですので、少し安心しました。
ありがとうございました。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2417
kouさんへ - simauma>「今までこれこれを自分だと思っていたが、実はそうではなかった」というのはちょいちょい経験すること
何かがないことによってそれまでの認識を変えざるをえない経験、ということでしょうか。直接体験ではなく間接体験ですね。それは私も時々経験します。しかし、私の場合、それは相当不安定な経験でもあるのです。
ただ、
> これが進めば最後に「全部自分ではなかった」と経験するのはありえないことではないな、という「推測」です。
と、おっしゃる体験は論理的に理解できます。
素敵なサイトの紹介、ありがとうございました。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2418
Rさんへ - simaumaこんにちは。その節はご指摘ありがとうございました。大変助かりました。
> 無我であることを「見破る」「実感する」ことを「体感する」と申すことができるのならば、「体験」ではなく「体感」するものだとは言えると思います。
これはkouさんの仰っていることと同じでしょうか。観察の精度を高め、完全に見破れば純粋な経験に匹敵しうる可能性もありそうですね。ただ、私の場合、それは相当先のことのようです。今は修業の方向性、ものの見方が間違っていなければいいと考えています。
ただ、
> 自分とは、あるインプット(刺激)に対し、欲や怒りの反応を自動的にアウトプットするだけのプログラムやロボットのようなものであり、そこに自由意志はない
これはよく分りませんでした。刺激に反応している自分について意識的になり、場合によって反応しないことにする、ということは可能なのではないでしょうか。
それとも仰っているのは「欲や怒りの反応を自動的にアウトプット」した時点でその欲や怒りに基づいて自我という幻が生まれる、自動的に反応しなければ(つまり刺激に反応していることに自覚的になれば)自我はない、ということをおっしゃっているのでしょうか?
スマナサーラ長老もどこかで仰っていましたが、右足を下ろしたら意識は次に左足を上げることに行く、という意味でしょうか。
つまり選択肢は前の行動によって常に狭められる、それを極限まで観察していくと選択肢は反応するか、反応しないかの二者択一であり、反応したときには「自我」が生まれる、といったようなことなのでしょうか?
もう少し説明していただけますと助かります。
幸せでありますように。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2419
いづるさんへ - simauma> 我々が実感している自我は‘幽霊の噂’程度のものではありません。誰もが100%信じて疑わないものです。実感しているものです。
その通りですね。実のところ、私も100%信じて疑っていません。
法話、早速聞きました。
もっと冥想をしなければなりません。
いつも適切なご引用、参考にさせていただいております。
ありがとうございます。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2420
慈悲と智慧さんへ - simauma>今は、ネットでだれでもなんちゃって評論家になれる時代であるため、知識欲がすごく、やたら専門用語を使って、分かった気になっているのです。
それ、私です。
>知識欲を満たすために仏教を学んでも進歩はないでしょう
仰るとおりですね。
> 結果を出すためには、その瞑想をしている瞬間に充実感を実感することが大事であると思います
その充実感をやりがえにすることが瞑想の効果を得るための正しいやり方です。
詳しくは、長老の法話dvdのやる気について説かれた法話をご覧になって下さい。
そうですか。長老がそんなことを仰ってますか。実のところ、冥想自体を遣り甲斐にすることは現実逃避のような気がして、逆にそうしないようにと気をつけていたんですが・・・・・・一度ご紹介いただいたDVDを観てみようかと思います。
仰っているDVDとは下記のことでしょうか?
