日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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全体幸福のために自殺する道理はありえますか? - たこやきマン
初めまして。
私は自他ともに認めるとても醜い容姿と汚れた肌をしています(冷静に自認しています)。人に強い恐怖感や生理的不快感を抱かせてしまい、幼い頃からいじめや拒絶を受けてきました。

今は仏教思想に出会い、無常や無我を体感し、全ての無価値を知って、己の醜さを以前より随分と受け入れる事が出来てきました。
しかし、同時に我欲が無くなってしまったのです。

以前は辛い人生から逃避するために娯楽や悦楽を求め、自分の運命や世の中への怒りを向け続ける事で、それがある意味で生きるエネルギーとなっていたと思います。
ですが、無我や無常を体感してからは、そうした逃避的で刹那的な娯楽への関心や怒りの感情が無くなってきてしまったのです。
そして、自分本位の生き方というものが、とても虚しいものだとも感じる様に思えてきたのです。

ところが、前述の通り、私はその見た目故に他者の心を傷つけ、濁らせてしまいます。和顔愛語を務めていますが、やはり生理的に動揺させてしまう事が少なくありません。

私は存在自体が物理的に人から避けられ、人と交わって人の心を和ませる存在になり得ない。されど我欲が薄れて自分本位に生きるのも虚しい。
生きる目的も見いだせず、他者のために出来る事もなく、したい事もなく、時間だけが無駄に有り余っていて、返って恐ろしいまでの空虚さを感じ始めています。

人間社会にあってプラスよりもマイナスの影響が強い私は、いっそ消えてしまう事こそが全体幸福への相対的な貢献なのではないかと、純粋に合理的に思うのです。
無我で無常で無価値ゆえに、自分の命を惜しむ気持ちも有りませんし、相対的にも貢献できるなら、真剣にそれも有りだと思ってしまいます。

私に何か生き方があるでしょうか? 死ぬのはいつでもできるので、他に何かないか、まだ突き詰めて考えてみようとしているのですが。
2012年12月07日 (金) 13時59分 No.2064
こんにちは。 - きのこ
たこやきマンさま、こんにちは!

>生きる目的も見いだせず、他者のために出来る事もなく、したい事もなく、時間だけが無駄に有り余っていて、返って恐ろしいまでの空虚さを感じ始めています。


もしたこやきマンさまが「悟り」ということはあるかもと信じていて、その上で、まだ阿羅漢さまではないのなら、
悟りを目指して、精進して生きてみるってのは、どうかな、と、思いました。


たこやきマンさまが阿羅漢マンさまになって幸福になられたら、たくさんの人の益になるだろうし、
たこやきマンさまと同じような境遇で心が悲しくなってる人にも、たこやきマンさまの存在が、太陽のように励ましを与えてくれるものになるのではないかなあ、と想像しました。

自分ができることの責任を果たしてさえすれば(歯を磨けるのならば歯をみがく、や、シャンプーできるのならばシャンプーする、とか、)、和顔愛語まで心がけておられるなら、もうもう充分で、相手が自分のことをどう思うのかまでは、管轄外と思ってもいいのではないかな、と、思いました。


もし、阿羅漢さまになられたら、みんなの益になるような本などを執筆されたりするのも、素敵なんじゃないかな~、とか、想像しました。


あれ!?
今、たこやきマンさまのスレを読み直したら、
>今は仏教思想に出会い、無常や無我を体感し、全ての無価値を知って、
とあるではありませんか!(◎_◎;)
ま、まさか・・・

私は我執ありまくりの、凡夫なので、私の意見は転倒したものかもしれませんが、
生きる動機に、身近な方への慈悲を入れたら、どうなるのでしょうか?と、思いました。
ご飯を作ってくれる方に(自炊でしょうか?)、ありがとうねって感謝するだけで、相手は喜びませんでしょうか?
そんな単純なことでも、いいんじゃないかなあ、ダメなのかなあ、と、思いました。

転倒して、失礼なこと申し上げていたら、すみませんです。
2012年12月10日 (月) 12時58分 No.2065
Re - たいやきクン
こんにちは。
匿名でランドセルを施設に寄付した方が話題になったことがありましたが、
姿をあらわさずともできる善行為は山ほどあると思います。
また、対面せずともその行為に共感して、
善心を起こす方も大勢いるでしょう。
いかがでしょう。そんな生き方。
私はかっこいいと思います。
2012年12月10日 (月) 12時58分 No.2066
そんな道理はありません。 - ボート部
悟りを目指す生き方があります。

あなたの文章を読んでみましたが、仏教用語を使って自分の苦境を訴えているだけですよね。
頭の中が混乱するだけだから、やめたほうがいいです。
無常や無我を体感した人が、自殺願望を言うわけないでしょうが。

テーラワーダ仏教に出会えたのだから、この道をてくてくと行ってみませんか。
まあ、楽しいですよ。
2012年12月10日 (月) 12時58分 No.2069
ありがとうございます。 - たこやきマン
きのこさん、ご返信ありがとうございます。

貴方様が仰るように、一方では阿羅漢を目指していたりするのです(笑
この様な身の上で仏教に関心を抱いた、これも紛れもなく因縁ですから、これをチャンスとして頑張ろうと思っているのです。

反面で、現実世界において、和顔愛語に努めていても、思いとは裏腹に相手に動揺されたり怖がられたりする事がずっと続くと、笑う事にも罪悪感を、相手の反応に不安感を覚えてしまって、自分自身をどう扱えばいいのか分からずに疲労困憊してしまうのですよ。

この身を出来るだけ人目に触れないようにすることが、自分に出来る世の中への誠実さなのかな、と。そうすると、消えてしまう事が最高の誠実さではないかと思い至ってしまうのですね。

それと、清潔感や身嗜みについては、それはもう人一倍気を付けていますよ(笑 

また、家では完全に自炊です。家族も友達も恋人(笑)もいないので、”ありがとう”は人間以外に使う事がほとんどですよ(笑

____________

たいやいきクン、ご返信ありがとうございます。

匿名のランドセル寄付、ありましたね! あれこそ本当の慈善行為だと思います。
確かに、物理的に人と接触しなくても、世のため人のために出来る事はありそうですね!

私はいい歳をしてアルバイトの身なので、金銭的に余裕はありませんが、何か間接的にでも出来る事が無いか、調べてみようと思います。

__________

ボート部さん、ご返信ありがとうございます。

積極的な自殺願望ではないのです。物理的存在としての私が他者の心に及ぼす因縁が、不誠実なものだと思っているのです。
何せ、美醜の価値観が未熟な子供や幼児でさえ泣かせたり、怖がらせたりしてしまうので(苦笑
単純に人に精神的な苦痛を与えながら生きる事に、罪悪感を覚えてしまうのですね。

ですが、結局は自分本位で苦境を訴えているだけなのかもしれませんね。失礼しました。

============

全体幸福のために”マイナス存在”が自殺する道理があるかないか、まだ葛藤は続きそうです。

私個人があるがままを受け入れても、それは主観的な自己満足に過ぎ無いような気もします。
そして、私の意思とは別に、現実としてこの身が周囲に振りまくエネルギー、因縁というものは厳然とあるわけで、これを気にしないでいいという道理も、今の私には分かりません。

もう少し考えてみます。皆様、ありがとうございました。
2012年12月12日 (水) 15時59分 No.2071
こんにちは。 - きのこ
たこやきマンさま、返信ありがとうございます!

たこやきマンさまは、宝島新書のスマナサーラ長老著作の『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』という本はお持ちでしょうか?

もしかしたら、たこやきマンさまは興味深く読んでくださるかも、と、思う部分が、p91~97まで載っていました。(勘違いだったらすみません)

以前に私が、投稿の中で引用した一部分がありますので、ためしに再引用しておきますね。

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『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』スマナサ-ラ長老、宝島社新書
P91~93からの引用です。
『 善人の自殺は、これとは明確に違います。それは怒りの伴わない自殺なのです。
 善人は、このように考えます。
 「肉体を持って生きることは、罪を犯しながら、苦を味わって生きることだ。来世では、肉体を持つことだけは絶対に避けたい」
 本当に、肉体があるとロクなことがないのですよ。食べるために動物を殺さなくてはならないし、仕事をするために嘘を言わなくてはならないし、みんなに迷惑をかけなくてはならないのです。一つもいいことはありません。我々は「しかたがない」と放っておきますけれど、ものすごく敏感な理性人は「私が一日生きることが、どれほど他の生命に迷惑か」「私は一日にどれくらい罪を犯しているのか」と真面目に考えるのです。
 実際、一日生きるために我々はものすごい罪を犯しているのです。肉体を維持するために、たくさんの生命を奪っています。だから敏感な人だと一日でも生きていられないのです。それで「この肉体のせいだ。肉体だけは絶対嫌だ」と思ってしまうのです。
 これは仏教思想とは関係がありません。一般人の中に異常といえるくらい理性で物事を考え、罪を犯さない生き方を重んじる人々がいるという話です。彼らは、「生きるとは何か?」と真面目に考えた結果、肉体を維持するために犯している罪の重さに気づきます。そして「この肉体から早く解放されたほうが正しいのではないか」と思うようになるのです。これを「善人の自殺願望」と名付けておきましょう。彼らは怒りで自殺願望を持つのではありません。罪を犯したくない。他の生命に迷惑をかけたくない。それだけなのです。ただ善人の自殺願望も渇愛です。非存在欲が機能しています。
 この善人たちは「肉体の怖さ」には気づいていますが、そもそも仏教は肉体をそれほど重大な問題とは考えていません。それは「生きている」ことが、「心が機能している」ことだからです。肉体から逃げても、心が停止しないなら転生してしまうので、「生きる苦しみ」から逃れられません。だから仏教では「心は怖いものです」と言っているのです。

引用終わり。

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たこやきマンさまが、この生で、阿羅漢マンさまになられたら、すごくかっこいいことだと、めちゃくちゃみんなの役にお立ちになることなのだと、思いたい気持ちがあります。
でも、いろんなこと、ちゃんと私には、わからないんだけど、、、


>”ありがとう”は人間以外に使う事がほとんどですよ(笑

人間以外に使えるって、かっこいいと思うっす!!

