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生きとし生けるものが幸せでありますように。
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嫌悪感を抱く人への慈悲の瞑想 - トリック以前、50代半ばの男性カウンセラーから、カウンセリング中に胸やお尻を触られました。
そのカウンセラー曰く、私が性的に興奮することで心の状態が云々…と、なんだかよくわからない説明でした。
そんな治療方法など、怪しいものですが、当時は精神的に弱っていたため、従うほかはありませんでした。
それにしても、芸能人ならばともかく、一般の50代半ばの男性など、年が離れすぎていて、とても異性としては見られませんでした。
ですから当然、そんな相手にいくら触られても性的に興奮などするわけがなく、無反応な私に対して、カウンセラーは不満げでした。
「あなたに異性としての魅力を全く感じないので、いくら触られても無駄です」ということを、オブラート10枚ほどに包んで言ったのですが、通じなかったようで、私の心がおかしいのだと言い出しました。
何度目かで、服の中に手を入れられそうになるなど、だんだんとエスカレートしてきたので、さすがにやめてほしいと言ったのですが、次のカウンセリングでも触ろうとしたため拒否すると、まるで私がワガママを言ったかのように溜め息をつかれ、一気に信頼できなくなりました。
世の中には、老け専や枯れ専という嗜好の人もいますし、それを否定はしませんが、私にはそのような趣味がないことは、そのカウンセラーもわかっていた筈です。
にもかかわらず、自分が触れば私が性的に興奮するのが当然という思い込みというか自惚れが、とても気持ち悪く感じました。
その後、カウンセリングにも行かなくなり、なんとか関わりを絶つことができましたが、以来、その世代(50代半ば以上)の男性が苦手になり、近寄られることさえ苦痛で、生活にも支障が出ています。
また、以前はそうでもなかったのですが、自惚れの強い人に対して拒絶感が強くなりました。
件のカウンセラーや、自惚れの強い人たちに対して慈悲の瞑想をしても、嫌悪感が強くなるばかりなので、今のところ、嫌いな人への慈悲の瞑想だけをとばしています。
どのように折り合いをつければ、慈悲の念を抱くことができ、嫌悪感をなくせるでしょうか。
ほぼ毎日、この嫌な記憶を思い出してしまい、とても苦しんでいます。
ご意見、アドバイスをお願いいたします。
※年の差の恋愛や結婚を否定しているわけではありません。
お互いの合意があれば構わないと思います。
私の周りにはいませんが、父親ぐらいの年齢の男性が好きという女性や、熟女好きの男性もいると聞きます。
年の差恋愛や結婚をなさっている方、50代半ば以上の男性の方、不快に思われましたら申し訳ございません。
2013年01月23日 (水) 20時13分 No.2158
新参者ですが。 トリックさんへ。 - たこやきマン
”嫌いな人への慈悲”についての部分のみ、解答させて頂きます。
慈悲とは、簡単に言えば優しさですよね。人は誰かから優しくされたら、とても心が温かくなります。それと同じくらい、誰かに優しくする事は、本来とても気持ちが良い事だと思います。
本当の幸せな気持ちとは、まさにこの慈悲(優しさ)の気持ちがあってこそなのです。
ですから、貴方が嫌がる事をしてきた相手は、慈悲(優しさ)を知らない人、つまり、本当の幸せを知らない人なのです。
そして、全ての人(生命)は、心の奥底では、本当の幸せを求めて生きています。
ただ、様々な因果で、本当の幸せが何かを知らず、気付かずに生きている人が多いです。
そうした人達は、自意識では不幸を感じていなくても、常に心に満たされない空虚な思いを抱いて生きています。
だから、その思いを誤魔化すために、我欲を満たして得られる一時的な刺激や快楽に酔っぱらって、一時しのぎをしながら生きているのだと思います。
なので、そのカウンセラーの男性は、とてもとても哀れな人なのです。このままだと、死ぬ時に酷い虚しさに襲われて逝ってしまいます。
考え方としては”あぁ、この人は幸せを知らないんだ。優しさが分からないんだ。この人がいつか優しさを知って、本当の幸せに気付けたらいいな”という感じでどうでしょうか?
貴方の悩み苦しみが無くなり、幸せな笑顔が戻ってきますように!2013年01月25日 (金) 14時44分 No.2161
こんにちは - きのこ災難でしたね、おつかれさまです。
『Q:「私の嫌いな人」に対して慈悲の冥想をすると、かえって腹が立ってくるのですが。』という質問と、それに対するスマナサーラ長老の回答が以下のページに載ってありました。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon53.html
そのページの中頃には、次のような記述がありました。
『 慈悲の冥想の方法は、色々あり、その人その人にあわせる必要があります。この質問の人のような場合は、いわゆる「私の嫌いな人」「私を嫌っている人」のところはカットして実践した方がいいのです。』
だから、今は、無理して嫌いな人のセクションを唱えなくてもいいんじゃないかなあ、と、個人的には思いました。
これから書くことは、決して無理にそう思おうとしなくてもいいことだと私は思っていることを書きますね。
自分の中にある思いを抑圧するより、その思いを気づいてあげれたほうが、心に穏やかなのではないかと思うからです。
私はまだまだ心が安定していない者なんですけど、
個人的な経験を言うと、
自分の中の、欲や、相手を思い通りにしたい所有欲、自分のことばかりで相手のことは道具的に思ってることなど、見たくもない自分の心を見た(ような気がした)時、
ああ、みんな、おんなじや。
と、昔、少し恐い思いをさせられた人のことを思いました。
わたしも、おんなじや。
あの人は、無明で、欲が暴走していく危険性や、その欲にどう対処したらいいのかもまったく知らず、、、知ろうともできず、制御できる強さがなかったのだ。
それは、その条件は、みんな同じや。
私も、条件が揃えば、あの人とおんなじや。と、自然に思いました。
多分その頃から、時々見ていたその人に関する恐い夢を見なくなりました。(そこまで深刻な怖いことをされたわけでもなくても、自分にとっては十分怖かったので、もし深刻な事態だと、どれほど怖いことか、と、思いますね。)
これも無理して思わなくて全然いいと思うんですけど、思考実験として、トリックさんと同じ年齢の女性がひどい事して、同じ年齢だから、トリックさんはその女性と同じ性質だろうと言われたら、トリックさんはどう答えるかな?と、(もしそれで心が軽くなるのなら)、試しに考えてみてもいいかな、と思いました。
苦しみがなくなるといいですね。
生きとし生けるものが幸せでありますように
2013年01月25日 (金) 14時44分 No.2163
トリックさんへ - いづるこちらがご参考になると思います。
【96】 「好き」の結果
…
A: ポイントはシンプルです。我々は、自分の不幸、失敗、物事が上手くいかないこと、期待が外れること、ストレスが溜まること、精神的な問題を引き起こすことなど、何でもかんでも他人のせいにしながら、生きてきたのです。外に原因があると思ってきたのです。「いやいや、問題は自分自身にあるのですよ」と言われると、まず「へえ!」という気分になる。今までの思考パターンと違った考え方なので、聞いただけで理解できないのだと思います。じっくりと考えて欲しいのです。
Q: 他人のせいにすると言われても、そんなつもりはありません。分かりやすく言えばどうなるのでしょうか?