教えていただければ助かります。
『ダンマパダ 第二章 不放逸(おこたらないこと)25 ~やる気を出して瞬間に集中し 欲望に流されない自分を作ろう~』
ありがとうございました。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2421
クロさんへ - simaumaこんにちは。
わざわざお調べいただき、ありがとうございます。
>無常・苦・無我の見方などというのは結局、存在の「ありのまま」の状態の説明なの
です。だから、どの方法がいいかなどと議論する必要はありません。同じことなのです
から、自分にわかる見方で見ればいいのです。
もしも苦の見方が身についたのなら、無我や無常の見方も同じなのです。べつに気にする必要はありません。仏教で「智慧」と言っているのは、つまりこの「ありのまま」
を発見する能力のことです。この定義はよく覚えておきましょう。
そうですか。修業の進歩ということを考えた場合、特に無我に拘る必要もないわけですか。あれもこれもと手を出すよりも、一点集中が望ましい、ということでもあるのでしょうか。それなら私は「無常」を選びたいと思います。どうも「無我」とは相性が悪そうです。
> 無常の見方で生きる人は、因果法則(因縁)を理解します。
一切の現象は、原因と結果という因果法則によって一時的に成り立つことを知るのです。
一切の現象は、変化しつつ消えるものです。
自分も世界も因果法則によって起こる一時的な現象だと理解する人は、一流の“人生の整備士”になれます。体や心がトラブルを起こしても、あわてずにさっさと修理して、最
善のコンディションを保つことができるのです。
“人生の整備士”とはいい表現ですね。まずは三級を目指したいと思います。
ご紹介いただきました巻頭法話は読んでいたはずですが、その内容を少々歪曲して覚えていたようです。再読の機会を与えていただき感謝します。
> 無我想ー一切法の無我を観想する。
と書かれています。
無我を観る方法があったんだなぁと思いました(笑)
『パティパダー』に連載中の「念処経講義」でそろそろ長老がそれについての解説されるのではないでしょうか。私は楽しみにしています。
ご紹介いただきました『マインドフルネス気づきの瞑想』早速購入しました。
いろいろありがとうございました。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2422
ももやんさんへ - simaumaいろいろすごい体験をされているのですね。大変興味深いです。
>自我を形成しているものが感情だと理解しました。
つまり自我は貪瞋痴によってなり成り立っているということを体験されたということでしょうか。
>私は自我を発見出来ましたから、無我を理解出来ました。
すると貪瞋痴をなくすことで無我の体験もできるのかもしれませんね。そしてそのことはとりもなおさず、純粋な無我を体験することは悟るまでお預け、ということにもなりそうです。
やはりあまり無我には拘らず、無常の観察から因果法則の理解へと進みたいと思います。
そのことによりももやんさんがおっしゃる「自分を運転している」という感覚を掴めるようになるのかもしれません。
おからだの具合はいかがですか?
また冥想ができるようになるといいですね。
幸せでありますように。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2423
こんにちは。 - きのこsimaumaさま、みなさま、こんにちは。
(magagiokさんの投稿より引用)
>以前に、きのこさんから引用してもらったスマナサーラ長老の解説で、どこにも無い、どこにも存在しないことの絶対的な証明は無理で、範囲を限定した中で、その範囲には無い、と言うしかない、だから、正確には、見つけられないというのが正しい、というようなことだったと記憶しています。
>記憶が曖昧なので、また引用してもらうとありがたいのですが。
magagiokさん、こんにちは。引用してみますね。
========
『無常の見方』スマナサーラ長老・サンガ、P123~125よりの引用
(引用開始)
『●「ない」と言うのは、難しい(まめ知識)
ここで仏教の論理学に少し踏み込んでみましょう。
さきほど、「この世界ではすべてを一括管理する固定したシステムが『ある』ということは決して発見できない」という回りくどい言い方をしましたね。これはもちろん意図的です。
筋道立てて説明しましょう。
(1)「花がない」という宣言は「花」を前提にして成立しています。「花+がない」で「花がない」ですからね。論理的に、「花」なくして「花がない」とは言えないのです。これと同様に、「一括管理するシステムが、ない」という宣言は、「一括管理するシステムが、ある」ことを前提にして成立しています。要するに「ない」と言うためには「ある」が必要なのです。
(2)ところが「一括管理するシステム」は世界のどこを探しても発見できません。そんなものが「ある」というのは、論理的に成り立たないのです。
(3)結局、「一括管理するシステムが『ある』ということは決して発見できない」と言わざるを得ないのです。
論理的に「ない」が成り立つことが難しい理由は、まだあります。
世界には花があります。だったら「この部屋に花がない」と言えるでしょうか?