私は、よく、
「おいおい、そりゃ、あかんやろ~」とか、虫などに、ツッコミいれています。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2074
自我がぷんぷん臭いますよ - 迷い犬
美醜は主観的なものであり、周囲に振りまく影響の善悪も、誰の立場でみるか、長期短期でかわってきます。

例えば、ものが腐るのは嫌なものですが、それがなければ生態系は維持できないでしょう。

本当に無我を実感できれば、全ては相対的なものであり、いかなる個人的判断も絶対的なものではないと理解するはずです。

それを言葉を換えて表現すれば、自分が馬鹿だとわかるということです。

馬鹿だとわかれば、アルバイトで働いているだけで社会の役にたっていると満足するはずなんですが。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2075
はじめまして - ヒロ
私も、本題に関しては、他の方と同じですので、特にないのですが、ちょっと気がかりになりましたので、文面だけで判断できないことで、的外れかとも思いますが(というか、その方が良いのです)、一応書いてみることとしました。

ちょっと、問題設定や現状認識が極端に思うのです。
書かれていることを疑っているわけではないです。疑っているわけではないのですが、文面だけを見て、「冷静に自認して」というのを丸ごと事実として良いのかも、分かりません。たこ焼きまんさんの自覚としては、冷静だというのは、その通りだとは思うのですが…自覚って、自分で思うだけですので、本当に冷静かどうかって意外に分からないような気がします。
私たちの冷静などは、もしかしたら「俺は酔ってない」という言い張る酔っ払いのようなものかもしれません。

姿が誰からも忌み嫌われるほど醜いだとか、冷静に判断されているといった、ここに書かれた内容そのものが事実かどうかは、私には判断するすべがありません。

ただ、自死をするかのがあり得るどうかという問いに、少々極端さを感じています。

きっといろいろな体験もあって、そういう問いが出ているのだとは思いますが、死ぬことが他の多数の幸福になるか?、やって良いのか?(あるいは、やるべきかも含むのでしょうか)という問いには、なかなか、いかない人が多いのではないかと思います。
快楽を求めていたという以前の生き方と、今度はそれを放棄して、やりたいこともなく、全体のために死んだ方が良いのではないかと思うということについても、極端な心の振れ幅を感じてしまいます。

前置きが長くなってしまいましたが、身近な人に相談された方が良いと思いました。場合によっては、カウンセリング等も必要なのかもしれません。

あくまでも、私がそう思っただけで、医者ではありませんし、診断をしたつもりもありません。けれど、鬱病(を代表とする心の病)の方のネット上での書き込みを何度も拝見しましたが、「生きるか死ぬか」というような、大きな設定が多いです。現状も、実際より大きくとらえてしまいます。この人達も、とても論理的にいろいろ書かれます。でも、それって死ぬほどの問題かな?ということばかりです。そのことばかり考えているからだと思いますが、言ってることが極端に先鋭化してしまって、視野は狭いことが多いです。

そこが気になったので、失礼だとは思ったのですが、判断力がしっかりされているうちに、身近な方(本当に、あなたが自死しても誰も悲しむ人や迷惑に思う一人もいないという状況ですか? 喜ぶだけですか?)や、対面で話のできる第三者の意見や診断をいただいた方がいいのではないかと思いました。

自死を選択するくらいなら、その前に、是非そうしてくださいね。

本題の自死については、日常の倫理が通用しないような、よほど特殊な状況に於いては、そういう問いも立てうると思いますが、たこ焼きまんさんが、自死しないと周囲の幸せが特段阻害されるような問題ではないと思いました。
その場で、彼らが驚いたところで、気分を害されるだけで、彼らにとっても日常生活の方が忙しく、取るに足らないことだと思います。死んであげても、それで幸福が益す程度のことですらないと思います。晩ご飯のおかずがいくらかでも安く出来た方が、彼らにとってはずっと幸福な程度だと思うのです…。

お釈迦様が、もしご存命でも、他人が誰かの外見を不快に思うからと言って死ぬなどということを認めたとは、とても思えません。
結構、憎まれている場合もあるお釈迦様ですが、場合によっては刺客を差し向けられるほど憎まれているからと言って、その人たちのために、死んではいませんし、逃げることを諦めたという場合はあっても、佛弟子の誰も自分からは死んでません。そういうのに付き合って死んであげるというのは、仏教の考える慈悲とはちょっと違うんじゃないかと思います。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2076
こんにちは。 - むいむい
こんにちは。
少し思ったことがあるので書かせて頂きます。
私はあなたの容姿を見たことがないので、周りがあなたに対して抱く気持ちがわからないし、当然あなたではないのであなたの気持ちになれることもありません。
よって今から書くことは私自身が実行できるかどうかわからないし、読む人からすればただの綺麗事だと思われることを先に述べておきます。

まず思ったのは、

>”貢献としての死”という考え方が、合理的に在り得る気がするのです。

ということに対しての考え方です。
この考え方はあくまで人間社会を基本とした場合でのことですよね。人間以外はあなたの容姿を見て美醜の判断をするわけがないので、人間社会をベースにすれば合理的かもしれませんが、この世界全体からすれば非合理になります。
当然このことはすでに理解されているゆえの、

>美醜の価値観が未熟な子供や幼児でさえ泣かせたり、怖がらせたりしてしまうので

という言葉だと思います。
そうなんですよね。人間が持っている価値観です。人間で生まれた以上、いくら現実がこうだから、世界はこうだからといったところで、人間社会での枠に納まらないと生きていて苦しいです。その枠を歪ませているような気がするから罪悪感を覚えているのかもしれません。ですがその枠を作ったのも人間なんですよね。とすれば壊せるのもまた人間です。

マイナス存在といいますが、その基準である”0”はどこにあるのでしょうか。世間的に言えば大勢の判断が”0”になるかと思われますが、この場合の”0”は簡単に移動することはあなたもご存知かと思います。もしあなたが本当に、苦痛を与えることで自分が嫌な思いをしているのではなく、苦痛を与えることで相手が嫌な思いをするのが申し訳ないと思っているのなら、死ぬことで解消するのではなく、価値観である”0”の軸を移動させることで解消するようにすればよいのではないでしょうか。

当然、簡単ではないと思います。「今の私」があなたの立場なら、そういうことをやってみようとすら思わないかもしれません。ですがある程度の智慧を身につけ、かつ、阿羅漢を目指している段階での「私」であるならば、そういう行動に出れるかもしれません。

人間なんて単純なもので、良くも悪くもすぐ慣れる生き物です。あなたの容姿で最初は驚いたとしても、中身が確かなものなら普通に接してきます。ましてや子供や幼児ならなおさら単純です。逆に普通ではない人がとても良い人だったりすると、普通よりも価値あるものに感じてしまう面もあったりします。不良が良いことをするとやたら褒められるという心理に似ているのかもしれません。

容姿が気になるのなら帽子で軽くカバーすればいいし、肌が汚れているのなら長袖を着ていればいいでしょう。当然この考えはあなたの苦しみがわからない私が考えたものだから、簡単に考えすぎているとは思っています。ですが、上にも書きましたが、そんな立場にいるあなただからこそ、できる何かがあるのではないか、と私は思います。

以上、綺麗事でした。
悩み苦しみがなくなりますように。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2077
無我と無価値の違い - eco
後からすみません。

無我と無価値(この場合、価値がないという判断)は違うのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

誤解していたら申し訳ありませんが、

見た目に美しい人が他人から好感をもたれやすい、
そういう人には生きる価値があって、

醜い人はどう頑張っても他人から嫌悪されてしまう、だから価値が無い、
ならばいっそ死んだほうが社会のためではないか、
とおっしゃっているのですよね?

それは中道ではなくて、どちらも美醜で人を判断していることになると思うのですが…
本当の無我は、そういった価値判断を超えた所にあると思うのですが。

もし、容姿で他人に迷惑をかけていると悩んでいる人が目の前にいたとしたら、
主様はどんな言葉をかけますか。
「あなたは死んだほうが社会のためですよ」なんておっしゃらないでしょう?

それはご自分に対しても同じことで、ご自分も生命の一つとして大切にしていただきたいです。

世の中はなんらかの偏見を持っている人ばかりなのでしょうから、
なんらかの偏見で判断され嫌悪されても、それは相手の煩悩の問題で、
こちらはそれに振り回されずに、慈悲、和顔愛語が自然とできて、
心穏やかでいられるのが仏道だと思っています。(私はまだ初心者ですが…)

経験を積んだ主様がさらに仏道を進んでいけば、
同じように悩んでいる人や、様々な理由で人生を諦めてしまった人の
支えになることもできるのではないでしょうか。

もちろんそこまで気負わずとも、
主様がただ心穏やかに幸せに暮らしている様子を見て、
「自分もこんな風に生きたい」と他の人に勇気や希望を与えられると思います。

分かりやすい例えで言えば、
テレビでよく見かけるニューハーフの人も偏見を持たれやすいですよね。
でも、男性だとはっきり分かるような見た目でも、
明るく前向きに堂々とお洒落しているニューハーフの人を見ると、
頑張っていて素敵だなぁ、その精神を見習いたいと思う人は少なくないはずです。

もし、そういう人達が、嫌悪されるからと、どんどん自殺してしまうとしたら、
随分暗い世の中になります。それはマイナスです。

うまく言えませんが、
様々な逆境にあっても、仏道を実践し心穏やかであることが
「幸せに生きることはできるんだよ」とお手本になり、
全体幸福のためのプラスになると思います。

最後に少し脱線しますが、私は長年不妊治療をしており、
先日やっと授かった命を初期流産で亡くしました。
(仏教的に考えるようにトレーニングし始めていたので、
残念ではありますが比較的落ち着いて受け止めています)

ただ、科学が進んだ世の中とは言え、受精卵が着床するまでに淘汰され、
そしてやっと妊娠しても淘汰され、生きる力をもった命だけがこの世に生を受けるのを実感します。

生まれてくると私達は勝手に見た目やら能力やらで優劣をつけていますが、
本当は生まれてきた時点ですでに、皆、抜きん出た生命力を持っているのだと思います。

受精卵から分裂して、やがて心臓の拍動が始まり、頭や手足が作られていく…
そういう生命の活動をエコーでも目の当りにし、
今私達が当たり前に持っている自分の身体というものが
いかに精密に作られて、ありがたいものかと思います。

細胞1個だって、自分の意志で作ることなどできないし、
ましてや命を作ることなどできない。
(話題のiPS細胞なども元の細胞が必要ですしね)

ただただ無数の細胞達がひたすら生き抜いて、
それぞれの仕事を全うしてくれているおかげで今の私達があります。 

「生きとし生けるものが幸せでありますように」

ご自身も生きとし生けるものであることを忘れないでください。

幸せでありますように。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2078
遅まきながら - simauma
>全体幸福のために”マイナス存在”が自殺する道理があるかないか、

断言します。ありません。

仏教には勝義締と世俗締というものがあるのは知ってるでしょう? ものの美醜は世俗締ですので、どんなにあなたが醜いとしても仏教的には「マイナス存在」にはならないはずですし、醜いという世俗締に囚われた人々のパパンチャ(この意味が分からなければ勉強不足)を守り通すこともこれまた「全体幸福」ともならないはずです。
「全体幸福」なるものがあるとすれば、むしろそのパパンチャを打ち破ることの中にあるはずです。(このへん、ある施本からのパクリです。分からなかったらド素人)
すると誰かが自らの醜さ故に自殺することはどう考えても「全体幸福」になどなるはずはありません。
その人が自殺することは単に周囲の人々の無明を認め、深めることになるだけです。無明の世界にどっぷり浸からせてしまう悪行為です。
ですから自らの醜さ故の自殺は「全体」どころか誰にとっても幸福とはならないことは自明のことです。

ところで、たこやきマンさんはスマナサーラ長老の初心者冥想指導を受けたことがあるのですか?
なんかなさそうだなあ・・・・・・どう考えてもないよなあ、この文面。
思想としての仏教は勉強ってか、つまみ食いはしていても、実践としての仏教には興味がない、っていうよくあるタイプだったりして・・・・・・いえ、失礼、失礼。でも大丈夫。これがチャンスです。きちんと初心者指導を受け、ついでに色々と質問もして、本当の善行為とはなんなのかを教わってきなさい。
幸福の話しはそれからだ。
今のあなたじゃ話しにならん。