A: 「人は悪魔の誘惑で罪を犯す、神様の恩恵で幸福になる、怨霊のせいで家族が不幸になる、星まわりが良くないから問題を起こした、上司の気が荒いから仕事でストレスが溜まる、経済状態が悪いから会社の品物が売れなくなっている」などなど、皆日常茶飯事で、何の躊躇もなく言っているのではないのでしょうか? このような言葉を全て集約してみると、「私のせいではありません」ということではないでしょうか。それが、他人のせいにするという意味です。人の精神病も他人のせいにしようとするのです。「親が厳しかったから、学校で会社で苛められたから、幼児虐待を受けたから、自然災害で親戚を失ったから」、それで精神状態がおかしくなったと言う場合も、明らかに外で原因を探しているのではないでしょうか。その時も、「私は悪くない」という意味ではないでしょうか? 仏教では、一切の精神病は自分自身の非論理的な、根拠のない妄想のせいだと断言しているのです。ストレスや苦しみなどは、望み通り・計画通りの結果が出ないとき起こるものだと言えるのです。望む結果を出したければ、好き嫌いの主観的な感情を置いておいて、客観的に状況判断して、適した原因を作れば良いのです。
Q: 苦しまないための安全対策というのはあるのでしょうか。
…
http://www.j-theravada.net/qa/gimon96.html
ぜひ全文をお読みになってください。
そのカウンセラーみたいな生ごみは近寄らなければ良いだけの話です。
トリックさんが自分の思考パターンを変えるしかないと思います。
仏教には色々な手段が説かれていますから、前向きに挑戦してみて下さい。
幸せでありますように。2013年01月27日 (日) 18時06分 No.2169
たこやきマン様へ - トリックたこやきマン様、ご回答ありがとうございました。
>ですから、貴方が嫌がる事をしてきた相手は、慈悲(優しさ)を知らない人、つまり、本当の幸せを知らない人なのです。
>なので、そのカウンセラーの男性は、とてもとても哀れな人なのです。このままだと、死ぬ時に酷い虚しさに襲われて逝ってしまいます。
申し訳ありません。
私の説明が拙く、正確にお伝えできなかったようです。
電車の痴漢や上司のセクハラなどと違い、そのカウンセラーは、私に嫌なことをしているとは思っていないのです。
自分が触れば、私が快楽を感じて治療にもなると思い込んでいて、むしろ優しさを発揮しているつもりでいたかもしれません。
虚しさに襲われるどころか、自己満足で悦に入るのではないでしょうか。
もし、そのカウンセラーが、私より若いか同世代、または少し上の男性なら、自信過剰の痛い人レベルで済んだかもしれませんが、あり得ない年齢差で、異常な自己評価の高さや自惚れぶりが、私の理解を超えており、とても気持ちが悪く、激しい嫌悪感を抱かせるのです。
単に嫌なことをしてくる人に対してならば、相手も苦しんでいるのだからと、難しいながらも、慈悲の念の糸口ぐらいは掴めるのですが・・・。
このカウンセラーのように、自惚れで自己満足に浸っている人に被害を受けると、彼らはとても苦しんでいるようには見えないため、慈悲の念の持ちようがなく、困っているのです。
この問題について、慈悲の瞑想で解決しようとすることに、無理があるのかもしれませんね。
アドバイスをありがとうございました。
2013年01月27日 (日) 18時06分 No.2170
きのこ様へ - トリックきのこ様、ご回答ありがとうございました。
無理に、嫌いな人に瞑想しないほうが、良いのですね。
でもそうすると、どのように克服すれば良いのか、振り出しに戻ってしまいました。
>自分の中にある思いを抑圧するより、その思いを気づいてあげれたほうが、心に穏やかなのではないかと思うからです。
私は今まで誰にも、この話をしていませんでした。
この投稿が初めてです。
抑圧とまではいかなくても、一人で思いを抱え込むことで、煮詰まってしまったのかもしれません。
きのこ様のタイトルで、「災難でしたね」と言っていただき、とても嬉しく思いました。
そのカウンセラーは、私に酷いことをしたとは思っていません。
他の理由をつけてカウンセリングを辞めたので、今でもわかっていないでしょう。
私が酷いことをされたという事実を、加害者すら知らず、私一人が知っているだけということも、苦しかったのだと気がつきました。
今は、少なくとも、きのこ様は「災難」だったと知っていただいたことで、少し気持ちが楽になりました。
ありがとうございました。
>トリックさんと同じ年齢の女性がひどい事して、同じ年齢だから、トリックさんはその女性と同じ性質だろうと言われたら、トリックさんはどう答えるかな?と
単純にお答えするならば、自分が体験者だからかもしれませんが、「過去によほど嫌なことをされたのだな。気の毒に」と思います。
でも、きのこ様が言わんとなさっていることは、何もしていないのに決めつけられたら気分が悪いでしょう、ということですよね。
私もそれが気になり、一年以上、この投稿を迷っていました。
しかし、どうにも苦しいため、お知恵を拝借したく、思いきって投稿し、投稿文の最後に、※印にてお詫びの文章を添えたことで、せめてもの謝罪とさせていただいた次第です。
ですから、その年代の男性に嫌悪感を抱くことが、理不尽で失礼なことと、重々承知しています。
私は決して、同じ年代だから同じ性質だろうと言っているわけではありませんが、結果的にそう言っているのと同じに聞こえてしまいますよね。
ただ、猥褻行為を受けた女性が、男性恐怖症になることがあるのを、きのこ様はご存知でしょうか。
きのこ様が男性か女性か存じ上げませんが、男性からすれば、自分は猥褻行為など、しようとすら思っていないのに恐れられるとは、なんと理不尽な、と思われることでしょう。
その通りですし、頭では、わかっているのです。
加害者とは違う男性なのだと。
でも、性的ことが絡むと、女性は男性に腕力で敵いませんし、理性ではどうにもできない恐怖感や嫌悪感を抱いてしまうのです。
私は服の上から触られただけでしたが、密室でのことで、危うく直接触られかけもし、「いずれは性行為まで…」と匂わす言動もあり、嫌悪感をどうすることもできませんでした。
ちなみに私は、相手が紳士的かつ謙虚な方だとわかれば、嫌悪感はありません。
どうか、寛大なお心で、投稿文を読んでいただければ幸いです。
ご不快になられた方には、再度お詫び申し上げます。2013年01月27日 (日) 18時06分 No.2171
こんにちは。 - きのこトリックさま
>無理に、嫌いな人に瞑想しないほうが、良いのですね。
でもそうすると、どのように克服すれば良いのか、振り出しに戻ってしまいました。
私が先の投稿でご紹介したページ
http://www.j-theravada.net/qa/gimon53.html
が開けない場合もあるかも、と、一応そのページの全文をコピペ引用させていただきますね。
以下引用です。
『
【53】 慈悲の冥想について
Q:「私の嫌いな人」に対して慈悲の冥想をすると、かえって腹が立ってくるのですが。
A:主観的に物事を見て、考えても解決はしません。主観は自分の好みですからね。
世の中で問題が解決できないのは、ひとりひとりが皆主観的だからなのです。自分の問題でも、他人の問題でも客観化すると、そこには自分も他人もないのです。あるのは、ただ『問題』だけ。そのように考えると答が出て来るのです。客観的に見れば、そこに解決方法がある、ということです。