駄目です。論理的に正しく「ない」が成り立つには、「いま、この部屋に花がない」のように時間的なリミットが必要なのです。私たちが帰ってから誰かが部屋に花を持ち込めば、「この部屋に花がない」という文章は嘘になってしまうからです。空間と時間で限定するならば、嘘にはなりません。
このように「ない」と証明するのは、簡単ではないのです。気軽に「ない」と言い切れるものではありません。空間、時間を考慮して、限定的に語るしかないのです。
ここで多くの人が引っかかります。たとえば、「お釈迦様は非我とは言っているが、無我とは言っていない。我を完全に否定したわけではないのだ」と言う人たちがいます。私にとっては、無我でも非我でもどうでもいいのですが、要するに彼らは「ブッダは我を認めていたのだ」「ブッダは我がないとは言っていない」と言いたいのですね。子供の言いがかりのように感じます。これは彼らが「ない」と言うことの難しさを理解しないからなのです。
逐一こういう論理的に厳密な言い方をしていると話がわかりにくくなるので、私も「永遠不滅の神はない」といった、論理的には穴のある一般的な言い方をしています。しかし、厳密に真理を語るなら、「永遠不滅の神があることは発見できない」という言い方が本来は相応しいのです。少し頭の隅に置いておいてください。 』
(引用終了)
以上が、私が前に引用した箇所だと思います。
今の話題に関連するかな?と、まだ引用してなかった箇所で、目についたところがありましたので、
その箇所
(『無常の見方』P140~142・ブッダは因縁ですべてを説明する)
を、新たに引用しようかな、と、思います。
その箇所では、ブッダの能力と、私たちの能力の違いを踏まえ、文章が述べられているように、私には思えました。(勘違いしてたらすみません。)
もし、気が向いた時は、読んでみてくださいませ。
でも、少し時間が空いてからの、投稿になるかもです、その時は、すみません。m(_ _)m
とりあえず、前の投稿で引用した分を、投稿しますね。
では、失礼します。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2427
simauma様へ - ハッピーライフ
おそらく、以前の私の投稿も切っ掛けの一つだと思うので、改めて正確に書き記しておこうと思います。
”有⇔無”の内、”無”とは、言語上に仮設した存在現象=有への相対概念でしかないため、実体は当然ありません。
存在しないものを無と呼んでいるので、それそのものを体験・体感する事はあり得ませんよね。
無我とは、あくまで気付くべき事実を言葉で表現しているに過ぎません。
無我を悟るとは、”主体⇔客体”という縁起の相対関係に完全に気付き、”有⇔有(我)”の錯覚状態から、”有(意識)⇔無”と認識が矯正される事です。
そして、無我が真理であると体感レベルで気付くと、その瞬間に一切の我見が完全に消え、意識の内側は完全に空っぽ=無になり、必然的に完全なヴィパッサナー瞑想に入ります。その結果、五感に触れるもののみをあるがまま認識しているだけの状態に至ります。この状態を、世俗諦において論理上生じる相対的無という概念を以て、無我の体験、無我を体感、と呼んだに過ぎません。
もしも誤解をさせてしまいましたら、お詫びします。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2430
『無常の見方』からの引用 - きのここんにちは。
『無常の見方』スマナサーラ長老・サンガ、p140~142より引用します。
========【以下、引用開始】========
『 ブッダは因縁ですべてを説明する
●因縁で説明できないことはない
ブッダは因縁で「すべて」を説明します。
そしてブッダは「因縁の話が難しいのだ」「これは人間にはなかなか理解できない」と言うのです。軽々に戯れに語るものではない、と。
あるときお釈迦様にずっとお仕えしていたアーナンダ尊者が、そのときはまだ完全には悟りを開いていなかったのですが、こんなことを言いました。
「お釈迦さまはいつも、因縁の話は難しい、とおっしゃっていますが、私には簡単に理解できます」と。
それに対してお釈迦さまは「そんなことを言うなよ」とたしなめたのです。「これが確かに難しいのだよ」「因縁の話は意味が深いのだ」」因縁がわからないから、人間は絡みに絡んだ糸の中でもだえ苦しむのだ」と。
まさにブッダのおっしゃるように因縁で説明できないことはありません。
因縁は巨大なスケールで働いています。
全宇宙のビッグバンであろうが、ビッグクランチであろうが、生命の誕生であろうが、輪廻であろうが、すべてに因縁の法則が働いているのです。
一方で因縁の法則は、限定されたスケールでも働いています。
科学は、セクションを区切って限定的に研究する方法です。
「ゾウが、いる/いない」をチェックする場合は、この部屋という空間を限定し、何時から何時までという時間を限定するでしょう。
科学はそういうやり方なのです。
その限定された範囲の中でも因縁が成立します。
むろん「個別の因縁」は違うのです。「因縁A」と「因縁B」は違います。ただ「因縁」という点では共通しています。
たとえば素粒子と微生物とでは、研究に使う道具もやり方も違います。
同じ微生物の研究でも、腸内の微生物の研究と、外部から身体を攻撃する微生物の研究では、やり方がそれぞれ違います。それでも「因縁」という点で共通しているのです。
だから「因縁そのもの」がわかるレベルにある人なら、どんな疑問が生じても、たちまち答えを見出すのです。
しかしこれはきわめて難しいでしょう?実際、あらゆる因縁について答えられる生命は、ブッダをおいてほかにいないのです。
●仏教は「自分に関する因縁の説明」
ブッダの教え方をまとめて現代風に言い換えてみると、次のような言葉になるでしょう。
「宇宙や生命に関する一切の因縁法則を完全に理解できるかどうかは、重要なことではないのだ。すべてを理解するためには人間の寿命はあまりにも短い。もっとも重要なところだけ理解すればけっこうです」と。
では「もっとも重要なところ」とは何でしょうか?