仏教の世界はあなたが考えるほど、そんなスケールの小さなものではありませんぞ。

幸福でありますように。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2079
疑問 - R
容姿のせいで人から拒絶されることは、本当に辛いことですよね。
まだお若い方でしたら余計に。

最初の書き込みや、皆様の回答、それに対するあなたのレスを拝読いたしまして、いくつか疑問がございます。
もし、お差し支えなければ、お答えいただければ幸甚に存じます。

「全体幸福のための自殺」と仰せですが、他人に絶対に迷惑をかけないような方法で、且つ、死後の処理が滞りなく済むような準備や手配についても、具体的にお考えなのでしょうか。
普通はそこまで細かく考えないかもしれませんが、全体幸福を意図するあなたの場合、綿密に計画なさることと存じます。
しかし、余計なお世話ですが、あなたの現状では、それは非常に難しいことのような気がするのです。
あなたは死ぬことを「消える」と表現していらっしゃいますが、実際には、遺体が消えずに残ります。
遺体を発見し、火葬やら何やら、諸々の手配をしてくださる方の目処は立っているのでしょうか。
失礼ながら、他の方へのレスで、家族も友人も恋人もいらっしゃらないとありますが、人選に難儀なさるのではないでしょうか。
人を雇うにしても、内容が内容だけに、引き受けて貰えるのかどうか。
経費や、処理を請け負ってくれる人への報酬など、お金も割とかかりそうですが、経済的な余裕もあまりおありにならないとのことで、大変、難しいことのように思われるのですが、そのあたりはクリアされているのでしょうか。

また、無常を実感したと仰せですが、無常を実感した人が、果たして「全体幸福のための自殺」を考えるものなのでしょうか。
死ぬことが、文字通り「消えてしまう」のならばともかく、上記のような問題もありますし、なによりも、無常を本当に理解していれば、急がなくとも、いつか必ず死ぬことを分かっています。
私は無常をまだ実感できておらぬ未熟者ゆえ、想像でしかございませんが、無常を実感していれば、いつか必ずくる死まで、なるべく人に迷惑をかけないように生きるのが、理に叶っているのではないでしょうか。
容姿や肌のせいで迷惑をかけていると思われるのでしたら、人との接触を最小限にし、そのときもなるべく物理的な距離を置き、夏以外は使い捨てマスクで顔を隠したり、常に長袖や襟の詰まった服を着て肌を露出しないようにしたり、できることは色々あるのではないでしょうか。
容姿を理由に拒絶されると言いながら、そうした直接的な対策や努力が書かれておらず、的をはずせば逆効果になる危険性もある「和顔愛語」や、果ては「全体幸福のための自殺」にまで話が及ぶことに対して、唐突さを拭えません。
私の読解力にも問題があるのでしょうが、どうにも、あなたのおっしゃることは、全体的に整合性がないように思われるのです。

人の本心というのは、本人にさえ隠されるものです。
自殺云々をお考えになる前に、自分の本心をよく確認してみてはいかがでしょう。
最後に、不躾な質問やご提案をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2082
たこやきマンへ - いづる
>今は仏教思想に出会い、無常や無我を体感し、全ての無価値を知って…

とありますが、そればらばなぜご自分のことをそこまで評価なさるのでしょうか?
そもそも無我なら評価する自分も存在しないでしょうに。
無価値ならば他人から嫌な顔をされてもどうったことないでしょうに。放っておけば。

色々とお考えになるのは良いのですが、
「今は仏教思想に出会い、無常や無我を体感し、全ての無価値を知って…」という前提をおやめになったらいかがでしょうか。
もう少しだけでもブッダの教えを深く理解するように努めた方がよろしいかと思います。
正直ブッダの教えをなめてるのではないかと思ってしまう。

さらに、
生命にとってマイナスの存在は消えてしかるべきだというならば、世の中のかなりの割合の生命は死んだ方がよいということになりますね。
貢献はしないが迷惑だけはかける人間は大勢います。僕もまぁその一人でしょう。だからあなたの理屈でいうならば僕も死んだ方が良いということになるね。まぁいくらなんでも僕はほんの一握りはブッダの教えを学んでますから、そんな理屈はゴミですけど。

あなたの思考レベルで分かるかどうかは知りませんけど、
死ねば消えられるとお思いのようですが、エネルギーは続いていきますから、また別な形で転生します。それのどこが貢献ですかね?
ほんとうに貢献しようと思うならば、悟ることです。輪廻を脱出することです。輪廻を脱出できれば、存在することを乗り越え、他の生命に迷惑をかけることはなくなります。
悟ることで、他の生命を導くことも能力の範囲でできます。
それが答えです。
以上。

幸せでありますように。
三宝のご加護がありますように。
2012年12月17日 (月) 16時24分 No.2083
きのこさま、ありがとうございます - たこやきマン
>> 怒りで自殺願望を持つのではありません。罪を犯したくない。他の生命に迷惑をかけたくない。それだけなのです。

この言葉は、まさに今の私の心境を正確に表現しています。
誰かを責めたり、恨んだりと言った感情は全く無いのです。不潔なモノや醜いものを見て、嫌だな、怖いなと感じるのは、ある程度は本能的生理的な反応として仕方のない事だと、最近はだいぶ割り切れる様になってきましたからね。

ただ、自分のせいで人を不快にさせたり、怖がらせたりする事に、罪悪感を覚えてしまうのです。

自分に出来る最善を尽くしているからこれで良いんだ! と割り切ってしまうと、自分自身が振りまく迷惑について、配慮が思い及ばなくなり、それ故に自分の与り知らぬところで人を不快にさせてしまっていたら、それは自分の身勝手さが生んだ過ちではないか、と考えてしまうのです。

そう考えると、自分自身の適切な扱い方が分からなくなって、混乱してしまうのです。

『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』という本は、私にぴったりのタイトルですね(笑) 読んでみますね!
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2084
迷い犬さま、ありがとうございます。 - たこやきマン

まず、物事には程度問題があると思います。
そして、私自身が気にしなくても、私を見た他人が不快感や嫌悪感を覚える場合、私はこの体がそういう影響力を持っているという事を自覚したうえで、自分をどう扱うべきかを定めるべきだと思うのです。
私は、それが分からないから、困っているのです。

……自我の臭いは、ぷんぷんしますね。その通りだと思います(苦笑)
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2085
ヒロさん、ありがとうございます。 - たこやきマン
>>自覚って、自分で思うだけですので、本当に冷静かどうかって意外に分からないような気がします。

これじゃ避けられても仕方がないな、と自分自身で納得しているという意味です。

>>身近な人に相談された方が良いと思いました。場合によっては、カウンセリング等も必要なのかもしれません。

肉親は半年前に亡くなったので、悲しむ人は誰もいません。だからこそ、今後の人生について深く考える様になったのです。

カウンセリングについては、受けた事があります。ただ、今はこのサイトの内容の方が、情報量も多くて無料なので、バイトの身にはありがたいです。

また、最近は今生の事は”実験”みたいに思っています。つまらない実験なので、お金が尽きたり実験に飽きたら、それまでと思っています。自分の中では決して悲観的な意識ではありません。

ただ、仏教に出会って物の見方が変わった部分もあるので、実験中に何か得られたらラッキーくらいに思い始めています。

>>晩ご飯のおかずがいくらかでも安く出来た方が、彼らにとってはずっと幸福な程度だと思うのです…。

その通りだと思います(笑
しかし、それは通り過ぎるだけの赤の他人の場合です。

関わらなければ無視すればいいけれど、何かしら関わらざるを得ない時、人は極力接触を避けようと、拒絶を示すのですよ。
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2086
むいむいさん、ありがとうございます。 - たこやきマン
>>価値観である”0”の軸を移動させることで解消するようにすればよいのではないでしょうか。

これはつまり、世の中の美意識の変革というのに等しいのでは? 理屈の上ではそうですが、現実的に不可能でしょう。

確かに、人は”見慣れる”ものもあります。ですが、”見慣れて貰えない”ものもあるのです。

私は、人の認識を変えたり、今より容姿を好転させると言った事には、もはや希望を持っていません。お金をかけて色々試しましたが、やはり限界があります。

>>容姿が気になるのなら帽子で軽くカバーすればいいし、肌が汚れているのなら長袖を着ていればいいでしょう。

すでに見た目や清潔感には、できるかぎり気を配っていますよ! 身体でも隠せるところは隠していますが、夏場や仕事中、病院など、顔や頭などは、隠せない状況も少なくないのですよ。

……う~ん、難しいですね。
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2087
eco様、ありがとうございます - たこやきマン
>>様々な逆境にあっても、仏道を実践し心穏やかであることが「幸せに生きることはできるんだよ」とお手本になり、全体幸福のためのプラスになると思います。

このお言葉は、心打たれました!
確かに、その通りですね。世には色々な人が色々な逆境で苦しんでいます。そうした中で、生きぬいて幸せになれたら、それは一つの模範となり、希望になりますね!

なるほど、そう考えると、”この逆境”で幸せになった第一人者になれたら、素晴らしい事だなぁ。

想像するとちょっと素敵ですね(笑

>>ご自身も生きとし生けるものであることを忘れないでください。

不妊治療を経験されてのお言葉、とても重く感じました。

同時に、私は自分の体を大切に感じていない事に気付きました。

早くこの体を捨てたい。この身体で生きたいと思わない。そう考えているのです。それは自分を大切にすることではないですよね。

自分の心を正直に観察すると、実は私は我執を捨てたのではなく、無関心になっただけなのではないかと気付きました。

……臭い心に蓋。そんな感じでしょうか。もう少し、観察してみます。
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2088
simaumaさん、ありがとうございます - たこやきマン
>>自殺することは単に周囲の人々の無明を認め、深めることになるだけです。無明の世界にどっぷり浸からせてしまう悪行為です

なるほど! 確かに筋は通っていますね。すると、私がこのような見た目に生まれついたのは、逆説的に言えば、人々の無明に対する啓発的な役割があるとも言えますね。

>>スマナサーラ長老の初心者冥想指導を受けたことがあるのですか?

ありません。調べてみますね。
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2089
Rさん、ありがとうございます - たこやきマン
自殺に関しては、現時点で積極的に考えているわけではありません。

ですが、仮にするとしたら、夏場に自殺名所の国有林で裸一貫で首吊りをしようと思ってます。
そうすれば白骨化も早いでしょうし、腐肉は鳥や蛆や土の肥やしになるでしょうから。

それ以上の事は考えていませんよ。

>>容姿や肌のせいで迷惑をかけていると思われるのでしたら、人との接触を最小限にし、そのときもなるべく物理的な距離を置き、夏以外は使い捨てマスクで顔を隠したり、常に長袖や襟の詰まった服を着て肌を露出しないようにしたり、できることは色々あるのではないでしょうか。

当然、全部やっています。基本ですね(笑)
また、バイトも深夜のものを中心にしたり、裏方の仕事など、人目に付かないものを選んでますよ! というより、雇ってもらる仕事を探すと、必然的にそうなります(笑)

>>容姿を理由に拒絶されると言いながら、そうした直接的な対策や努力が書かれておらず

私の質問の本題ではないので、わざわざ書かなかっただけですが、説明不足でしたら失礼しました。

>>的をはずせば逆効果になる危険性もある「和顔愛語」や、果ては「全体幸福のための自殺」にまで話が及ぶことに対して、唐突さを拭えません。

ですから、自分をどのように扱って生きれば良いのかが分からず、悩んでいるのですよ。

人目を忍んでと言っても、これでも一応自立して生きている身なので、それなりに顔を出さなければならない場面もあるのですが(苦笑
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2090
いづるさん、ありがとうございます。 - たこやきマン
>>無価値ならば他人から嫌な顔をされてもどうったことないでしょうに。

私自身が他人からどう扱われるかというのは、それほど問題ではありません。それは昔からの事なのである意味で割り切れています。
ただ、私を扱う人たちが私に向ける表情や態度から、私は人に強い不快感や恐怖心を与えている事を自覚させられ、その度に罪悪感を覚えてしまうのです。

>>死ねば消えられるとお思いのようですが、エネルギーは続いていきますから、また別な形で転生します。

ここが分かりません。

エネルギーとは、この世に因縁(影響)が消える事無く続く事を言っているだけではないのですか?