例えば誰かがケンカをしているとします。客観的に見ると「いくら相手が悪いといっても、あなた自身が怒りで悩み苦しむことは大変でしょう。相手のことには関係なく、静かな心をつくった方がいいのではありませんか」ということなんです。
ケンカをして苦しんで、共感を求めて相談に来る人がいますが、僕だったらこう言うんですね。「あなたは相手に勝ちたいでしょ。だったら相手に対する怒りは捨てなさい」と。すると、「そんなことはできません。だって、あいつはああいうこともした、こういう悪いこともした」と怒るのです。そこで「あなたは結局、その人の操り人形になるのです。その人の意のままに怒らされたり悩まされたりしているのですから、あなたはもう、とっくに負けているのですよ」と。そして「向こうが何を言おうが、何をしようが、あっけらかんとして、きれいな心でニコニコしていれば、あなたの勝ちですよ。ですから怒りを捨てなさい」と言うのです。それが仏教的な言い方なんですね。
難しいと思いますが、自分の心を育てて、しっかり物事を見られるようにするしかないんですね。だから、そのために、ヴィパッサナー冥想をやって、自分の心と体を客観的に見て下さいと言うのです。これは、『ある人間の研究』のようなものです。自分のことだけは外も中も観察できるのです。他人の中までは観察できません。
今までは、欲と怒りしかわからないように教え込まれてきたのです。それを整理しないといけません。自分が刷り込まれている価値観、判断、知識はあまり当てにならないことを認識した方がいいのです。
Q:でもやはり、私を苦しめた人のために慈悲の冥想をすることは難しいです。
A:それに気づいていることはいいことなんですね。
しかし、嫌いな人がいることは、あなたにとって楽しいこと、幸せなことですか。嫌だと思う気持ち自体も自分の不幸でしょ。ですから本当は、相手を嫌いだと思う自分自身が、自分の不幸を作っているのです。
何かで不快感を感じたら、その相手を好きになるよりは、イヤになる方がやさしいのです。でも、その人をイヤになったら自分が損をするばかりで、相手には全く関係ないのです。「あの人がイヤだな」と思うたびに自分自身が気分悪く、不愉快になって、自分の不幸を作ってしまうだけなんです。バカゲたことですし、論理的ではないでしょう。
「あなたが幸せになりたいのなら、人のことを嫌いになるな」ということです。「敵を倒すな、悪い奴を許せ、というのはおかしいではないか」と言う人がいますが、そういう考え方に乗せられてしまったら、答が出てこなくなってしまうのです。
人を嫌いになるのはとても簡単なのです。何の努力も要りません。
ですから我々は、いとも簡単に自分の不幸を作ってしまうのですね。心の安らぎをなくしてしまうのです。
だから要するに、「幸せになりたければしっかりしなさい」ということです。腰抜けで中途半端では、幸せになれるわけはないのです。幸せになるには、しっかりとした自信がないと幸せになれないんですね。相手の性格や言葉や行動が、自分にとっていくら都合悪くても、「人のことは嫌いにはなりません」と平気でいてください。なぜなら、人のことを嫌いになったら、その人のことを考える度に、自分が暗くなってしまいますからね。
Q:でも私がひどいことをされた時、私は小さかったので無力でした。
A:その思考は、過去を思い出しては悩むということです。
終わったこと、死んだ人、消えたことについて思い悩むのは、すぐにやめた方がいいのです。
私はそれを「遺体を運んでいる」と言っています。遺体を背負っていてもあまりかっこよくない。それなのに皆、運んでいるのは遺体ばっかりなのです。
「過去に私はあんなことをされた、こんなことを言われた」と、悪いこと、イヤなことばかり覚えている。しかし相手はそんなことはとっくに忘れているかもしれません。
確かにそのとき、その人は間違ったかもしれません。ほとんどの人は間違うものですから。それで何かイヤなことがあったとしたら、そのときのその遺体だけを運ぶことです。肝心なことは、自分の幸福を壊しているのはそういうイヤな人々ではないということです。皆、自分自身で自分の幸福を壊しているのです。
いっぱい食料品を買って、大きな買い物袋を抱えて歩いているところに突然人がぶつかってきて、卵や豆腐を全部メチャクチャにされたら、ものすごく怒るでしょう。そこで何か言ってやるぞと思って相手を見ると、相手は目が見えない人だったとします。そうすると、それがわかったとたん、「だいじょうぶですか」と逆に相手を心配するようになってしまうのです。
なぜそのような話をするかというと、人は皆、目が見えていない存在だからです。真理に目覚めてないのです。だから、やっていることは間違いなのですが、本人は知らないんですね。目が見えない人は好んでぶつかったわけではありません。ただ目が見えなかっただけです。
我々を攻撃したり意地悪したりする人も、やりたくてたまらずにやっているわけではないのです。やりたくてたまらなくていじめる場合は、からかっているだけで楽しいのです。仲のいい友達にからかわれても恨みにはならないでしょう?
「子供の時にいじめられた」と親を恨んだりする人もいますが、親も子供をいじめたくていじめたわけではないんですよ。本当にどうしようもなくやってしまったんですね。子供を捨てる親もいますが、捨てられても親を恨む必要はないのです。恨んでしまうと、永久に自分が苦しむだけです。
どんなことにも何かわけがあるのです。たとえば「母が再婚して親にいじめられた、とんでもない母親だ」…そういう風に思うこともよくないのです。
子供の時はしょうがないとしても、大人になったら「母もた大変だったでしょう。私が邪魔だったのでしょう。しょうがない。許します」と心を清らかにした方が、恨みを持って生きるよりは自分が楽なのです。
他の道は全くありません。相手を恨むこと、相手をいじめること、相手に仕返しすることで、決して幸福は得られません。大人になってもずっと自分の母親を憎んでやると決めたところで、誰が幸せになるのか。皆が苦しいだけでしょう。それなら何のために生きているのでしょう。
人は幸せになるべきなんです。苦しんで悲しく生活するべきではないのです。そのためには慈しみの道しかありません。敵を倒す道では幸せになれません。だから、慈しみで物事を見るようにして下さい。
長い間、不幸になる訓練をし続け、どうすれば不幸になるかを追求する生き方をしてきたので気持ちの切り替えは大変だと思いますが、「まあそのうち心は軽くなるだろう」と考え、気楽に慈悲の思考の訓練をやった方がいいと思います。
仏教の国では小さな時から慈悲の気持ちをたたき込まれます。
だから我々には、慈悲は難しいことでも何でもない。そのため仏教国の人々の生き方はまるっきり違うのです。それをそのまままねるのは難しいかもしれませんが、慈悲の気持ちが身についてくるとどんどんわかってきます。自分がすごく幸せになってくるんですね。何か自分がすごく得しているような感じになるのです。自分がすごく得していると、相手のことを許してあげること、理解してあげることが、容易にできるのです。
Q:慈悲の冥想でそうなれるのでしょうか。それとももっと他の修行方法があるのでしょうか。
A:これほど優れた方法はないのです。
他の方法はたくさんありますけど、全部2番目3番目。もっと慈悲の冥想をまじめにやってみてはどうですか?
