日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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ハッピーライフさんへ2 - 通りすがり
クロさんへのお返事に横槍を入れる形で申し訳ないのですが…

自我の言うことに騙されていますよ。考えは、あなたではありません。
行為する自分がいるということは、仏教のゴールに達していないですよ。

気づかれるかな、どうかなと思いつつ、書き込みをWebの海に浮かべてみる…。
2013年02月12日 (火) 17時32分 No.2208
通りすがり様へ - ハッピーライフ
投稿に気付かず、返信が遅れて失礼しました。

自我を捨てれば、確かにその煩わしさ(面倒くささ)は消えます。

ですが、本当に自我を消し去ったら、生存意欲そのものも無くなってしまいます。

実際に、完全に頭を空っぽにして、自我(意識)を消失させている状態は心地よいです。

ずっとこのまま~という心地になります。

そこから現実へ認識を戻して、義務・責任・仕事などを目の当たりにすると、どうしても面倒くさくなります。

しかし、そのような心境では生きていけないので、それらを肯定し、楽しめるように、”認識の変換”を余儀なくされます。

別に生きていても良いのですよ。認識を思う様に変えられるので、問題は無いのです。

ただ、生きるより楽しい事を知っていて、それを追い求めると、生きない事⇒死となるので、どうしても、わざわざ生きる理由も意義も無くなってしまうのです。

何度も言いますが、認識を変換するのは自由に出来るので、人生を全うする事に問題は一切ありません。ただ、よりよい幸せを求めて晴れ晴れした心地で自分で人生を閉じる事が、なぜいけないのか、その事がまったくわからないのです。

無我と言いながら、生きる以上は最低限の主体的意識作用が伴います。
それは、完全な無我ではなく、肉体の生存欲を肯定し、満たすための作用であり、本質的には欲の範疇なのではないでしょうか?

”悟って生きる”とは、厳密には、”悟り+生きる(主体的意思)”であって、対として”悟り+寿命の放棄(主体的意思)”と、本質的に何ら変わらない、悟った後の行動パターンの一つでしかないと思うのです。
2013年02月15日 (金) 21時01分 No.2231
面倒 - magagiok
悟った釈尊は、悟った以後、自殺することなく、病で死ぬまで生きた。

生にも、死にも執着していない人は、身体が生きるままに生き、身体の死期が来たら死ぬ。

生きるのが面倒だから死ぬ、生きることより良いことを知っているから死ぬ、というのは、死ぬこと、生きることより良いことへの執着だから、それは悟ったことにならない。

悟っていないのに死んだら、生まれ変わってしまう。そこでまた、生きるのが面倒だと苦しむ可能性がある。

経典に照らすと、そうなりそうです。

釈尊の悟りなど気にしない、私は私の道を行く、ということなら、なぜ自殺は駄目なのか、と他者に聞く必要はない。

もはや、生きることに全く未練なし、そして、生きることより良いこと、が真実であることを知っているなら、そうすることは、何も問題ないと思います。

しかし、それが真実であるかどうかは、他の誰も分からないから、それが妄想の可能性を否定できないから、それで間違いなく良い、とは誰も言えないでしょう。

生きるのが面倒だから、生きることより良い死を選択する、というのは、生きるのが苦しいから自殺する、というふうに他の人の目に映ります。

それは不幸なこと、にしか他の人には見えないでしょう。

だから、他の人に同意を求めても無理だと思います。
2013年02月20日 (水) 17時07分 No.2244
ジャイナ教 - magagiok
釈尊と同時代の人が興したジャイナ教では、不殺生を徹底しますので、最終的には、餓死を選択するようです。

他の生き物を殺さない、を徹底するなら、人は死ぬしかありません。

でも、誰でも死ぬことが許されるわけではなく、高度に修業が進んだ者だけが死ぬことを許されるようです。

自死が許される宗教があるようです。

2013年02月21日 (木) 15時49分 No.2250
magagiok様へ - ハッピーライフ

私は死の同意を求めているのではなく、仏教ではどのように捉えているのかを含めて、様々な視点で考察してみたかったのです。

また、私の正確な心境については、元の投稿での他の発言を観て頂ければお分かり頂けると思います。

私の最初の質問文が、私自身の心境の説明について曖昧であり、また明確な自殺願望を匂わせる文章で、誤解を与えてしまった事をお詫びします。

ですが、こうして投稿するという事自体が、私自身に確たる結論を出し切っていないという事の表れですね。

>ジャイナ教では、不殺生を徹底しますので、最終的には、餓死を選択するようです。

これは興味深いですね。やはり考え方としてはすでに過去に既出という事ですか。

ただ、餓死は時間的にも身体的苦痛においても、無駄が多過ぎます。私は無宗教なので、目的への合理性を追求するなら、餓死は選びませんね(笑

お返事を下さり、ありがとうございました。
2013年02月24日 (日) 13時51分 No.2253
食欲 - magagiok
煩悩を滅尽しようとする修業において、食を節制するということも重要なようです。