「君がいま生きている。
君には苦しみがある。
苦しみをなんとかしようと踏ん張れば踏ん張るほど苦しみが増える一方で、楽しみはむしろ減ってしまう。
これはよくないでしょう?
だったら『君の存在に関する因縁』を発見しなさい」。
ブッダはこのように言うのです。
このうえなく優しい方は、さらに続けます。
「しかしこれも、君の能力では発見できないかもしれません」。
確かにそうですね。「自分の因縁を見つけなさい」と言われても、途方に暮れますね。実際、超越した智慧がないと、個人で発見することは難しいのです。
それで「はい、これが君の存在に関する因縁ですよ」とブッダは親切に教えてくださったのです。これがすなわち仏教です。
仏教とはそういうものなのです。「仏教は、自分という存在について、因縁で説明した教え」なのです。自分に関する因縁の説明なのです。
繰り返しますが、仏教では、基本的に自分という存在の説明に限定して因縁を語ります。これはお釈迦さまの態度です。「生命の幸せに役に立つこと」に限定したのです。ほかのものにもチラチラと因縁の法則を当てはめて説明することはありますが、そういうときには「これは君の幸せには関係ないでしょう」という態度を取るのです。
========【以上、引用終了】========
きのこの読書感想文↓
この文章では、
釈尊の因縁を観る能力、と、「私の存在に関する因縁」とは、同じ問題としては扱われてはいなくて、
《お釈迦さまはいろんなこと知ってるけど、
「この私」に、涅槃への道を教えてくれる時は、
「この私の存在」にセクションを区切り、教えとして渡してくださっている》、という意味のことが書いてあるのかな、と思いました。
教えとしては、「私」自身の存在に関する因縁に、限定的に区切られているので、
「私」自身の「一切」は、とりあえず閉じられたものとなり、
今のところ、
(観察してみると、人間存在には五蘊しか見つけられない。)
で、「私」が悟るためには、それで十分なのかな、と思いました。
今回、本を読み直して、「こんなことが、書いてあったんだ~」と思いました。ありがとうがざいました。2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2431
有ることの証明 無いことの証明 - eco掲示板は説明が分かりやすい時と、解釈が分かれてしまってちょっと分かりづらい時もありますね。
意見ではなくて、初心者の感想になってしまいますが失礼いたします。
無我については、よく科学で「無いことの証明はできない」と言われていることを思い出してしまいました。
でも、有ることの証明はできるので、
ヴィパッサナーで観察してみても、有ることを証明できない、故に無我である
という風に理解しています。
(幽霊の例えと同じになりますよね?)