慈悲の冥想は1番の方法だから、ちょっと難しいかもわかりません。いきなり卒業試験ですからね。だけどそこを乗り越えたら早いですからね。
実践的なお話をしますと、正直な気持ちで、ちょっと時間をかけて、自分一人で慈悲の冥想をして下さい。
一人で「私は幸せになりますように。私の悩みはなくなりますように」と。
そうやって自分に慈しみをつくってください。
それから、親しい人を選んで下さい。自分がすごく正直に幸せを願える人々。「こういう人も、誰々さんも、幸せになりますように」と、正直に念じる。それを30分くらいやってみて下さい。
親しい人々への慈悲の冥想が終わったら、すべての生命に対して「生きているものは皆幸せでいて欲しい」と念じて下さい。
嫌いな人を思い浮かべると強い怒りを感じてしまう場合は、そこで冥想をストップして下さい。
でも、本当はそれは相手の問題ではありません。自分の問題なんですよ。自分を苦しめているのは、自分の思いですから。
Q:理解できないです。
A:思い出すのは自分でしょ。
嫌いな人が今ここに出てきて、何かをやるわけじゃないでしょう。「イヤだ」と腹を立てているのは自分。だから悪いのは結局自分なんです。
とにかく今は、嫌いな人を思い出さないようにして、もし思い出したら「冥想に邪魔が入った、汚れが入った、ゴミが入った」とカットして下さい。ゴミや汚れより、もっと強烈な言葉で考えて下さい。体の中、頭の中、心の中に、汚物が落ちたんだと。しかしその汚物は『嫌いな人』ではありません。『自分が思い出したこと』なのです。
「関係ない、関係ない、そんな概念は関係ない、そんな思考は関係ない。私はきれいな心を作ろうとしているんだ、汚物などで自分を汚すのはばかばかしい」と素速くきれいにする。そしてきれいな心で、自分の親しい人々と、普通の生命に対して、慈悲の冥想をし続けてみて下さい。だいたいうまくいくと思います。
慈悲の冥想の方法は、色々あり、その人その人にあわせる必要があります。この質問の人のような場合は、いわゆる「私の嫌いな人」「私を嫌っている人」のところはカットして実践した方がいいのです。
慈悲の心自体がすごく論理的だということも理解してほしい。なぜ論理的かというと、どんな人でも幸せになりたいということは、事実なんですね。それなら、自分が幸せになれるように行動するのが論理的でしょ。
じゃあ自分の幸福を壊すのは誰なのか、と考えてみて下さい。
朝ご飯が食べられなかったから不幸だとはあまり思わないでしょ。服が汚れたとか、白髪になったとかで、不幸だと悩む人はいません。白髪なんか染めちゃえばそれで終わりますからね。
ですからやっぱり不幸というのは、恨み憎しみなんです。恨み憎むことは自分がやっているんだからね。だからいかなる場合でも、自分の恨み憎しみを正当化しないこと。自分の恨み憎しみこそが幸福を壊すんだと言いたいんです。
普通は「電車が遅れたから不幸だ」ということはないんです。
でもある人はそれで不幸になるんです。「なんで、私がこんな目に逢わないといけないのか、この忙しいのに…」と怒る。そうやって不幸になるのも、恨み憎しみのせいなんです。自分の心にもっている恨み憎しみで不幸になる。そういうことですから、我々は幸せになりたいのに、我々の心の恨み、憎しみ、嫉妬、相手に逆襲したい、仕返ししたい、という怒り系統の感情が幸せを壊しているんです。
Q:『慈悲の修行というか冥想は一日1時間くらいするのですか』
A: いえいえ、1時間では足りません。
自分の生き方そのものを、すべて実践に廻さないと。
それは理解の問題で、日常で生活することと精神の修行をすることが別だと思っていることがまちがいであって、生きることの勉強だから、修行の道と生活の道というのは同じです。別々ではありません。二つに分けるのは宗教の世界でね。仏教の道ではありません。
人が怒るのは、仕事中とか、家庭でとか、人間関係の場でしょ。怒りはそこで消さなくちゃいけないんですね。生活の場が修行道場なんです。会社が道場であって、家が道場なんです。怒りのウイルスが入っちゃったら、何にでも怒るんです。自分にも怒るし、相手にも怒るし。ものごとがうまくいっても怒る人もいます。「うまくいったといって、いい気になるんじゃないよ」と怒るんですね。
世の中の人々に対して、限りなく優しさをもつべきですよ。いい人には慈しみで、悪い人はつぶすということは論理的ではないんです。悪い人に限って、もっと、何倍も優しくしてあげなくちゃいけないんです。その人はもっとものごとをわかってないんだから。
慈悲はそういう教えだから、戦いの論理で生きている現代人にとっては論理的ではないと感じるかもしれませんけどね。「戦え、戦え、相手をつぶせ」と。「私が正義だ、相手は正義ではありません」と。そういう戦いの世界の人には、そういうことは論理的だと分かりません。それはしょうがないしね。
ブッダの教えをとにかく実践すると、いいことになる。それは論理的だからね。
小さい子供のときに道徳が叩かれてないんだからね。「精神の世界が一番大事ですよ」というね。
仏教国では、「ご飯を食べることよりも、道徳を守ることの方が価値があるんだ」と教えられます。
「お腹がすいて飢え死にしても、人のものは取るな。それは汚いんだ、かっこ悪いんだ、食べるために生きているのではないんだ」と。
食べるのが目的だったら、泥棒しても食べた方がいいんです。私たちの場合は、逆。「生きるのが一番で、清らかな心で、かっこよく、品格よく、生きることが大切だ。いくら豪華な家に住んでいても、心が汚れている人はけしからん」と、そういう価値観が刷り込まれているんだから、ごく自然ですけどね。そこら辺ちょっと難しいかもわかりませんけどね。そこちょっとがんばれば。
』
以上、ご紹介ページの引用でした。
長文なので、一度ここまでを投稿しますね。2013年01月28日 (月) 14時52分 No.2172
こんにちは2。 - きのこ私見です。
>無理に、嫌いな人に瞑想しないほうが、良いのですね。
でもそうすると、どのように克服すれば良いのか、振り出しに戻ってしまいました。
トリックさんにとって今どうすることがベストなのか、スマナサーラ長老に直接質問できるといいですね。
個人的には、ヴィパッサナーという方法が、気がつけばいろんなことがラクになっている道なのではないかな、と、今のところ思っています。
あ、報告が遅れました。
私は、中年女性です。よろしくお願いいたします。
頭ではわかってても強烈に怖かったり、、
当事者になってみると予想よりはるかに怖かったり、、、
私もいくつか、自分にとっては怖かったりした経験があって、そのうちの一つは、長年私に影響を与え続け、その件から10年以上たっても時々夢に悪夢としてあらわれてたんだけど、、まあ、今でも、思い出すことはあるけど、自分としては、仏教やヴィパッサナー、慈悲の瞑想に出会えて、とりあえず夢は見なくなったし、、、
トリックさんも大丈夫だといいなあ、と、思っています。
気がつくと、心が軽やかになってるとうれしいですね。
おつかれさまです。
悩み苦しみがなくなりますように
2013年01月28日 (月) 14時52分 No.2173
こんにちは。3 - きのこ>でも、きのこ様が言わんとなさっていることは、何もしていないのに決めつけられたら気分が悪いでしょう、ということですよね。
いえいえ、その思考実験をすることで、トリックさんの心が『全員を嫌う必要はない』と思ってくれて、嫌悪感が少しでも消えてトリックさんがその分ラクになったらいいな、と、その内容を書きました。
トリックさんを責める気持ちは全然ないです。
意図とは反対に、新たに悲しませてしまってたら、すみませんでした。
考えてみれば、、、理屈ではわかっても、、、と言うのは、当たり前にあることでしたね。すみません。
そういえば、私も、先に書いた事件(?)の当時は、日記に、『おとこなんて一生いらない。決めた。私は結婚なんかしない。しないからな!』とか書いてました。(いい加減な私はその4年後くらいに結婚しましたけど(ー ー;))
変な事件がなくなればいいと思うけど、、、
お釈迦さまは、生は苦しみだとおっしゃったしなぁ
かなしいことだけど、犯罪などはこれからもなくならないのかもしれませんね。
生きとし生けるものが幸せでありますように
2013年01月28日 (月) 14時52分 No.2174
いづる様へ - トリックいづる様、ご回答と引用をありがとうございました。
全文を読ませていただきました。
実はその思考が好きなんだということ、はっとしました。
受けた被害はともかく、その後の苦しみについて、誰に強制されたわけでもなく、自分が勝手に自分の思考で苦しんでいる、ということですね。
「好きだから」といわれれば、その通りかもしれない、と。
苦しみたくなければ、その思考をやめればよいのに、私がその思考に頑固にしがみついているのですね。