転生とは、現世の間での自我意識の変遷を表した方便に過ぎないと理解していたのですが……。

すみません。勉強しなおしてみますが、助言があれば頂きたいです!
2012年12月20日 (木) 10時38分 No.2091
レスどうも(;^_^A - ヒロ
とりあえず一点だけになるのですが、

>カウンセリングについては、受けた事があります。

それで
お薬はいただいていたのでしょうか?
差し支えなければで結構ですので、診断はどうだったのですか?

治療は今は受けてない、ということですよね。
完治したわけではないのでしたら、辞めてしまうことはまったくお勧めできません。医者が合わないのでしたら、かえても良いと思います。
経済的にきついのは分かりますが、今話されていることは、無料HPを見て、決めるような内容ではないです。

私が前のレスで一番言いたかったのは、

【【【対面でお話をする】】】ことです。
治療されていたのでしたら、なおのこと、一般人相手ではなく(もちろんお話する相手がいれば、友人などにも話してください)、専門機関での治療は、お続けに欲しいと思っています。

どうか、お願いします。
やっていただけますか? お約束いただけますでしょうか? ←この点のご返事をお待ちしております。

(管理人様、一つ前にレスがあると思います。こちらに差し替えをお願いします)
2012年12月26日 (水) 10時34分 No.2094
たこやきマンへ - いづる
こちらがご参考になるかと思います。

『当たり前を認める智慧、『いま・ここ』で幸福になる道(Dhammacast)』
Q 輪廻する主体は何でしょうか?我がないのならば、何が輪廻するのでしょうか?

A 我がないから輪廻するのです。輪廻のことは解らなくてもけっこうですが、主体がないのだからこそ変化できるのです。主体が何か変わらないものがあるなら、消化できないものをおなかに飲み込んだようなもの。宇宙全体どこを見ても、核たるものはない。原子核という核にしても変化している。自我を前提とした思考では輪廻は理解できません。自我意識を破らなければ。自我が破れれば、「なんだ当たり前のことだ」となります。変化することが生きることです。実体があったら困るのです。ご飯さえも食べられなくなります。

無常だから、実体がないから、物事は変化するのです。変化するということが輪廻です。今の状況が止まれない、変化するのだということ。変化には停止が成り立たないのです。何かに変わって、変わって続いていく。止まることなく変化する。解らないのは、「私」が死んでどこに行くのか、と聞いてしまうからです。それは「馬の翼はどのくらい長いですか?」と聞くようなもの。質問自体があまりにもアホラシイ。「私」は、過去でどこにいたかと探したところで、「あなたは、今もいないんだよ」という話です。今もいろんなものを組み立ててできているのだから。単語をいろいろ使ってもいいけど、実体はないのです。みな私がいると思っているが、性格は条件によって成り立っているものです。ここから家に帰ったらもう別人です。いまもずーっと別人に成り代わっているのに、「私がいる」ということ自体があべこべ思考。あべこべ思考で質問されても、お釈迦さまは答えません。

「私」が成り立たないんだということは、真理を発見しないとわからないけど、「馬の翼のたとえ」を頭で回転させて、ものごとはたえまなく変化するんだよ、と覚えておけば充分だと思います。物はずーっと不安定で変化することを発見するために、物理学者もずいぶん苦労しました。確固たる物質はなりたちませんよ、と発見するために。現代科学よりはるかに卓越した心の研究である、仏教を理解するのは難しいのです。

では、死後は跡形もなく消えるとは言えるのでしょうか? 紙を燃やして消えたら無になったのでしょうか? 変化したのです。燃やした紙の灰を見て、元の紙をイメージできるでしょうか。紙を燃やすと二酸化炭素ができます。二酸化炭素を見て、「これはこないだ読んだ週刊誌の紙だよ」といえるでしょうか。週刊誌という実体があったなら、二酸化炭素を見てそれがわかるはず。実体があるというアベコベ思考では、輪廻の理解は無理です。

その代わりに、人々はひとかけらも証拠もない「魂」をよく信じること。たったひとかけらでも証拠がある? 「魂がある」という証拠が一億分の一でもあるならば出してください。それさえもないのに、魂がある、魂があると。こういうのは話にならないんです。だから、余計なことは心配しないでください。

私が具体的に、人生を一週間で変えることについて教えているのに、それにはまるっきり無関心で、「輪廻転生はどうなんでしょうか?」と聞く。やっと幼稚園に入った子供が、幼稚園でやることを何もしないで、「お母さん、宇宙船に乗せてください、宇宙を旅したいんだから」と駄々こねるようなもの。

「いま・ここで幸福になる道」をブッダが教えているのです。それに挑戦してみたほうが現実的だと思います。

他宗教を例にすると、仮に創造記のアダムとイブの話が嘘だったら、人間には原罪という罪がなくなる。原罪がなくなったら生きることはなぜ苦しいかとキリスト教徒に説明できなくなる。神は全知全能なのになぜ苦しみがあるのかと、アダムとイブの話を考えた。それを否定されたら、宗教が崩れてしまう。そんな屁理屈は喜んで信じるのに、輪廻転生はどうのと、毎回質問されるのですね、日本では。

輪廻転生はあったりまえのことです。宇宙の現象すべて輪廻ですから。太陽があるということに証拠出す必要ない。地球が丸いということは事実。「私に解らない。ゆえに地球が丸くない」というのはちょっと我慢してほしい。お釈迦さまは、巨大なスケールで、一切の真理を知り尽くした上で語っているのだから、われわれに消化しきれないことはあります。昨日もちょっとアビダルマの文章を作っていたのですが、こころの認識プロセスについて、いくら頑張っても一般の方々に理解できるように語ることは難しい。頭の中にデータがあるのに。

お釈迦さまは一切を知り尽くした方です。われわれはまだ調べている途中なんです。でもお釈迦さまは、誰にでも真理をわかるようにはしています。そのためには心のレベルをもうちょっと向上させないといけない。アベコベに考える、非論理的に考えることはやめないといけない。自分の主観で考えることはやめないといけない。ありのままに考えるという能力が必要なんです。そのためにはそれなりの方法も修行もあります。

また他宗教の立場から考えると、人間はみな原罪で苦しんでいると。女性はお産で苦しむと、聖書に書いてあります。神の怒りによってわれわれの苦しみがあるという。神は全知全能で慈悲深いといいながら、永遠に人類を呪っているのだから。とんでもなく恐ろしい思考でしょう。人間は罪を犯した本人は罰しても、関係ない家族は逮捕しません。それに比べて神はなんだと。屁理屈です。その屁理屈を発見したら、とらわれないで済みます。

神が人類に苦しみを与えたというなら、その苦しみは同一のはずです。しかし、生きる苦しみはそれぞれです。なぜ苦しみが個人個人違うのか。原罪の話を信仰する人々に聞いてみたい。原罪なら全員同じはず。しかし苦しみはそれぞれ違う。出産の苦しみも、子育ての苦しみも、人それぞれ。なぜこの差があるのか。だから仏教はひとりひとりは個人であって、その個が自分の行為によって幸福も苦しみも味わっているのだという。それなら答えは簡単でしょう。

この花瓶に生けられた花を見ても、みな同じことは感じません。個人が花を見て感じる楽しみは、それぞれですが、その個人も、自分がいる場所によって、年によって、また異なる。そこには神の言葉も、予言もいりません。ただありのままに物事を見る能力があればわかります。なぜ違うか、いろいろ理由はいえます。それらを全部カットしても、違いは残るのです。それは過去の業です。同じ夫婦から子供がうまれる。たとえ一卵性双生児でも、違う人間です。同じにはなりません。

……ドラゴンがいなくても、ドラゴンという言葉はあります。言葉にひっかかるのは危ないのです。魂という言葉があるからといって、魂という実体があると勘違いしてはいけないのです。理性と論理でものごとを考えれば大丈夫ということです。

私からいくらつぶされても、疑問に思ったことを質問する勇気を捨てないでください。

証拠のないこと信じられないという人々に釈尊はいわく、殺したり盗んだりうそをついたり……と、あらゆる悪行為をすることはよいことでしょうか? 知識人なら、それは悪いことだと答える。そういうことをするとよい結果が出ますか? 出ません。では、殺したり盗んだり嘘をついたり……する人を社会がほめますか? ほめないです。では、もし死後があったならば、その人はどこにいくでしょうか? 死後があるならば不幸なところに行かないといけない。反対もしかりです。超越した知恵がなくても、ほら、法則は知っているでしょう? という話です(カーラーマ経)。悪いことしないで、良いことしなさいと。

宗教はみな、自分の宗教を信じる人は天国にいくといっている。イスラム教とキリスト教と天国に行く方法が違う。では天国に行くのはどんな宗教を信じる人でしょうか。

釈尊はこうおっしゃる。もし死んでから永遠の天国がなかったとしましょう。正しかったのは他の宗教だったとする。そしたら後の祭り。教えが正しいといま、ここで経験しなければ理性ある人は納得しません。だからお釈迦様は解脱ということをいま、ここで体験できるように教えて下さったのです。もし解脱を体験できなくても、仏道を歩めばその日から幸福になるのです。

輪廻は人間の理解範囲を超えているので、私は話のテーマにしたくない。でも、日本ではよく聞かれます。日本のお坊さんは堂々と輪廻を否定するんだから。それで唯物論を語るのです。宗教を否定しているんですから、だったらお寺からも出て行ってくださいといいたいですが……。

自我というものは成り立たない。すべては絶え間なく変わるんです。太陽も、地球も変わり続けていますが、それぞれの変化の周期は違う。花の変化も違う。手のひらの氷の変化のスピードも違う。現象の世界ではばらばらに変化しますが、真理の世界では物質はみな同じスピードで変化します。それは冥想したりして体験できる。お釈迦さまの教えが正しいことはいま、ここで体験できます。あなたがたが「慈悲の冥想」でもしたならば、地獄に落ちたくても落ちられません。誰にでも優しい人は、死後どこに行ってもそこは天国です。仲間として心配しあうのだから。

だから死後の世界はどうでもいい。心清らかにすることに励んでください。

http://gotami.j-theravada.net/2008/06/dhammacast-66.html

幸せでありますように。
2012年12月26日 (水) 10時34分 No.2095
こんにちわ - けんぞ-
たこやきまんさんこんにちわ。

あんまり考え込まず。明るくいきていきましょう。

そして毎日瞑想しましょうよ。そうしたらまた考えも変っていきますよ。
2012年12月26日 (水) 10時34分 No.2097
慈悲の心 - R
私の疑問にご回答いただき、ありがとうざいました。
ですが、私は具体的な自殺の方法をうかがいたかったわけではなく、もし本当に全体幸福を思ってのことならば、他人の迷惑にならないように深く考えていらっしゃるであろう、そうでないのならば、やはり本音は(ご自分で気が付いていないかもしれませんが)感情で自殺を考えていらっしゃるのだろう、ということを示唆したつもりでした。
やはり、あまり深く考えてはいらっしゃらないようですね。
なにはともあれ、現時点では、積極的に自殺なさるおつもりはないとのこと、安心いたしました。

それと、本題からは外れますが、あなたの書き込みに対し、いづるさんが仰せのようなことを私も懸念いたしました。
最初の書き込みは「容姿が理由で他人を不快にさせ、拒絶される。自分はいないほうが良い人間ではないかと、自殺まで考えてしまう。」といったように、あくまで個人の悩みとして受け取れるので、あまり問題はないと思いますが、だんだんと、以下のように、一般化した書き込みになってきています。

---- No.2071 きのこさんへの返信から ------
>全体幸福のために”マイナス存在”が自殺する道理があるかないか、まだ葛藤は続きそうです。

---- No.2072 通りすがりさんへの返信から --
>ですから、人間社会にあって、何の役にも立てず、むしろ他者を不快にさせるだけの存在ならば、他の命を消費して無駄に生きながらえるより、消えてしまう方が、相対的と言えども、この世界への貢献として捉えられるのではないでしょうか?