釈尊の説いた修業法においては、食事は、たく鉢により一日に一回だけで、しかも、腹一杯食べてはならない、味や種類にこだわってはならない、たく鉢で食を得られたからといって喜んではならない、食を得られないからといって残念に思ってはならない、食が得られるまで粘って村をうろつき廻ることなく村から出なければならない、他の僧の食べ残しをもらって食べてはならない、というものです。

釈尊は断食の苦行を否定しましたが、でも、釈尊の説いた修業法は、現代の感覚では、それは断食の一種ですよね。

釈尊の足は、鹿の足のように細かったそうです。

仏教と兄弟の宗教と言われるジャイナ教は、定期的に断食をするようです。

そして、日常食べるものは雑穀と野菜だけ、それも根菜は土を掘ると土中の生き物を殺すから食べないとか。

悟るための修業は、それがそのまま餓死のための準備と言えそうです。

そこまでして悟りに執着するのですが、しかし、仏教の経典には、悟りにさえこだわるなとも説かれています。ジャイナ教の経典にもそれと同じようなことが書かれていると予想されます。

なんとも、とんでもない修業法だと思います。

そんな修業の果てに悟ったら、もはや何の執着もないでしょう。

だから、生き続けることが面倒だと思うこともないと思えます。

あるいは、面倒だと思ったとしても、だから死のうとは思わない気がします。

2013年02月25日 (月) 11時35分 No.2263
magagiok様へ - ハッピーライフ

少食生活は、まさに実践して2年以上になりますよ!(笑

基本的に午前中は水を飲みます。最初の排便をするまでは食べません。昼は植物性タンパクをメインにして弁当を作っています。と言っても、料理は面倒なので、豆と野菜と根菜を煮詰めたスープと、玄米ご飯を、ゆっくり良く噛んで食べています。夜はその日の活動量を考えつつ、腹の虫が治まる程度だけ食べています。
翌朝、たまに血糖が不足した感覚がある時は、軽食を取ります。

こうすると、食事への依存度が減っていき、身体の熱効率も高まってきます。

大自然との縁起を自覚し、身体が自然の一部であり、我が身が他の命によって生かされている事に感動しながら食べています。
そうすると、安い野菜の切れ端、豆の一粒でさえ、神秘のエネルギーに満ち満ちて極上の料理に思えて美味しいです。特に朝抜きで腹が減っているので、一日の最高の楽しみの一つですよ(笑

しかし、私の場合、一口一口を徹底的に味わい尽くして楽しんでいるので、修行者とは正反対ですね(笑

>悟るための修業は、それがそのまま餓死のための準備と言えそうです。

この言葉は心にピンときました。たとえ食べるものが無くても、本能的な欲にさえ一切心が乱れる事がない、執着する事の無い、完全に平静な心境。

世俗的な事を一切気にしない、執着が無い、という私のレベルなど、語るにおこがましいと思えてきました。

>そこまでして悟りに執着するのですが、しかし、仏教の経典には、悟りにさえこだわるなとも説かれています。

悟りを完全な無執着、煩悩の滅尽とするなら、論理として悟りを目指す事も執着になりますからね。

悟りに執着しない事が悟り。じゃあ、悟りってなんだ? と問われたら、私としてはこう結論します。

それは”最善の合理性”。

思考、感情、言動、生命体としてのあらゆる機能面で、最善の合理性を追求していけば、自ずと悟りに至るのだと感じました。
2013年02月27日 (水) 01時02分 No.2272
合理的 - magagiok
釈尊が説いたことは、苦しみを滅し、もはや苦しみが生まれない境地を実現するための極めて合理的な手法だと思います。

ハッピーライフさんの手法は、苦しみをかなりのレベルまで減らすことができて、また、生じた苦しみにも効果的に対処できるものなのだろうと思います。

人は、それぞれの感性に従っていろいろに考え実践する生き物だと思います。
2013年02月27日 (水) 16時27分 No.2275
magagiok様へ - ハッピーライフ
>釈尊が説いたことは、苦しみを滅し、もはや苦しみが生まれない境地を実現するための極めて合理的な手法だと思います。

完全性を目指していくと、無我に至り、苦楽という道理そのものが生じ得ない境地を目指すのでしょうね。

>ハッピーライフさんの手法は、苦しみをかなりのレベルまで減らすことができて、また、生じた苦しみにも効果的に対処できるものなのだろうと思います。

私の方法には、完全性はありませんからね。あくまで世俗で生きる身なので、”我ありき”での最善の合理性という事になりそうです。
詰る所、執着したくなる我、ないし、執着できる我があって、性格的な部分にも依存して、初めて成し得る方法ですし。

自分自身の存在の根本に関わる苦悩を抱えた人には、通用しません。

そういう意味で、どんな苦悩でも、例外なく通用する所が、仏教の素晴らしさなのでしょう。それも、完全に合理的なので、実践すれば必ず効果がある。

定年なり出家なり隠遁する機会に恵まれたら、ぜひ死ぬ前に挑戦してみたいものではあります。
2013年02月28日 (木) 16時57分 No.2287
まさしく、まさしく - magagiok
同感です。
2013年03月01日 (金) 04時01分 No.2289


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