>ストレスや苦しみなどは、望み通り・計画通りの結果が出ないとき起こるものだと言えるのです。望む結果を出したければ、好き嫌いの主観的な感情を置いておいて、客観的に状況判断して、適した原因を作れば良いのです。
>自分がやった行為の結果が嫌で、それに文句を言っても、どうしようもないのです。その行為をしたときは、自分が好きな行為を、結果を無視して選んだのです。嫌な結果が出たところで、文句を言ったり悩んだりします。
この部分は、よくわかりませんでした。
痩せたいのに、食事量を減らさないでいる人などはわかりやすいのですが、「そのカウンセラーのカウンセリングを受けたこと」という私の行為は、「好き」でしたわけでも、結果を無視して選んだわけでもありません。
確かに、心の治療を求めてカウンセリングに通ったものの、望み通りの結果が出ず、猥褻行為を受けるという望まない結果となり、苦しみが起きました。
適した原因を作れば良いと言われても、どうすれば、あのことを回避できたのかがわかりません。
初回のカウンセリングで、相手の正体を見破ればよかったのか。
(初回から触られたわけではなかったので)
女性のカウンセラーを選択できればよかったのか。
ICレコーダーを持ち込み、牽制すればよかったのか。
それらは、もし私に好き嫌いの主観的な感情がなく、客観的に判断できていれば、本当に対処することができたのでしょうか。
2013年01月31日 (木) 16時11分 No.2177
きのこ様へ - トリックきのこ様、再びのご回答と引用をありがとうございました。
引用していただいた文章のなかに、答を見つけられたかもしれません。
>A:その思考は、過去を思い出しては悩むということです。
終わったこと、死んだ人、消えたことについて思い悩むのは、すぐにやめた方がいいのです。
私はそれを「遺体を運んでいる」と言っています。遺体を背負っていてもあまりかっこよくない。それなのに皆、運んでいるのは遺体ばっかりなのです。
>A:思い出すのは自分でしょ。
嫌いな人が今ここに出てきて、何かをやるわけじゃないでしょう。「イヤだ」と腹を立てているのは自分。だから悪いのは結局自分なんです。
この部分は、確かにそうだと納得できました。
私は、もう過ぎてしまった過去を勝手に回想して、そのたびに憤りを新たにしているのですね。
あたかも、暖炉の火を絶やさないように薪をくべているような。
もうそのカウンセラーとは縁が切れましたし、今何かされているわけでもありません。
なのに、馬鹿馬鹿しいことですね。
私は、自分だけが苦しんで、肝心の加害者であるカウンセラーが、罪悪感すら抱かずに、何のペナルティーもないことが許せなかったのです。
でも、私が苦しめば苦しむほど、その差は開いていくばかりで、何の利益もありませんでした。
そう考えれば、この感情をなんとか手放すことに納得できる気がします。
過去は変えられないなら、これ以上傷を深めないことが得策ですね。
私は、苦しみから逃れたいと考えながらも、実は嫌悪感や恨みを忘れてしまったら、自分の負けだと思い込んでいて、感情を手放すことを自分に許さなかったようです。
それともうひとつ、私は自分に対する憤りを上乗せしていたのかもしれません。
当時のことをただ思い出すだけでなく、私は毎回、回想のなかで、カウンセラーに対してはっきりと拒絶の言葉を言って、カウンセラーに身の程を突きつけているシーンを創作していたのです。
でもそんなことを実際にして、そのカウンセラーのプライドを傷つけたりしたら、逆上して逆恨みをされていたかもしれません。
泣き寝入りをしたことは、身の安全を考えると、あながち間違いではなかったかもしれませんが、はっきり拒絶の言葉を言えなかった自分のヘタレっぷりに、腹を立てていたのです。
ただひとつ、引用していただいた部分で、わからないところがあります。
>「向こうが何を言おうが、何をしようが、あっけらかんとして、きれいな心でニコニコしていれば、あなたの勝ちですよ。ですから怒りを捨てなさい」と言うのです。
ここがわからないというか、本当にそれでいいのかと、釈然としません。
体を触られても、あっけらかんとしてニコニコ受け入れれば、本当に私の勝ちだったのでしょうか。
「嫌だ、受け入れられない」という怒りの感情を抱いたからこそ、私は大事に至る前に逃げ出しました。
もし、そういった感情を捨ててしまったら、拒絶する理由はなく、逃げることもありません。
相手のなすがままです。
セクハラの定義も、受けた側が不快に思えばセクハラとなり、そうでないならセクハラとならないと言います。
例えそのカウンセラーの行為が性交までエスカレートしても、私さえ嫌だという怒りを捨てて、きれいな心でニコニコして受け入れれば、猥褻行為ではなく、両者合意の和姦となりますね。
確かにそうなのですが、なんだか、それは違うのではないかと思ってしまいます。
>トリックさんを責める気持ちは全然ないです。意図とは反対に、新たに悲しませてしまってたら、すみませんでした。
私こそ、誤解して申し訳ありませんでした。
その年代の男性を苦手とすることに、常に罪悪感を持っていたので、「あ、やっぱり悪いことをしているのだ」と、反応してしまって。
お店のレジの店員さんがその世代の男性だと、避けてしまったりするのですが、最近は一列並びのところが多いので、店員さんを選べません。
運悪く当たってしまうと並び直したりして私も疲れますし、もし店員さんが避けられていることに気付いたら・・・と、心が痛みます。
生理用品が売っていれば、それを一緒に手に持ち、男性の店員さんを避けることが不自然でない演出をしたり、姑息な手段を講じたこともありますが、それでも罪悪感は残りました。
たかが買い物ひとつに、なんとも、馬鹿なことをしていますね。
きのこ様も、10年以上も苦しまれたとのこと。
私の気持ちをわかっていただき、暖かいお言葉をいただいたこと、本当にありがとうございました。
「おつかれさまです。」と言っていただき、「本当に、怒りを持ち続けることは疲れるだけだなあ。もう、やめようかな」という気持ちになれました。
とりあえず、第一歩を踏み出せたような気がします。2013年01月31日 (木) 16時11分 No.2178
過去という遺体 - 西向き28日付 きのこさんの返信「こんにちは。」の中で引用されている記事に、
過去について悩むことは、遺体を背負って運んでいるようなものだ
というたとえがありました。
同じたとえが、最近の動画「TEDxSeeds2012スマナサーラ長老の講演」の中にもありまして(最後の20分ぐらいのところから)
「みんな、この遺体を、腐ってる遺体を、背負ってるんです。
過去に足が引っ張られてるということ。
それで、とんでもない、もう~ 膿みだらけで、
もう ダラダラ、ダラッダラ臭いものが流れている遺体を背負って生きてカッコつけてるわけ。
臭いんですからね!」
長老の口調や表情から、過去という遺体を背負って歩くことがどんなことか、ダイレクトに伝わってきますので、よろしかったらお聞きになってみてください(現在HPのトップ頁にあります)
ここからは、
6年前の夏、私が土曜日の法話会の質疑応答で聞いたお話を紹介します。
ある若い女性の質問に対し、長老の答えは:
済んだこと、終わったことで いつまでも苦しんでいるというのは、
自分の手にナイフを握って、自分の肉を削って食べて、
ああ痛い、ああ苦しい、ああ辛いと言ってるようなもんですよ。
なんで済んだことを何度も味わっているんですか。
↑文章で残されたものではなく私の記憶なので、細部の表現は違うかもしれませんが、そういう内容のことをおっしゃったのです。
過激でショッキングなたとえだったので、私はドキッとしました。
「自分の肉を自分で削って食べている」
私もそのとき、済んでしまったこと 取り返しのつかないことで苦しんでいたので、
「そうだよなぁ. . . 牛じゃあるまいし。
いったん食べたものを自分で何度も反芻して、
そのたびに辛い苦しいと言ってるなんて、バカなことだ」と、納得したのです。
もちろん、頭で納得したからといって、すぐに立ち直れたわけではありません。
でも、その後は過去を思い出して苦しい気持ちになるたびに
「ああ、私はまた反芻している、
自分で自分の苦しみを反芻して味わっている」と、気づけるようになりました。
辛く酷い経験をされ、それを誰にも言わずじっと自分の胸の中にしまって来られたトリックさん。今までどんなに苦しかっただろう、そして今もなお どんなにか苦しいだろうとお察します。
一人一人の悩み苦しみは比べることもできず、比べる意味もないでしょうけれども
さきほどの動画の中で、長老が力強くおっしゃっている言葉:
「終わったことは、きれいサッパリ終わって、幕をひいて、
はい、さようなら!