またRさんも書かれていますが
「自分って何? 自我って何?」と振り返ると、
まず肉体というハードがあることが前提で、
そこに経験や知識というソフトが入って、
何らかの刺激が入力されると、自動的に思考や感情がアウトプットされるだけだということですよね。
(一般的には思考や感情が独立した自我として捉えられている)
そう考えれば、私も思考レベルでは無我だと理解できるのですが、それば言わば教科書を読んで「なるほど~」と思っただけであって、実際に確かめた訳ではなく、伝聞に過ぎないのですよね。
結局、ヴィパッサナーをして自我が見つからないことを常日頃確認してしないと、忘れてついつい自我で行動してしまうんだろうなと思います。
他の方の瞑想の結果については、なんとも判断しようがないですよね。
本当にそうかもしれないし、勘違いということもあるかもしれないし。
残念ながら他人には確認のしようのないことですものね。もしかしたら阿羅漢のようなレベルの方から見たら判断できるのかもしれませんが… (と妄想はこの辺にしておきます)
瞑想する時、個々人の状態もレベルも違うし、
厳密な意味で真似もできなければ、全く同じ瞑想はできないと思うので、「あなたはそうだったんですね」程度に受け止めて、淡々とヴィパッサナーするしかないのかな?と考えています。
まずは瞑想中に無我に気付くこと、いずれ瞑想中だけでなく、毎秒無我に気付き続けていれば執着の生まれる隙も無くなって、とても単純に生きやすくなるのでしょうね。
幸せでありますように。
2013年03月21日 (木) 15時36分 No.2432
感謝 - magagiokきのこさん、いつもありがとうございます。
それは違う、それを発見できない、と言うと、それは有るのが真実だが、見つけられないだけだ、と解釈されてしまう、そこが悩ましいところなのでしょうね。
それは竜の定義に反するから、それは竜ではない、そこに竜を見つけられない、と言ったら、竜の実在を認めたことになるだろうか。
そう考えるといいと私は思っています。
2013年03月22日 (金) 11時58分 No.2434
こちらです↓
「やる気」のエネルギー源~挫折しないための「意思」と「動機付け~注文番号DVD:V-171D
~人は目的に向けて努力しようとするが、しばしば挫折を余儀なくされる。私たちが活動を全うするために必要な心がまえとは何か?
…ただ、一回見ただけでは、当たり前の事を仰っているだけだなとがっかりされるかもしれません。繰り返しご覧になると色々発見があるすばらしい法話です。
あと、動画と音声ですがこちらをご参考になさってください。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=2GDE9zUfeZk&feature=youtu.be
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1863231.html
の
■実感する■ という法話です。
唯、最終的には、スマナサーラ長老に直接お聞きになることが、もっとも安全で、もっとも功徳があります。
こればかりは否定しようがありません。どうしようもないと思います。
無我、覚り、瞑想、この辺りは、自己流やこの掲示板で答えを求めると、思わぬ落とし穴に落ちてしまう可能性は否定できません。
2013年03月22日 (金) 11時58分 No.2436
範囲外 - magagiok別のサイトで、きのこさんに引用してもらった箇所を探してみたらあったので読んでみたら、次の記載がありました。
『因果の法則からいえば、「絶対的」(absolute)といえるものは成り立ちません。すべてが一時的なものです。
その意味でも宗教の絶対的な神、永遠不滅の魂というのは、ただの観念、妄想です。
「永久不滅の神は、絶対ない」と言うことは論理的に難しいですが、「あるとは発見できません」。百歩譲って変化しない絶対的なものがあっても、それは情報を発信しないので認識できません。我々の知ったことではない。関係ありません。範囲外です。』
2013年03月22日 (金) 11時58分 No.2437
きのこさんへ - simauma引用ありがとうございます。
>このように「ない」と証明するのは、簡単ではないのです。気軽に「ない」と言い切れるものではありません。空間、時間を考慮して、限定的に語るしかないのです。
限定的に語るしかない、というのはなんとなく分っていたのですが、時間と空間というように限定するのだと具体的に理解できたのは初めてです。