問題を提起した時点で、是の可能性を含んでいるのですから、既にそのようなお考もあるとういうことですよね。
慈悲に溢れたお考えとは申せませんよね。
ここは仏教を学んでいる方々が集う掲示板ですから大丈夫だと思いますが、このようなことを他の掲示板でおっしゃったなら、炎上しても不思議は無いと思われますし、最悪の場合、「やはり、自分は死んだほうが良いのか」と暗い気持ちになってしまう方もいらっしゃるかもしれません。
ご自分の気持ち(感情)や考えを重視するあまり、他人の気持ちを想像したり、慮ったりすることが、少しお留守になっていらっしゃったのではないでしょうか。
他人への慈悲の気持ち、思いやりの気持ちをお育てになられたら、今後の指針もはっきりするでしょうし、ご自身の心も楽になると思います。
あなたは、容姿や肌の汚さだけが、他人から拒絶される理由と仰せですが、本当にそれだけか、よくお考えになってもよろしいかと存じます。

たこやきマンさんの悩み苦しみが、なくなりますように。
2012年12月26日 (水) 10時34分 No.2098
ボート部さんシマウマさんいづるさん - 赤染衛門
仏教って何ですかね?仏教徒って何ですかね?
そんな偉そうなものなんですかね?ただ実況中継して妄想をたたくだけでしょう。
2012年12月27日 (木) 16時43分 No.2099
お互いがんばりましょう! - eco
レスの内容を読んで、きっと今の心境に至るまでに
人には分からない苦しみがあったことかと思います。

でも、仏道ならばきっと乗り越えさせてくれるはずです。
もちろん、信頼できる方々に相談しながらでいいと思います。

自分のことが嫌になったり、身近な人を嫌いになったり…と、
怒りの矛先はいろんな方向へ向かいますが、
慈悲の瞑想を”心を込めて”念じるのがやはり効くと思います。

命として大切にしよう、という気持ちを思い起こさせてくれます。

あと、これは我流ですが、
1日頑張った身体に、
「今日もありがとう、お疲れ様」と心の中で声をかけたり

誰かから見た目で嫌悪や怒りを向けられたら、自分の身体に対しては
「大変だったねぇ、よく頑張ったね」と労わると同時に、
「私を嫌っている人も幸せでありますように」
と心の中で念じてみるのもいいと思います。

虫1匹の命も大切にする仏教ですから、
ご自分のことも、命として労わってあげてみてください。

もうすでにお分かりのことばかりだったかもしれませんが、応援したくて書きました。

幸せでありますように。
2012年12月27日 (木) 16時43分 No.2100
ヒロさん、再度のご返信ありがとうございます - たこやきマン
心療内科を受診したのは高校生の頃なので、もう10年も前です。その際は、醜形恐怖によるうつ病と診断されました。
以前は薬も飲んでいましたが、現在は飲んでいません。飲まなくても大丈夫な程度の落ち込みなので。

私の文面が悪かったためか、とてもネガティブで鬱状態の様に受け止められてしまったようですが、現在は積極的な自殺願望はありませんから。

それに、私が生きる上で出来る事は、”気にしないこと”しかないのも分かっています。

そして、現在は心の中ではある一定の割り切りは既にできているのですよ。

ですから、カウンセリングはもはや無用の段階にまで至っているのです。

ただ、私が周りに与える影響を考えると、どこまで割り切ってしまっていいのか、線引きが分からないという事です。

そこで、特に生きていたいとも思っていないので、ならば死ぬことで相対的にでも貢献できるなら、一定のめどをつけて自分で逝くのも、意義があるのではないかと思い、投稿させて頂きました。

心配して下さってありがとうございます。
2012年12月27日 (木) 16時43分 No.2101
いづるさん、再度のご返信ありがとうございます - たこやきマン

素晴らしい引用をありがとうございます!

無常や無我が理屈ではなく、感覚的に分かったような気がしました。

上手く表現できませんが、全てに区別はなく、あるのは変化だけ。私=たこやきマンは実体がないから、私が罪悪感を覚える理屈もないということでしょうか?

本当に上手く表現できませんが、無我と無常、輪廻が感覚的に分かった瞬間、安心感が湧いてきました。全てが腑に落ちるというか、考えるまでも無いというか。

これは大きな発見になりそうです!

ただ、そうすると解脱が良く分かりません。
元々全てに区別はなく、あるのは変化だけだとしたら、解脱のしようもないのでは?

悟ろうと悟るまいと、それは現世の個人的な心理的な解脱に過ぎず、欲界において物質的な輪廻は続くような気がします。

……すみません、質問ばかりで。

ですが、一歩前進できそうです。ありがとうございました。
2012年12月27日 (木) 16時43分 No.2102
けんぞーさん、ありがとうございます - たこやきマン

瞑想をしてみようと思います。
そうすれば考え方も柔軟になるかもしれませんね。
”明るく”生きた事がないので、難しいですが、”すっきり”生きる事なら、私にもできるかもしれません。励みます。
2012年12月27日 (木) 16時43分 No.2103
Rさん、再度のご返信ありがとうございます - たこやきマン

私と同じような悩みを持った人が掲示板を見ているかもしれないという考えは、全く思い及びませんでした。その部分において、一般化して語り、配慮に欠けてしまった事に関しては、完全に私の至らなさです。もっと慈悲を持つべきだと自覚しました。ありがとうございます。

ただ、当初は本当に自殺を肯定する道理があるかもしれないと、正直に思って質問させて頂きました。今は、皆様のご返信を受けて、考えが少しずつ変わってきています。

他人から拒絶されるのは、容姿や肌の汚さだけではないというのは、確かにあると思います。性格が良いとはお世辞にも言えませんからね。
心だけでも磨こうと思ったのは、仏教の教えに出会ってからです。まだまだ未熟者です。
ただ、慈悲や思い遣り、幸せや楽しさなど、言葉としては分かりますが、感覚としてはあまりわからないのですよ。
そういう経験があまりないから、と言えば、ただの言い訳になってしまうのでしょうが……。
でも、色々と学ぶうちに心が変化していくのを待とうと思います。
2012年12月27日 (木) 16時43分 No.2104
返信 - いづる
ご質問の意図を100%は理解できませんが、こちらがご参考になるかと思います。

>ただ、そうすると解脱が良く分かりません。
元々全てに区別はなく、あるのは変化だけだとしたら、解脱のしようもないのでは?


『解脱は理解できない
~仏教徒は、仏陀の道を歩んでいるのか?~』

我々は、有の世界にいるのです。有・有るということは、因縁によって現れた、変化生滅していく、一時的な現象の世界です。神の次元も、梵天の次元も、有の世界です。有は、無常なのです。有に対立して、人間は「無」の状態も想像しますが、実感があるとは思えません。どちらかというと、虚無主義に陥りやすい概念なのです。仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。釈尊は、涅槃を anakkhâta (ineffable)表現不可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。しかし、「有」でもないのです。その境地は観念的なものではなく、経験できるものです。

http://www.j-theravada.net/howa/howa125.html

ご参考にして頂ければ幸いです。
幸せでありますように。
2012年12月29日 (土) 20時30分 No.2106
座り続けましょう - けんぞ-
僕も初心者ですし・わかっているわけではありませんが・毎日瞑想していると心が静かになっていきますよ。これはとても効能があると思っています。聞くところによると座り続けることで自然と悟っていたり・病気が治っていたり・人間関係が調和されたりするそうです。僕もそういう効果を実感しています。世の中では理屈で割り切れないことがあるものなのですね。是非座りましょう。何かたこやきマンさんにとって突破口が見つかるかもしれませんよ。
2012年12月29日 (土) 20時30分 No.2107
たこやきマンさんそして赤染衛門さんへ - simauma
たこやきマンさんは頭もよく心も柔軟な方のようなので、、どのように考えたらご自分の心が楽になるのかはもうお分かりのようですね。しかし頭がいい分、思考に頼り過ぎだと思います。
ボールの打ち方を知っているだけではホームランが打てないように、心を楽にするためにも心の仕組みが分かるだけではまだ足りず、訓練が必要です。その方法として重ねて冥想をお勧めします。

赤染衛門さんのおっしゃるように仏教の冥想はただ実況中継して妄想を叩くだけの単純ものなのです。しかし修業方法をいたずらに複雑にすることにはなんの意味もないでしょう。
世界中を旅するより自分の部屋の片隅で黙って座る方がより成果を得られるならば、誰がなんと言おうとただ座る。それでいいのだと思います。
そしてその結果が悪いのなら別のことを試せばいいのです。その方が断然効率的です。人生の限られた時間を有効に使う最善の方法だと思います。

私は二年ほど前から半信半疑で冥想の世界に入り、最近、ようやく自分も仏教徒になったなあと思うようになったばかりの新参者ですので、仏教徒とはなんなのか、と明確に答えることは出来ませんが、お釈迦様のおっしっていることの一部(まだまだ全部ではありません)に確かな手応えを感じている者ということは断言できます。

たこやきマンさんが仏教徒になるべきだとは私は思いませんが、冥想はぜひ試してみるべきだと思います。ただ、スポーツでもなんでもそうですが、最初に教わる人がしっかりした人であることはその後を大きく左右します。その意味でスマナサーラ長老の初心者冥想指導をお受けになることをお勧めしているのです。