今が忙しいんだよ」
「今の瞬間、無駄にするなよ!」
私自身はこの言葉にとても勇気づけられています。
どうぞ、トリックさんの苦しみがなくなりますように。
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように。2013年01月31日 (木) 16時11分 No.2179
トリック様へ - きのこトリックさま、お返事ありがとうございます。
トリックさまが、もうこれ以上、傷つかれなかったらいいなぁ、と、思っています。
>「向こうが何を言おうが、何をしようが、あっけらかんとして、きれいな心でニコニコしていれば、あなたの勝ちですよ。ですから怒りを捨てなさい」と言うのです。
これは、お互いが対等の立場でケンカしてる場合のことで、トリックさまのような件の時に、相手の要求を自分の気持ちを犠牲にしてまで受け入れろ、ということでは全くないと、私は思っています。
トリックさまの件では、今、トリックさまが再度の悲しみに捉われないことが、トリックさまの勝ちっ、ってことなのではないかなぁと、私は思っています。
トリックさま自身がお書きになられたように、
>でも、私が苦しめば苦しむほど、その差は開いていくばかりで、何の利益もありませんでした。
>そう考えれば、この感情をなんとか手放すことに納得できる気がします。
>過去は変えられないなら、これ以上傷を深めないことが得策ですね。
トリックさまが、幸せに生きることが、その『経験』に対して、トリックさまの勝ちっ!なのではないかなぁ、と、私は思っています。
>それともうひとつ、私は自分に対する憤りを上乗せしていたのかもしれません。
そんなの、トリックさまがかわいそうっ!
よくがんばったね、エライエライ、って、自分の心ちゃんにヨシヨシしてあげてくださいね(#^.^#)
怖い時は、声が本当に出せなくなったり、体を動かせなかったり、
おつかれさまでしたね、
嫌な思いしたけど、それ以上の被害を受けなくて本当によかったですね。
自分の過去にとった行動のこと(ガツンと拒否できなかった、とか、あの時ああいう態度とった、とか)は、もう何も、ご自分を責めなくていいと、私は思いますよ。
褒めてあげればいいと思いますよ、よくがんばった、って。苦しかったね、って。おつかれさまって。( T_T)\(^-^ )
>その年代の男性を苦手とすることに、常に罪悪感を持っていたので、「あ、やっぱり悪いことをしているのだ」と、反応してしまって。
せめて、罪悪感がなくなるといいですね。
私自身ができてないので、胸張って言えないのですけど、本当は罪悪感なんてポイっ、できたらいいですよね
自然に、自然に、心が軽くなってたら、とてもうれしいですね。
とても難しいことだけど、ああなりたい、こうなりたい、と思いながらヴィパッサナーや慈悲の瞑想をするよりは、淡々と実践だけするほうが、効果的なのかな、といろんな記事を読んだりして思います。
http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html
より抜粋引用します。
『 ヴィパッサナーは“今という瞬間に完全に注意を集中する”実践です。何をしていても、“今・ここの自分に気づいていく”こと。それが、ヴィパサナーです。自分を客観的に“よく観る”のです。
今ここの一つ一つの瞬間に意識を向ける。心地よいことでも不快なことでも、ありのままの体験を価値判断しないで、そのまま観るのです。葛藤をシャットアウトしたり、コントロールしようとして新たな問題を作るのではなく、ただ気づくだけ。それが観るということです。それが苦悩を超える道です。安らぎが訪れ、心と体を癒すことになるのです。波立っている水面が穏やかになってすべてを映し出すように、深い智慧と洞察力が生まれてくるのです。
ヴィパッサナーは自分の内部から、自分の一つ一つの瞬間の体験から、学びとるものです。未来に理想を描いて、そこに到達するために努力するのではありません。確実な“今・ここの私”を徹底的に掘り下げようというのが、ヴィパッサナーの実践です。』
(抜粋引用終わります。)
>とりあえず、第一歩を踏み出せたような気がします。
トリックさまが、このようにおっしゃってくださった時、トリックさまの発言自体に、私の心もまた癒されている気持ちがします。
(もちろん、言葉の通りに、できないよぅ、と、新たに悲しまないでくださいね!私なんかは、そういうことしょっちゅうですので^^;)
どうもありがとうございます。
お幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように
2013年02月01日 (金) 14時46分 No.2181
西向き様へ - トリック西向き様、暖かいお言葉と動画のご紹介をありがとうございました。
>自分の手にナイフを握って、自分の肉を削って食べて、
ああ痛い、ああ苦しい、ああ辛いと言ってるようなもんですよ。
なんで済んだことを何度も味わっているんですか。
まさに、私がその状態でした。
今にして思えば、毎日毎日、回想(しかも、実際にはできなかったカウンセラーに対する糾弾シーンを追加したディレクターズカット版)をリピートしているのですから、そのカウンセラーより余程、私のほうが頭がどうかしている危ない人のようですよね・・・。
長老の「今が忙しいんだよ」という言葉で、ひとつ気が付いたことは、私は「今」から逃げているなあ、と。
「今」のことを考えたくなくて、過去にしがみついて、過去のせいで「今」がうまくいかないだと思いたかったのですね。
格好悪いですね。
過去を言い訳や免罪符にするのも、もう、やめようと思いました。
お優しいお言葉をありがとうございました。
私の苦しみをわかってくださる方々がいらっしゃったということがわかり、落ち着くことができたため、自分のしていることの異常さに気が付けたのだと思います。
2013年02月02日 (土) 17時55分 No.2188
きのこ様へ - トリックきのこ様、重ね重ね、暖かいお言葉と引用をありがとうございました。
>これは、お互いが対等の立場でケンカしてる場合のことで、トリックさまのような件の時に、相手の要求を自分の気持ちを犠牲にしてまで受け入れろ、ということでは全くないと、私は思っています。
>トリックさまの件では、今、トリックさまが再度の悲しみに捉われないことが、トリックさまの勝ちっ、ってことなのではないかなぁと、私は思っています。
なるほど、そういう意味なのですね。
私はもともと、期待に応えられないときや、要望を拒否したときの相手のガッカリした様子を見ると、とても不安になってしまう癖があるので、私が心から相手の要求を受け入れれば、問題ないのかもしれない、と思ってしまいました。
自分の心の癖のせいで、曲解してしまったようです。
>そんなの、トリックさまがかわいそうっ!