>仏教では、基本的に自分という存在の説明に限定して因縁を語ります。これはお釈迦さまの態度です。「生命の幸せに役に立つこと」に限定したのです。
そうなのです。私もそれ故に仏教を学んでいるのです。
いろいろありがとうございます。
必要なときに、必要なことしか語らないきのこさんの態度を学びたいと思います。
2013年03月22日 (金) 11時58分 No.2438
ハッピーライフさんへ - simauma仰るとおり、今回のスレッドはハッピーライフさんとの遣り取りを踏まえていた部分もありました。
>無我が真理であると体感レベルで気付くと、その瞬間に一切の我見が完全に消え、意識の内側は完全に空っぽ=無になり、必然的に完全なヴィパッサナー瞑想に入ります。その結果、五感に触れるもののみをあるがまま認識しているだけの状態に至ります。この状態を、世俗諦において論理上生じる相対的無という概念を以て、無我の体験、無我を体感、と呼んだに過ぎません。
このようにご理解されているとは思いませんでした。失礼いたしました。
しかし、怪我の功名と言いますか、おかげさまをもちまして、ハッピーライフさんをはじめ、多くの皆様のご意見という貴重な財産を得ることが出来ましたことを感謝します。
ありがとうございました。
2013年03月22日 (金) 11時58分 No.2439
ecoさんへ - simaumaお忙しい中、ありがとうございます。
>結局、ヴィパッサナーをして自我が見つからないことを常日頃確認してしないと、忘れてついつい自我で行動してしまうんだろうなと思います。
全くその通りですね。それに日々の暮らしに結びつけていかなければ冥想などする意味がありませんもんね。
>瞑想する時、個々人の状態もレベルも違うし、
厳密な意味で真似もできなければ、全く同じ瞑想はできないと思うので、「あなたはそうだったんですね」程度に受け止めて、淡々とヴィパッサナーするしかないのかな?と考えています。
そうなんですよね。ですがどうも私はそれが苦手なのです。
>まずは瞑想中に無我に気付くこと、いずれ瞑想中だけでなく、毎秒無我に気付き続けていれば執着の生まれる隙も無くなって、とても単純に生きやすくなるのでしょうね。
間違いなくそうだと思います。
以前、失礼な発言をしてしまったことがあったにもかかわらず、今回、このようなご意見をいただけたことを感謝いたします。
幸せでありますように。
2013年03月22日 (金) 11時58分 No.2440
追加説明です - R「体験」とか「体感」とか、言葉を言い換えただけに思われたかもしれなく、私の説明が拙いばかりに、申し訳ありませんでした。
>これはkouさんの仰っていることと同じでしょうか。観察の精度を高め、完全に見破れば純粋な経験に匹敵しうる可能性もありそうですね。
おそらく、simaumaさんは、何か神秘的で尋常ではない体験をして、「これが無我だ!」と思うのは、ちょっと違うのではないか、「普段は無我ではないけれど、その状態のときは無我だ」ということは成り立たないという意味で、「体験するものではない」とおっしゃったのではないでしょうか。
私はそのように受け止めたので、「体験するものではない」ということに賛同しました。
しかし、無我を頭で理解しただけでは、「自我は幻想である。本当は無我である」ということを見破ったことにはなりません。
むしろ、「私は無我を理解した。」→「理解した『自分』がここにいる」と、自我という錯覚を強化してしまいます。
ですから、頭で理解すること(simaumaさんの言葉をお借りすれば「推論」)に比して、瞑想によって実際に「ああ、こんな仕組みになっているのか」と見破ることを、「体感」と表現しました。
もちろん、頭でだけでも理解しているか、そうでないかで、違いはあると思います。
自分の感情や行動に自覚的であることは、そうでないときよりも、多少はマシな行いができる可能性があるからです。
>これはよく分りませんでした。刺激に反応している自分について意識的になり、場合によって反応しないことにする、ということは可能なのではないでしょうか。
では、simaumaさんは「場合によって反応しないこと」は可能なのでしょうか。
「反応」というのは行動のことではなく、「心の反応」のことです。
あることに対し、怒りや欲を持ったり持たなかったりを、simaumaさんは選択することができるのでしょうか。
失礼ですが、無理ですよね。
私も無理ですし、多くの人には無理です。
もちろん、何かに対して「嫌だな」と怒りが生じた後に「いやいや、そんな風に思ってはいけない」と、感情を静めることはできるでしょう。
それを素早く行える人もいると思いますし、感情に振り回されず、冷静に行動できる人もいるでしょう。