話しを元に戻しますと、ご自身の容姿を周囲の人が不快に思うからと仮にでも自殺を考えるのは、子供が泣くからといってなんでも買い与える馬鹿な親とかわりはありません。きちんとした親なら頭のひとつも殴りつけ、「このクソガキめ! 大人になってから自分の力で買え!」ぐらいのことは言うはずです。
ある人の容姿を自分の子供が不快に思い泣いたからといって、「すみません、あなた顔変えてください」と他人に頼む親がどこにいますか?
やはりそんな時は自分の子供の横っ面を殴りつけ……以下同文。
「あたかも母が我が子に対するように」とは『慈経』による慈悲の解釈です。たこやきマンさんの他者に対する態度は我が子に対するようでしょうか? そうでないならばまだまだ慈悲の気持ちが足りないのです。
誰かがたこやきマンさんの顔を見て不快な表情でもしたならば、向こうずねを蹴っ飛ばし……以下割愛……つまりまあ、そのように出来てこそ、本当の「無我」というものであり、慈悲の心がある人ということになるのだと私は思います。
子供が橋の上から落とした十円玉を惜しんで泣いたからといって、谷底にバンジージャンプする親がどこにいますか? そんな時は……ふうっ、もう飽きたんでやめておきます。

なにはともあれ、さっさと冥想を始めることをお勧めします。そして駄目だと思ったらさっさとやめましょう。

たこやきマンさんがしあわせでありますように。

赤染衛門さん、以上が仏教に対する私の解釈であり、姿勢です。これでご質問(?)に対する返事になっているでしょか? 
疑問があれば重ねてどうぞ。出来る範囲でお答えします。

追伸:赤染衛門さん。オレは「シマウマ」ではなく「simauma」だけど、オレでよかったのかな~?
2012年12月29日 (土) 20時30分 No.2108
たこやきマンさんへ - kou
まああまり気負わず気楽にいるのがよいかと思います。

仏教で「善い行為」か「善くない行為」かというのは、行為そのものではなく心の状態で決めるのです。

・行為をするときの心の状態が、明るく、はっきりすっきりしていて、落ち着いていて、気軽で、柔軟で、欲なく、怒りなく・・・であれば善。

・行為をするときの心の状態が、暗く、不透明で、すっきりせず、落ち着かず、固く、欲があり、怒り憎しみ嫉妬後悔物惜しみがあり・・・であれば不善。

なのでたこやきマンさんが明るく楽しく一切の後悔なく、清らかな喜びを感じながら自殺します、というのであれば「ああそうですか」と私は止めはしないのですが。

そうでないなら「不善行為はやめたほうがいいのでは?」ということになります。


たこやきマンさんがどれほど心が成長した方かわからないので邪推になりますが、人のために死ぬというのもどれほど本当かなぁと。
今まで人のために生きたことはないでしょう?(それ自体は問題ないのですが。私もそうですし。)
それが急に人々のために死ぬんだ~と。


スマナサーラ長老の著書で「ありのままの自分」という本がありまして、そこで自分が自分をだますということについて語られています。

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自分自身を巧妙にだまし、ごまかす心の働きについて書かれた本は世界でたった1冊しかありません。
これを書いたお坊さんはすでに亡くなっていますが、本当に立派な方でした。その本の序章には「私も自分自身にだまされて説明している箇所があるかもしれないから、よく気をつけて読んでください」と書いてあります。
立派なお坊さまがそこまで言うくらい、だます機能というのは巧妙なのです。
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けっこう心のだまし機能は大きく口をあけて、良かれと思って行動した人間が不幸のどん底に落ちるのを待っているのです。

この本の主題でもありますが、それはほんとのほんとに「自分の本音」なのかと、またほんとの「自分の本音」とは何かと観察してみると、善い結果になるのではないかなぁと思います。

幸福でありますように。
2012年12月29日 (土) 20時30分 No.2109
ecoさん、再度のご返信ありがとうございます - たこやきマン
自分自身に労りの言葉をかけてみる、と言うのは、面白いなと思いました。

自分の身体は決して好きではありませんが、それでも生きている以上、世話になっているわけですからね。
心から労わって言葉をかけるのは、かなり難しいですが……
「相変わらず酷い見た目だなぁ~。でもまぁ頑張ってるじゃん?」
「また嫌がらせちゃって、やっちまったなぁ~(笑)」
くらいに、腐れ縁の悪友に対する情みたいな感じ?で、皮肉交じりに声をかけてみました。

試しにやってみると、これはこれで悪くない気がしてきました。客観的に自分を観察している感覚でしょか? 正しい意味での我執を捨てる感覚が、少しだけ分かった気がします。

また、貴方の流産のお話は、私に直に向けられたメッセージゆえか、今も重く受け止めています。
正直に言って、生まれてきて良かったとは、今の私にはまだ少しも思えていません。
ですが、生まれてしまった以上は、せっかくなので、大切なものを見つけるまでは、生きてみようと思います。
それはきっと、慈悲の心であり、生まれてきた事への感謝の気持ちなのだと思います。
それが心から実感できた時が、私の人生の目的が達成された瞬間かもしれないと、今日思いました。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2112
けんぞーさん、再度ご返信ありがとうございます - たこやきマン
瞑想はさっそく実践してみました。
すると、嫌な感情や記憶が溢れてきました。

理性的には、ecoさんへの返信で書きましたように、自分なりの目的を達成するまでは生きてみたいと考えているのですが、潜在意識では非・存在欲がまだまだ根深くあるようで、「このまま孤独に生きて、ひたすら耐え忍ぶだけの人生に、何の意義があるんだろう? さっさと死んだっていいじゃないか!」という怒りや不安、孤独から来る虚しさなどが溢れてきて、怖くなったのでやめました。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2113
simaumaさん、再度のご返信ありがとうございます - たこやきマン
>>心を楽にするためにも心の仕組みが分かるだけではまだ足りず、訓練が必要です

仰る通りでした。二日ほど瞑想をしているのですが、自分で押し殺していた深層意識を開いてしまった感じです。
嫌な感情や記憶が溢れてきて、動悸や冷や汗が酷くなってしまい、正直に言って、瞑想は私には辛すぎるように感じます。

>>「あたかも母が我が子に対するように」

まずは、慈悲の心を養う事から始めようと思います。
瞑想中に湧いてくる記憶や感情に対して、反発や恐怖、怒りや寂しさなど、激しく感情が入り乱れてしまい、冷静に受け止められません。
なので、慈悲の心を養って、まずは自分自身に対する根底からの否定意識みたいなものを緩和する事から始めないといけないと、直感的に感じました。

そして、自分を正しく慈しめないと、他者に対しても慈悲が注げないという事も、はっきりわかりました。

難しいですが、やるべき事は分かってきた気がします。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2114
kouさん、ご返信ありがとうございます - たこやきマン
>>人のために死ぬというのもどれほど本当かなぁと。今まで人のために生きたことはないでしょう?(それ自体は問題ないのですが。私もそうですし。)それが急に人々のために死ぬんだ~と。

人のために生きた事はありません。それどころか、人に迷惑(不快感・嫌悪感)ばかりを振りまいてきました。ですので、あくまで相対的な貢献が成立するなら、私が自殺する事にも一つの意義があるのではないかと思ったのです。


>>スマナサーラ長老の著書で「ありのままの自分」

読んでみようと思います。

そして、実際に瞑想をしてみて気付きました。表面的な理性で無理やり納得していた(思い込もうとしていた)事が、あまりに多かったことに。

心の奥底には、向き合えていない、受け入れられないと感じている物事がたくさんあって、それから逃避するために、”全ては無価値”という都合の良いロジックに頼っていたような気がしてきました。

瞑想はちょっと辛い事が多過ぎて体調を崩してしまうので、まずは慈悲の心を養う事から始めようと思います。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2115
いづるさん、度重なるご返信ありがとうございます - たこやきマン
>>『解脱は理解できない
~仏教徒は、仏陀の道を歩んでいるのか?~』

読みました。そこに”無執着”という言葉がありました。あらゆる”有”への完全な無執着こそが、解脱のようです。

これは実際にその境地に至らないと分かり様もありませんね。

ですが、この”完全な無執着”というのは、とても重要なヒントになりそうです!

ありがとうございます。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2116
2012年12月27日 (木) 16時43分 No.2101への返信 - ヒロ
何度もお手間を取らせてすみません。
10年前に心療内科にかかっていて、今は大丈夫とのことですね。

>その際は、醜形恐怖によるうつ病と診断されました。

私も、その可能性を思ったので、最初のレスになりました。醜いとおっしゃるのですが、それが事実であったとしても、皆が皆、消えて欲しいなどと思っているのかどうか…あなたは回りの人がどう思ってるか確かめたのですか?
「大丈夫」とのことですし、それはそうなのかもしれませんが、たこやきまんさは、考えすぎだと思います。
うつは考えすぎる(妄想する)病気ですので、決して考え深いなどと言って褒められるものではないです。

これ以上の強要はできませんが、自己判断はいい加減なところはありますので(本当に重度の方は書き込めませんから、それは分かっています)、一人でネットだけで考え続けないようにしてくださいね。
お約束いただけないようで残念ですが、一人で考えているだけだと、おかしな方向へ曲がります。この点は、記憶にとめておいてくださいますよう、お願いします。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2117
補足 - ヒロ
それと10年前とのことですが、心の病は年月はあまり関係ないと思います。
10年でも20年でも、悩むときは悩みます。すんでしまえばおしまい、という悩みもありますし、ずっと引きずってしまうものもあります。そうだから、このスレの内容になっているのだと思います。

申し遅れましたが、最後に立ち入ったことをお聞きして失礼しました。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2118
補足2 - ヒロ
(ぶつ切りになってすみません。
後でまとめます。)

「考えすぎ」に関して。
考えるなら、どうしたら罪悪感を感じないで生きていけるのかという方向へ持って行くのが、仏教の考え方ですし、それがこだわりのない無我への道だと思います。
考えるなら、こちらをお勧めします。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2119
simauma様へ - eco
横ですみません。

瞑想が大切だという部分は
私もsimauma様と全く同意見なのですが、
下記の例えは少し違和感というか、慈悲ではなく怒りのように感じました。

>きちんとした親なら頭のひとつも殴りつけ、
>「このクソガキめ! 大人になってから自分の力で買え!」

>誰かがたこやきマンさんの顔を見て不快な表情でもしたならば、
>向こうずねを蹴っ飛ばし…

たぶん、simauma様は親心を持って
相手を「叱る」つもりで書かれているのだとは思うのですが、
自分の容姿を嫌悪された時、
相手を殴りつけたり蹴っ飛ばすのが
他者への慈悲の表現とは思えないのです。

もしブッダならばどうしただろうかと考えたら、
殴ったり蹴ったり「クソガキめ」…ではないような気がします。

同じ主旨を諭すにしても、もっと穏やかで、
会話の中で自然に気付かせることができるのが、
慈悲と私は思います。

…という一意見もあるよ、と受け止めていただけたら幸いです。
2012年12月31日 (月) 19時21分 No.2120
たこやきマンさんへ - kou
返信ありがとうございます。
ご自分を観察されてみたようなので、少し突っ込んだことを書きます。

>> そして、実際に瞑想をしてみて気付きました。表面的な理性で無理やり納得していた(思い込もうとしていた)事が、あまりに多かったことに。

どうでしょう、その「相対的に貢献したい」という思い自体、表面的ではないでしょうか。
そもそも誰に貢献したいというのでしょう?
両親?恩師?自分を心配して親切にしてくれた人々?大事な人でしょうか?