よくがんばったね、エライエライ、って、自分の心ちゃんにヨシヨシしてあげてくださいね(#^.^#)
ありがとうございます。(^^;)
私は「毅然とした自分」という理想の自分でないことに、怒っていたのです。
そうでない自分も、認めないといけませんね。
むしろヘタレなお陰で、下手に立ち向かいもせず、のらりくらりとかわして、最終的に逃げられたのだと思うことにします。(^^)
>ヴィパッサナーは自分の内部から、自分の一つ一つの瞬間の体験から、学びとるものです。未来に理想を描いて、そこに到達するために努力するのではありません。確実な“今・ここの私”を徹底的に掘り下げようというのが、ヴィパッサナーの実践です。』
私はまさに、よりよい未来を目指して、仏教の実践をしているところでした。
根本的に間違っているのですね。
改めたいと思います。
>トリックさまが、このようにおっしゃってくださった時、トリックさまの発言自体に、私の心もまた癒されている気持ちがします。
(もちろん、言葉の通りに、できないよぅ、と、新たに悲しまないでくださいね!私なんかは、そういうことしょっちゅうですので^^;)
もったいないお言葉です。
「ある日を境に」とか「その日以来」とかで、劇的に改善することは、現実にはあまりないと思っていますので、思うようにいかなくても、悲しまないように気をつけます。
ただ、きのこ様のご回答に返信させていただいた日の夜に、ある夢を見ました。
「人の見た夢の話ほど、つまらないものはない」と言いますので、内容は割愛しますが、目が覚めた直後、私はあまりの空しさと悲しさに涙しました。
私はいつも、何か酷いことや理不尽なことをされたとき、自分を苦しめ、その姿を晒すことで、相手の非を訴えているのだ、そしてそれが、いかに空しく、悲しく、そして恥ずかしいことかを、思い知りました。
「もう、こんなこと、やめよう。いや、もうできない」と。
そのときの空しさや悲しさの前では、カウンセラーへの怒りなど、どうでもよいと霞むほどでした。
このカウンセラーの件を思い出すことは、もはや日課になってしまっているので、それは変わりませんが、今は、怒りを新たするのが、なんだか面倒くさいような、何度も観て飽きてしまった映画の感動が薄れるような、そんな感じです。
とはいえ、癖は治りにくいものですから、また同じ事をしてしまうかもしれません。
そのたびに、あの夢から覚めたときの気持ちを思い出して、自戒するようにします。
思い切って投稿して、本当に良かったと思います。
ありがとうございました。2013年02月02日 (土) 17時55分 No.2189
トリックさん - いづる>この部分は、よくわかりませんでした。
痩せたいのに、食事量を減らさないでいる人などはわかりやすいのですが、「そのカウンセラーのカウンセリングを受けたこと」という私の行為は、「好き」でしたわけでも、結果を無視して選んだわけでもありません。
確かに、心の治療を求めてカウンセリングに通ったものの、望み通りの結果が出ず、猥褻行為を受けるという望まない結果となり、苦しみが起きました。
適した原因を作れば良いと言われても、どうすれば、あのことを回避できたのかがわかりません。
初回のカウンセリングで、相手の正体を見破ればよかったのか。
(初回から触られたわけではなかったので)
女性のカウンセラーを選択できればよかったのか。
ICレコーダーを持ち込み、牽制すればよかったのか。
それらは、もし私に好き嫌いの主観的な感情がなく、客観的に判断できていれば、本当に対処することができたのでしょうか。
失礼ですが…、
そんなこと知らん、僕に聞かないで頂きたい。状況を知らない僕に答えようがない。
ただ、そもそも本当に心の治療を求めていたのか僕には疑問です。本当に心の問題を治したい気持ちがあるならば、そもそもそんなつまらないことにいまさらくよくよしないでしょう。悩むのがお好きなようですね。
結局、自分が正しい。他人が間違ってる。なんて自分は可哀そうなんだっていう話でしょ?
僕はそんなことに乗りませんよ。
さっさとその節操のないじじぃを許してやって今を楽しんでください。
それでは、お幸せに。2013年02月04日 (月) 22時20分 No.2191
いづる様へ1(一部、きのこ様へ) - トリックいづる様、ありがとうございました。
少し、誤解を解かせていただけませんでしょうか。
>そんなこと知らん、僕に聞かないで頂きたい。状況を知らない僕に答えようがない。
お言葉の様子からすると、いづる様のご不興をかってしまったようですが、もし、私の質問が、詰問のように聞こえましたら、お詫びいたします。
引用したからといって、その文章のなかの、あらゆる疑問について答えられて当然とは思っていませんし、一度で理解できない私の理解力に問題があるのですから、おわかりにならなければ、無理にご回答いただくつもりもありませんでした。
二度手間をおかけすることも、申し訳ないぐらいです。
よって、いづる様が、回答の義務を感じることのないよう、そして、いづる様に限定せず、他におわかりになる方がいらっしゃれば、お願いしたいという思いもあり、いづる様にご回答いただきたい旨を明記せず、疑問文で締めた次第です。
ですが、それが仇となって、丁寧さが足りず、詰問のような感じになってしまったかもしれません。
大変、申し訳ありませんでした。
今後、気をつけたいと思います。
きのこ様にも、同じような質問の仕方をしてしまいましたので、きのこ様にも、お詫びいたします。
>ただ、そもそも本当に心の治療を求めていたのか僕には疑問です。本当に心の問題を治したい気持ちがあるならば、そもそもそんなつまらないことにいまさらくよくよしないでしょう。
治療を求めていたことに疑問を持たれる論拠が、「もしそうならば、そもそもそんなつまらないことにいまさらくよくよしない」ということでしたら、異論があります。
なぜならば、つまらないことにくよくよしない人は、カウンセリングなどに頼らないと思うからです。
心の治療を目的とせずに、わざわざカウンセリングに通うような酔狂な人は、そうそういないと思います。
私も、当時は仏教を知らなかったので、やむなくそういうところを利用しました。
それと、いづる様の一人称からして、男性とお見受けいたしますが、たしかに男性からみれば、強姦されたわけでもなく、ちょっと勘違いした男に、胸や尻を触られたぐらいのことは、「つまらないこと」になるかもしれませんね。
そうお考えの方にとっては、私の言うことは、大げさなのでしょうね。
女性と男性の考えの違いということで、どうかご理解ください。
>悩むのがお好きなようですね。
そうなのです。
いづる様への返信にも書きましたので、重複してしまいますが、誰に強制されているわけでもないのに、いつまでも回想して苦しんでいるのは、それが「好き」だからなのですよね。
いくら悩むのは嫌だと思っていても、心の底では、それが好きだから止められない。
怒りも、そうなのだろうと思います。
思い出し怒りというのも、怒るネタが尽きたので、過去から探し出しているということでしょうね。
>自分が正しい。他人が間違ってる。なんて自分は可哀そうなんだっていう話でしょ?