ですが、「嫌だな」と思うこと自体は、止める間もなく反応してしまうはずです。
将来的に人格を高めたり、精神を鍛えたりして、同じような状況にあっても怒りを生じなくはできるかもしれませんが、それは先の話であり、怒りが生じたその瞬間には、それ以外の選択肢はありませんよね。
>もう少し説明していただけますと助かります。
具体的な例を挙げてみます。
たとえば、大嫌いな人や苦手な人が、simaumaさんに向かって歩いてきたとします。
過去、その人から受けた嫌な体験や、ことによると他の人との似たような嫌な記憶を思い出したりして、「あ、嫌な人が来る。また嫌な思いをするかもしれない。会いたくないなあ」などといったことを、瞬時に思うでしょう。
simaumaさんに嫌いな人がいなければ、好きな人を例にお考えくださっても構いません。
その場合は、「あ、また会えて嬉しいな」などと思うでしょう。
相手の姿が目に入ったとき、simaumaさんは、ご自分で「さあ、相手についての過去の記憶を思い出して参照しよう」としたり、「さあ、『嫌だな』(もしくは『嬉しいな』)と思おう」としたのでしょうか。
そうしない選択肢もあったのに、わざわざそうしたのでしょうか。
違いますよね。
ロボットのように、自動的に記憶を参照し、怒り(欲)の反応をしてしまったということです。
私は、この掲示板で回答するとき、誤ったことを書いていないかどうかを、協会のHPや手持ちの本を参照するなどして、一応裏をとっているつもりです。
そのように注意しても、私の理解が足らなかったり誤っていたり、または言葉が不適切だったりすると、正しくお伝えできていないかもしれません。
今回、「無我」について主に参照したのは、他のスレッドでもご紹介いたしましたが、小池龍之介さんのご著書である「仏教対人心理学読本」です。
もしよろしければ、お読みになってみてください。
2013年03月22日 (金) 11時58分 No.2442
simaumaさんへ - 西向きご質問からそれて、すみません。
他者から学ぶ謙虚さは決して忘れてはならないと自戒するものですが、
「こと瞑想に関してだけは」自分の指導者に相談するに限る、それ以外は むしろ弊害の恐れがあると、別スレで ぱんさんが紹介して下さっている記事にもありますが、読まれましたでしょうか。
http://gotami.j-theravada.net/2008/01/post-205.html
2013年03月24日 (日) 14時02分 No.2445
みなさんありがとうございました。 - simaumamagagiokさん
重ねてのご返信、感謝いたします。
慈悲と智慧さん。
ご紹介いただきました情報、ご忠告に感謝いたします。
Rさん詳しいご説明、感謝いたします。
>おそらく、simaumaさんは、何か神秘的で尋常ではない体験をして、「これが無我だ!」と思うのは、ちょっと違うのではないか、「普段は無我ではないけれど、その状態のときは無我だ」ということは成り立たないという意味で、「体験するものではない」とおっしゃったのではないでしょうか。
私はそのように受け止めたので、「体験するものではない」ということに賛同しました。
しかし、無我を頭で理解しただけでは、「自我は幻想である。本当は無我である」ということを見破ったことにはなりません。
むしろ、「私は無我を理解した。」→「理解した『自分』がここにいる」と、自我という錯覚を強化してしまいます。
ですから、頭で理解すること(simaumaさんの言葉をお借りすれば「推論」)に比して、瞑想によって実際に「ああ、こんな仕組みになっているのか」と見破ることを、「体感」と表現しました。
異論はありません。
私も真理は理解・発見した後に修業を経て体感し、そのことを通してようやく悟るという状態に至ると理解しています
それにしてもきちんとした共通認識を得ていない言葉によるコミュニケーションは難しいですね。
文化人類学が成り立つためには異なる文化間を結ぶ言葉(概念)の発明が必要なのだ、と文化人類学者のレヴィ=ストロースが言っていましたが、仏教を学ぶ(身につける)にはブッダが発明した仏教用語の正確な理解(修業までを含む)が必要なのだということを今回つくづくと感じました。
>ですが、「嫌だな」と思うこと自体は、止める間もなく反応してしまうはずです。
将来的に人格を高めたり、精神を鍛えたりして、同じような状況にあっても怒りを生じなくはできるかもしれませんが、それは先の話であり、怒りが生じたその瞬間には、それ以外の選択肢はありませんよね。
生意気なようですが、その将来の可能性を含めて選択肢としてさせていただきました。