今死んで貢献したいと言ってる先は、今まであなたをバカにしてきた人々ではないですか。無知でだらしなくて観察能力はかけらもない人々でしょう。
あなたが命をかけて貢献する価値が果たしてあるかどうか、そもそも本当に貢献したいと思っているのかと、正直に考えてみてください。


http://www.j-theravada.net/howa/howa72.html

「この世をくまなく探してみても、自己より愛しいものは存在しない」とお釈迦様がおっしゃるのです。
「それゆえ理性ある人々は自己を護る」とも。

私達は誰よりも自分を心配して護る人になるべきだと思います。
自分を理想的に心配してくれる人とは、
・人とは仲良くするな、敵と思え
・困っている人は見捨てろ
・人の失敗を望め、成功者は邪魔しろ
・人を徹底的に差別しろ
このようなことは言わないのです。

また、このようなことも言いません。
・好き放題生き物を殺しなさい
・好き放題盗みなさい
・好き放題嘘をつきなさい
・好き放題邪な行為をしなさい
・好き放題酒を飲んで酔っ払いなさい

だから自分を心配し護るために、まずは慈悲の実践と五戒を守ることをやってみてください。
それで「自分のことを護っている人と言えば、それは私のことですよ」と、自身もって言えるようになったら、すばらしいことだと思います。(これは、お互いに頑張りましょう)


いくつか、たこやきマンさんの参考になりそうなものを上げておきます。

・私の嫌いな人々、ライバルについてどう考えるべきか
http://www.ustream.tv/recorded/27919672

・仏教がどれほど体というものを高い位置から見ているか。
http://gotami.j-theravada.net/2011/10/pdfvijaya-sutta.html

冒頭の注意にもあるとおり真に受けすぎないよう注意しつつ、体が美しい、醜いということに仏教がまったく価値を置いていない、相手にもしていないということを感じてみてください。
2013年01月04日 (金) 14時41分 No.2121
たびたびですが - R
たびたび申し訳ありません。
瞑想をして、ご自分の本心に気付かれたとのこと。
お辛いでしょうが、大きな一歩を踏み出されたということだと思います。
少し語弊がありますが、隠れた本心は「潜在意識」のようなもので、表に現われない分、その影響力は大きく、大抵は碌なことをしません。
隠れた敵は、倒しようがありませんが、表面化(自覚)してしまえば、倒しようもあります。
瞑想は、「欲、怒り、無知」を消す手段です。
それに対して、慈悲の心を育てるのは、中和、緩和する手段です。
もちろん、消してしまうほうが近道に見えますが、たこやきマンさんのように、いざ心と対峙すると、あまりにも辛い思いをなさる場合は、まずは慈悲の心で中和する方法をとることが、「急がば回れ」の道に思えます。
そうやって中和されていけば、やがて瞑想によって心と対峙しても、今ほど辛くはならないかもしれません。
せっかく、潜在的に隠れている心を炙り出せたのですから、ベースは慈悲の心にしておいても、半年や一年に一度、ごくごく短い時間だけでも、様子を見ながら瞑想をしてみるのも、悪くはないかもしれません。

また、あなたの書き込みのなかで、私も見習いたいと思うことがございました。

--- No.2092 通りすがりさんへの返信より -----

>でも、主観で出来る事はやっているからと割り切っても、割り切ったせいで、配慮が及ばずに、与り知らぬところで無自覚に負の影響を振りまいてしまっては、それは不誠実ではないかと不安に思うのです。

--- No.2084 きのこさんへの返信より -----

>誰かを責めたり、恨んだりと言った感情は全く無いのです。不潔なモノや醜いものを見て、嫌だな、怖いなと感じるのは、ある程度は本能的生理的な反応として仕方のない事だと、最近はだいぶ割り切れる様になってきましたからね。


今までは、このようなお考え(理性)と、あなたの潜在的な本心との間にやや葛藤があり、それで苦しんだり、ご自分の扱いに困ったりもなさったでしょうが、本心に気が付いた上で、さらに慈悲の心や思いやりの心を身につけていけば、自然と適切な振る舞いや対応ができるようになるのではないでしょうか。
もちろん、相手の理不尽な要求に従ったり、あまりにも酷い対応を許容する必要はありませんが、嫌な顔や態度をされる程度でしたら、相手の嫌悪を認めて、「嫌な気分になって気の毒になあ」と、心の底から思いやることで、自分の心をも楽にすることができると思います。

たこやきマンさんの悩み苦しみが、なくなりますように。
2013年01月04日 (金) 14時41分 No.2122
simaumaさん、赤染衛門さんへ - R
simaumaさんへ

赤染衛門さんでなくて申し訳ないのですが、赤染衛門さんへのsimaumaさんの回答を拝読し、思うところを述べさせていただきます。

--- No.2108 赤染衛門さんへの返信より -----

>誰かがたこやきマンさんの顔を見て不快な表情でもしたならば、向こうずねを蹴っ飛ばし……以下割愛……つまりまあ、そのように出来てこそ、本当の「無我」というものであり、慈悲の心がある人ということになるのだと私は思います。


自分の顔を見て不快な表情をされただけで、向こう脛を蹴飛ばすのが、本当の「無我」で慈悲の心がある人のする行為でしょうか

実際に蹴飛ばさずとも、そのような考えを抱くことさえ、慈悲の心と解釈するのは、私には大変に難しいことです。
「物を欲しがって泣く子供の頭を殴りつけ、クソガキ呼ばわり。」
「他人の容姿を不快に思って泣く子供の横っ面を殴り付ける。」
時代によって教育方法は変わっていくものですが、現代の感覚からすると、ちょっと児相に報告したくなるような光景かもしれませんね。
これらは、子供が親の気に入らない反応をしたからと、力(暴力)でねじ伏せようとしているのであって、「すみません、あなた顔を変えてください」と頼む親と、根本的には変わりないように思われます。
両方とも、自分の望むとおりに他人を変えさせようということですよね。
子供が、あまりにも色々なものをねだって聞き分けないのならば、必要なものならば与え、それ以上の贅沢品は、「お前の望むように買っていたら、お金がなくなって、みんなご飯が食べられなくなってしまうよ。そうやって泣いても、すべてが叶うわけではないよ。どうしても欲しかったら、大人になってお金を稼ぐようになってから、自分でお買いなさい。」などと、まずは諭すべきではないでしょうか。
(もちろん、子供がそんなことで簡単に聞き分けるものではないことは承知しており、あくまで理想論としての話です。)
他人の容姿が不快で泣いてしまったら、それを否定せずに(年端もいかない子供に言っても無理でしょう)、「もし、誰かがお前の顔を見て、同じように泣いたとしたら、お前はどう感じる?」と、相手の立場になり、思いやる心を教えるべきではないでしょうか。

以前、私の愚かな質問に丁寧にご回答いただき、その節は大変、勉強させていただきましたご恩があるにもかかわらず、このような疑問を申し上げましたこと、お許しください。
また、他のトピックでのsimaumaさんのご回答も参考にさせていただくことがあり、この場をお借りして、お礼申し上げます。

simaumaさんが幸せでありますように。

========================================================================================================

赤染衛門さんへ

ご指名も受けてもいないのに僭越ではありますが、お許しください。

>そんな偉そうなものなんですかね?ただ実況中継して妄想をたたくだけでしょう。


赤染衛門さんの仰せのとおり、いささか大雑把に言ってしまうと、「実況中継して妄想をたたくだけ」ですね。
けれど、仏教とは、「苦しみを無くす教え」だと、私は思っております。
苦しみを無くすのに、「実況中継して妄想をたたく」のが、有効だということです。
体を鍛えたい人が、ジムに通うようなものです。
心を鍛えたい人が、瞑想を実践するだけです。
そして、偉そうなものでもありません。
「仏教を実践している自分は偉いんだ」「自分は瞑想をして自我が薄れた。優れた人間なんだ」と思うことは、仏教では「慢」(もしくは「慢」と「見」のコラボ)という煩悩になると思います。

赤染衛門さんが幸せでありますように。

2013年01月04日 (金) 14時41分 No.2123
eco様へ - simauma
ご意見、ありがとうございます。

>自分の容姿を嫌悪された時、
相手を殴りつけたり蹴っ飛ばすのが
他者への慈悲の表現とは思えないのです。

とのご意見、ごもっともです。

ただ、私の発言の趣旨は、
「自分の容姿を嫌悪された時」にすべき反応ではなく、「自分の子供が他の生命の容姿を見て嫌悪した時」に親がすべき反応を誇張して書いたつもりだったのです。

なぜなら「自分の容姿」と思うとそこに自我があり、真の意味での慈悲とはならないからです。「他の生命の容姿」と自分さえも客観視することができてこそ初めて「無我」であり、そこでようやく真の意味の慈悲を実践できるのではないか、との思いからでした。

文才がなく、不快な思いをさせてしまったことを陳謝いたします。
表現は撤回いたします。趣旨のみご理解いただければ幸いです。

しあわせでありますように。
2013年01月04日 (金) 14時41分 No.2124
たこやきマンさんへ - yoshio
私も、アトピーで本当に苦しんだ経験があります。

もしたこやきマンさんも肌の不調の原因がアトピーということであれば、こちらの本を強くお薦めいたします。


佐藤健二『患者に学んだ成人型アトピー治療』


この佐藤健二先生という方は真に聡明な方だ、と私は思っています。

勝手にアトピーではないかと決めつけた上、質問にもまともに答えておりませんが、書かずには居られませんでした。

蛇足になりそうですが、私はこの病気のおかげで身に染みて学んだことがあります。
それは、医者とか大組織とか権威とかがあてにならないどころか、それらが事態を悪化させ、それでいて開き直るということがある、という事です。

お互い、死ぬのは、何か本当に素晴らしいものをつかんでからにしたいですね。
2013年01月04日 (金) 14時41分 No.2125
simauma様へ - eco
ご丁寧なお返事をいただき恐縮です。

私も表現が下手で少し誤解があったようで申し訳ありません。
私が言いたかったのは、1月4日のR様がsimauma様へ書かれている内容と同じです。

私が書いた「自分の容姿」の自分とは、自我としての自分ではなくて、
相手と「区別」した言葉の上での表現です。
その意味ではAとBで表現したほうがよかったかもしれませんね。

Aが容姿を嫌悪された時、
(Aを嫌悪した)Bを殴りつけたり蹴っ飛ばすのが
Bへの慈悲の表現とは思えないのです。

と書いたほうが適切でした。
(Aに誰が入っても、Bに誰が入っても同じです)

他にも私の最初の表現で
誤解させてしまっている方がいるかもしれませんので、
この場で訂正させていただきました。

言葉は難しいですね。 失礼いたしました。

幸せでありますように。
2013年01月05日 (土) 10時28分 No.2126
補足 - eco
仏陀の教えQ&A
http://www.j-theravada.net/qa/gimon100.html
の後半に、慈悲の瞑想について分かりやすく書かれていましたのでご参考までに。

慈悲の瞑想は、言葉は単純なのに深いですよね。

私もまだ隅々まで”心から”念ずることができていないのですが、
ひっかかる所には怒りが残っているんだなぁ、と気付かされます。
でも、ちょっと怒りが湧いた時など、繰り返すことで、怒りが和らぐのは実感しています。