恐れながら、その解釈は、間違っています。
すべてお読みくだされば、正しくご理解いただけると思いますが、それも大変でしょうから、簡単にご説明しますと、最初は、投稿のタイトル通り「嫌悪感を抱く人への慈悲の瞑想」の話でした。
具体的な記述をしたのは、嫌悪感の理由というか、種類を明確にしたかったからです。
たこやきマン様への返信にも書きましたが、通常の「嫌いな人」というのと、やや趣を異にするので、慈悲の瞑想がうまく行かなかったのです。
その後、皆様のご回答のお陰で、「遺体をひきずっている」「好きで苦しんでいる」ということが、解決の糸口になりました。
というところが、これまでの経緯です。
それと、実は、私は「可哀相」という年齢でもないのです・・・すみません。
もちろん、そのカウンセラーからみたら、私も「若い」部類に入るのですけれど、数年前のことですし、今は尚更、「可哀相」というには、ちょっとトウが立ちすぎていて・・・・10代や二十歳そこそこをご想像なさっていたら、ごめんなさい。
長くなりましたので、続きます。2013年02月06日 (水) 16時05分 No.2195
いづる様へ2 - トリック続きです。
>僕はそんなことに乗りませんよ。
申し訳ありません。
私は文才ばかりか、読解力にも問題があるようで、この文脈での「乗る」という表現の意味がわからず、確認させてください。
「そんなこと」というのは、直前の文の「自分が正しい。他人が間違ってる。なんて自分は可哀そうなんだっていう話」を指すという解釈で相違ありませんか?
そして、「乗りません」というのは、この場合は「賛同しない」と解釈して問題ありませんか?
以下、その前提で。
前述しましたが、そういう話ではありませんので、お乗りにならなくて(賛同なさらなくて)大丈夫です。
どちらが悪いかという話ではなくて(そのカウンセラーの行為は、職業上の倫理違反にあたるので、悪いといえば、確かに悪いのですが)、私の抱えている心の不具合についての話なので、最初のご回答で十分ありがたく存じました。
>さっさとその節操のないじじぃを許してやって今を楽しんでください。
それでは、お幸せに。
はい、頑張ります。
許す許さないというのではありませんが、今はいない過去の人と思うようにします。
ありがとうございました。2013年02月06日 (水) 16時05分 No.2196
トリックさまへ - きのこ>(一部、きのこ様へ)
あらっ、トリックさま、律儀ですね~(#^.^#) こんにちはです!
>きのこ様にも、同じような質問の仕方をしてしまいましたので、きのこ様にも、お詫びいたします。
私に関することは全然気にしないでくださいませ。
疑問はどんどん出せばいい、と、私は思いますよ。
私自身質問した時、出された解答みて、泣いちゃうことも多々あったけど(おばちゃんなのに泣き虫なのです~_~;)、私の場合は、おしり蹴っ飛ばされながらも進んできたつもりです。
一番最初に、この掲示板で号泣したのは、「あなた暗い」(意訳です・指摘してくださった先輩はとても優しい書き方をしてくださっていました)と言われ、
わー、ほんまやー!!
と号泣して、そこから仏道がんばりたい、心の向きを180度変えたい、と真剣に思えました。
いづるさまのような、厳しい言い方される方も、仏道進む上では、とてもありがたい存在になってくるかもしれませんね。
がんばれっ、
って、なにより私がまずがんばれよー、な状態なんですけど(^^;;
>それと、いづる様の一人称からして、男性とお見受けいたしますが、たしかに男性からみれば、強姦されたわけでもなく、ちょっと勘違いした男に、胸や尻を触られたぐらいのことは、「つまらないこと」になるかもしれませんね。
そうお考えの方にとっては、私の言うことは、大げさなのでしょうね。
>女性と男性の考えの違いということで、どうかご理解ください。
仏教勉強している今は、妄想だと自分でわかるのですけど、
仏教を知らずに、考えが走っていってしまうと、ああいう恐怖は、死の恐怖につながる恐怖に(私は)隣接していきました。
そのうち殺されんのちゃうか、みたいな。
でも、仏教だと、現実以外は「妄想」でばっさりですもんね。
ああ、仏教大好きだ~っ
この掲示板でecoさまにもご紹介したことがある文章を、再引用させてもらいますね。
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ長老著、出村佳子さま訳(サンガ)
P344より引用
『
私が見るもの、聞くもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものが、
慈・悲・喜・捨を育てますように。
寛大さとやさしさを育てますように。
安らかさを育てますように。
友好的な行為ができますように。
幸せの原因になりますように。
恐怖、緊張、心配、悩み、混乱が
なくなりますように。
』
(引用終了)
生きとし生けるものが幸せでありますように2013年02月07日 (木) 16時14分 No.2201
きのこ様へ - トリックきのこ様、お言葉と引用を、ありがとうございました。
>私に関することは全然気にしないでくださいませ。
>疑問はどんどん出せばいい、と、私は思いますよ。
ありがとうございます。
そうおっしゃっていただき、すこし気が楽になりました。
今後は質問の仕方に気を付けつつ、疑問を解消させていきたいと思います。
>一番最初に、この掲示板で号泣したのは、「あなた暗い」(意訳です・指摘してくださった先輩はとても優しい書き方をしてくださっていました)と言われ、
>わー、ほんまやー!!と号泣して、そこから仏道がんばりたい、心の向きを180度変えたい、と真剣に思えました。
この掲示板でのきのこ様の文章からは、微塵も暗さなど感じませんので驚きましたが、そういったご経験を経て、今のきのこ様がいらっしゃるのですね。
私も、自分の怒りの原因(過去をいつまでも引き摺り、自分でわざわざ怒りを製造していた)を知り、何をやってるんだろうと涙が出て、「もう、今までのようなことはすまい」と固く思いました。
今はまだ、その決心が実を結んではいませんが、私も、いつか誰かにこの事を話した時、「トリックでも、そんな風なときがあったの?」と驚いてもらえるぐらい、成長できれば、と思います。
でも最近は、ご回答いただいた方々のお陰で、そのカウンセラーに対する怒りも、めっきり薄れてきました。
彼は、私が彼を異性として受け付けないという現実を見てしまったら、プライドを保っていられなくなるため、懸命に現実から目を逸らしていたのかもしれないと思うと、ほんの少しだけ、気の毒にすらなってきました。
もちろん、この思いは、まだまだ日によって揺らぐのですけれど。
>でも、仏教だと、現実以外は「妄想」でばっさりですもんね。
>ああ、仏教大好きだ~っ
そうですよね。
恐怖感と言うのは、危険を回避する強い原動力になるので、身を守ってくれるものでもありますが、同時に「妄想」にもなるのですよね。
恐怖のあまり、思うように頭や体が動かなければ、身を守るどころか、自分を窮地に追い込んでしまいますよね。
仏教は、斬新で合理的な理論で、私も好きです。(笑)
仏教が心の拠り所になってくれたら、もう少し心安らかに生きられるかもしれないなあと、期待しています。
>この掲示板でecoさまにもご紹介したことがある文章を、再引用させてもらいますね。
ありがとうございます。
特に私には、最後の二行が切望されますが、おそらくそれらがなくなれば、慈・悲・喜・捨の心の土壌ができるのでしょうね。
がんばります。
ありがとうございました。2013年02月12日 (火) 17時32分 No.2212