なぜなら、私の目指しているのはその選択肢を獲得することなのですから。むろん、Rさんも同様であろうと承知しております。
小池龍之介さんのご著書のご紹介、ありがとうございます。読んでみたいと思います。
今回も皆様から様々なご意見をいただき、慢、そして見解への執着という自分の業を管理する機会に恵まれました。
業を相続している我々は業を管理する責任があるのは確かなことですが、なにも自分一人で管理する必要はなかろう。自分一人でできなければまわりの人に手伝ってもらい、人のこともちょっと手伝ってあげる。それがサンガというものだ、と勝手に考え甘えさせていただきました。
そんなわけで今後も色々とご指導をお願いすることはあるかとおもいますが、しばらくは言葉を慎むことを修業とさせていただきたいと思います。ご意見を頂きましても返信できないことあるかと思います。その失礼を予めお詫びしておきます。
では皆様、幸せでありますように。
2013年03月24日 (日) 14時02分 No.2449
すみません、省略した前半部分が大事でした。 - クロあべこべ人生の夢から覚める
仏教では、人間は自分で自分にマジックをかけている、と教えています。
また、人間は二四時間夢を見ている、現実を生きていないとも説くのです。
では、仏教が教える現実とは、いったい何でしょう。
それは、“無常”という一言で表現されます。
無常とは、「変化しないものは何もない」という教えです。
われわれは刻々と変化しながら流れる情報を眼耳鼻舌身意という感覚器官で受け取りま
す。しかし受け取るときに、それを脳内でスチール写真のように固定したものに変換して
しまいます。「ものはある」という誤った認識(誤認)をつくってしまうのです。それに
よって苦しみのサイクルが生じるのです。
仏教は人間が自ら自分にかけているマジックのネタをばらし、夢から覚まそうとします。
固定した何かがあるという幻覚を破って、無常を理解しましょう、と説くのです。
人生とは、一切が一瞬たりとも同じ姿をとどめない無常なものであるからこそ、成り立
っているのです。「無常だから生きている」のに、反対に人間は生きるために無常に逆ら
おうとする。だから生きることがあべこべな行為になり、無駄に足掻くはめになるのです。
生きるとは、すなわち変化することです。ですから、それに逆らおうとすると相当な無
理をしなくてはいけないのです。どんなに頑張って無理をしたとしても、無常という現実
の前では負けてしまいます。
しかし、どうせ何もかもが変わるのですから、同じエネルギーを使うなら良い方向へ変
えればよいのです。良い方向へ変えようとするならば、日常生活も楽になるし、人格を向
上させることもできるのです。
“無常の見方”を万能薬にしましょう。すべて無常だという見方でいると、――
(前回の書き込みに続きます)
『小さな「悟り」を積み重ねる』P14-15
私も、simaumaさんを見習って、この書き込みを機に書き込みをやめ、
自分のことに励みます。
ありがとうございました。
私は幸せでありますように
私の親しい人々は幸せでありますように
生きとし生けるものは幸せでありますように2013年03月26日 (火) 10時25分 No.2451
simaumaさんへ - Rご返信をありがとうございます。
>生意気なようですが、その将来の可能性を含めて選択肢としてさせていただきました。
>なぜなら、私の目指しているのはその選択肢を獲得することなのですから。むろん、Rさんも同様であろうと承知しております。
「自分とは、あるインプット(刺激)に対し、欲や怒りの反応を自動的にアウトプットするだけのプログラムやロボットのようなものであり、そこに自由意志はない」という無我の仕組みは「今、この瞬間」に起こっていることです。
したがって、「将来の可能性」も「目指すもの」も、この場合は全く関係のない話です。
将来や過去ではなく、今、この瞬間について、お考えください。
>小池龍之介さんのご著書のご紹介、ありがとうございます。読んでみたいと思います。
私の説明が下手で、正しく伝わらなかったかもしれませんが、このご著書をお読みになれば、おそらく明確になると思います。
>しばらくは言葉を慎むことを修業とさせていただきたいと思います。ご意見を頂きましても返信できないことあるかと思います。その失礼を予めお詫びしておきます。
了解いたしました。
そういうことでしたら、この書き込みに対するご返信も、もちろん不要です。
ますますのご精進をお祈りいたしております。
2013年03月28日 (木) 15時53分 No.2455