労わりの言葉は
「私が幸せでありますように、私の悩み苦しみがなくなりますように…」を
日常生活の中で応用してみた感じです。気持ちは慈しみの気持ちで語りかける感じです。

たまに、仏教を始めてから、
家に入ってきた虫にやさしく語りかけるようになった、
という人がいらっしゃいますが、虫だけでなくて(生命としての)自己の身体にも
応用した感じです。

たこやきマンさんもおっしゃるとおり、自己の身体を客観視、
生物個体として見ている感覚に近いかもしれませんね。

私もやってみて、意外に今までこの身体を大切にできていなかったことに気付きました。
つい「自分のもの」だからいいや、っていい加減に扱っていた気がします。
食べ過ぎたり夜更かししたりしてしまった時は、以前ならばただ自己嫌悪でしたが、
今は身体に対して、負担かけちゃってごめんね、という気持ちになって
以前より自制しやすくなりました。(まだ完璧ではないですが…) 

とはいえ、これはあくまでも私流の取り入れ方なので、押し付けるつもりはないですよ。

いろいろお話したことを真剣に受け止めてくださってありがとうございます。
それぞれに合った訓練の入り方があると思うので、お互い焦らず進んでいけるといいですね。

たこやきマンさんの悩み苦しみがなくなって、幸福であるよう、心から祈っています。
2013年01月05日 (土) 10時28分 No.2127
R様 eco様 - simauma
ご指摘、ご返信ありがとうございました。

以前から自分の妄語癖については気づいておりまして、今年はなんとか改めようと思ったにもかかわらず、新年早々この始末です。
改めよう、改めようと思いながらも結局はそういうことが好きなんでしょうね、私。そのことによって自分のちっぽけなエゴを満足させているのでしょう。
そのようなエゴを理性で改善していくのが仏教の教えなのだと思います。

まだまだ勉強の途中です。度々ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、その都度、ご遠慮なくご指摘、ご批判いただければ幸いです。
ここはそういうことを通して成長させてもらう場でもあるでしょうから。

皆様が幸せでありますように。
2013年01月06日 (日) 19時44分 No.2128
ヒロさん、度重なるご返信に感謝します - たこやきマン
何度も気にかけて頂いて、本当にありがとうございます。

今は仏教哲学を学んだり、自分自身の内面と向き合っていく中で、たくさんの気付きや変化を感じてはいるのです。なので、まずは自分で探究できる内は、自力で色々と思索して、試してみたいと思っています。

ただ、どうしても自分じゃどうにもならないと感じたら、その時はきちんとカウンセリングを受けてみますので、ご安心ください(笑

>>どうしたら罪悪感を感じないで生きていけるのかという方向へ持って行く

私もこれに尽きると思っています。
まずは、論理的に自分の存在の正当性を納得し、それからそれを心から受け入れる。という手順になると思います。
現在、論理的な部分における存在の正当性については、納得できてきました。
あとは、それを自分自身の心が受け入れるかどうか、と言う段階に至っています。

ですが、理屈と感情は別物でして、感情の方で納得するには、時間がまだかかりそうですね。
2013年01月06日 (日) 19時44分 No.2129
kouさん、再度のご返信ありがとうございます - たこやきマン
>>「この世をくまなく探してみても、自己より愛しいものは存在しない」

その通りだと思います。
私の場合は自分をどうしても愛せないからこそ、自分に無関心になる事で、心身を解離して、無感動無感覚の境地に逃避しようとしていた側面がある事を、最近感じ始めています。
それは無我の境地とは似て非なるものだと気付き始めています。

また、相対的な貢献としての自殺という発想も、自己の非・存在欲に意義を付加する事で、自分の非・存在理由の正当化を図ろうとしていた側面はあるかもしれません。それは自己愛の発露とも言えますよね。

ただ、質問自体は、純粋に全体幸福を願っての発想だったのですよ。
物理的にも精神的にも経済的にも、何も人や社会のために貢献ができない。むしろ人を不快にさせるだけなら、意義の無いこの命を長らえさせるよりは、死んだ方が、生きて不快感をまき散らしたり、無駄に他の命を消費しないですむので、論理的には生き続ける事と比較して、相対的貢献と言えるのではないかと思ったのです。加えて、私には生きていたいという欲求もありませんから、誰もマイナスにはなりません。
あくまで論理的な話です。
……と、書いていて気づきました。私の質問の本質は、全体幸福というよりも、”全体利益”かもしれません。正しい慈悲の観点からの全体幸福ではなく、あくまで全体にとって感情的、欲望的な”世俗的な利益”になる、という表現の方が適切だと感じました。

これは、一つの発見かもしれません。

>>体が美しい、醜いということに仏教がまったく価値を置いていない、相手にもしていない

これは、理屈の上では納得しているので、自分自身の価値について悩む事はだいぶ減ってきました。

ただ、それでも現実に生きる事は、世俗的価値観と、それによって築かれた人間社会を認め、順応して生きるという事なので、周囲の人との関わりは、世俗的価値観を土台とします。
なので、人畜無害とはいかない私は、世俗的価値観を理解し、その中における客観的自己像をある程度自覚して、社会生活での立ち居振る舞いを定めなくてはいけないと思うのです。
そこに葛藤があるのですね。
世俗的な価値観から完全に脱却する事で、世俗的な影響力や配慮に鈍感になってしまう恐れがあるのです。

やはり、生きるという事は人と関わっていく事なので、私としても、関わる人にはできるだけ不快感を与えたくないと、純粋に思うのです。だから、自分に出来る精一杯の配慮をしたいと思うのです。
それで逆に気張り過ぎてしまって、完璧主義的な発想をもたらしているのではないかと、気付き始めています。

”自分自身も慈悲を注ぐ対象である”という事を意識する事が重要なカギになると、気付き始めています。
自分がストレスに感じない範囲で、その時々の精一杯をする。他人だけじゃなくて、自分にも他人にも公平である事を心掛けようと思いました。

……書いていると色々な考えが浮かぶので、文面が分かり辛かったらすみません。ですが、気付きも多いです。ありがとうございます。
2013年01月06日 (日) 19時44分 No.2130
Rさん,度重なるご返信に感謝します - たこやきマン
最近、ようやく慈悲の心を育てる事が、何よりも重要であると分かってきました。

そして、慈悲の心の一番最初の対象は、他の誰でもなく、まずは自分自身である事。自分に正しく慈悲を注げずに、他人を大切にするなど有り得ないと感じています。

今まで、私は無我である事と無関心である事を混同していました。私は自分の容姿や、人生、因縁というものを愛せない、受け入れられないから、自身に無関心になる事で心身を切り離そうとしていたことに、気付き始めています。
それは、自分を大切にする慈悲の心からは完全にかけ離れていました。

そして、慈悲の心で自分を愛する時、それは”私”という意識の囚われを離れて、客観的な人間として観察する事が重要である事も分かってきました。

つまり、適切な振る舞いとは、自他の区別をなくして、全てを平等に客観的に観察した時に見えてくるものだと分かってきました。

そして、他者への配慮を考えるなら、それは”私”自身にも向けられなければならない。”私”がストレスなく、安心していられる心の状態を作り上げる事も、”私”への配慮、慈悲であると、分かってきた気がします。
今までは、他人を優先し過ぎて、”私”を蔑ろにしてきたようです。
これが、最近の大きな発見です。

まだ理屈の上での理解なので、感情的な部分や実生活での適用は難しいですが、方向性ははっきりと見えてきた気がしています。

私の乱文に根気強くお付き合いくださって、本当にありがとうございます。
2013年01月06日 (日) 19時44分 No.2131
yoshioさん、ご返信ありがとうございます - たこやきマン
私は世界的にも珍しい皮膚疾患のようで、学術的にも明確な定義や名称、原因が定められていない奇病らしいです。
ですが、アトピー性皮膚炎の方々に比べれば、身体的苦痛はないので、その面では相当運が良いと言えます。
私の母方の親戚に、重いアトピーを苦に自殺してしまった人がいるので、アトピー性皮膚炎の辛さは、アトピー患者以外ではかなり理解をしているつもりです。

ですので、yoshioさんが歩まれてきた困難な人生の一端は、分かるような気がします。

>>医者とか大組織とか権威とかがあてにならないどころか、それらが事態を悪化させ、それでいて開き直るということがある

アトピーの患者さんは、大体一度は医者不信になるみたいですからね。しかも、未だに馬鹿の一つ覚えみたいに何年も延々とただステロイドを出し続ける医者もいるみたいですしね(悪夢

私の病気を暫定的に示してくれた先生も、大学病院のエリート先生じゃなくて、片田舎の自宅開業医のお爺さん先生でしたよ(笑

もちろん、権威にはそれなりの理由や功績があるから与えられるのでしょうけど、それが絶対的に優れているわけでも何でもない、というのは身に染みて感じました(笑

yoshioさんが皮膚疾患の苦しみに共感され、メッセージを下さった事、本当にうれしく思います。

>>お互い、死ぬのは、何か本当に素晴らしいものをつかんでからにしたいですね。

本当に、本当にそう思います。心の中の宝探しですね(笑
yoshioさん、心も体もお大事に!
2013年01月06日 (日) 19時44分 No.2132
ecoさん、幾度も重ねてのご返信に感謝します - たこやきマン

私は内観すればするほど、非・存在欲が根深い事に気付かされます。これは、”今すぐ何が何でも死にたい!”という激情では決してないのですが、”この容姿、この境遇でこれからも生きていきたいと思わない”という、明らかな自己否定的な我執に囚われているのを感じています。

理性では以前と比べて極めて落ち着いて納得して、自分を受け入れているのですよ。
でも、瞑想をして心の奥深くに至ると、根っこにおいて強烈な自己否定意識があって、心の底から自分の今生の幸せを望んでいないのをはっきりと感じるのです。

これが、私の中の大きな問題のようです。
本当に、理性ではかなり自分を落ち着いて自分を受け入れられているのですが……。

”身体的精神的経済的に、苦労ばかりの孤独な人生のどこに、幸せが有るのだろう? 運よく老後を迎えても、高齢独身でアパートで孤独死するのが目に見えているのに、何で苦労だけするんだ? 働くために生きているような人生で幸せって何だ? それならもういいじゃないか。”

っという思いが必ず巡ってきて、幸せのイメージや希望が湧いてこないのですね。

この、”幸せが分からない”、というのが、瞑想の妨げになっています。

自分を客観的に感じられる瞬間も何度か掴めてはいるのですが、慈悲の感覚、幸せの感覚が分からないので、どうにも虚無的な状態に近くなってしまうようです。

理屈や言葉では分かっても、心で分かっていないのが、非常にもどかしいですね。

慈悲や幸せを心で実感する”経験”そのものが、まずは必要な気がしてきました。大きな壁ですね。模索してみます。

もちろん、こんな事を書いてますが、絶対に死にませんよ? 目的を果たすまでは!(笑

私の質問疑問に、根気よくお付き合いくださって、ありがとうございました!
2013年01月06日 (日) 19時44分 No.2133
返信をありがとうございました - yoshio
 「ちょっと独りよがりな書込みだったかな…」とソワソワしておりましたが、たこやきマンさんにうれしく思ってもらえて、うれしくなりました!励ますつもりが逆に励まして頂けるとは、サプライズで一層うれしいです^^

 心と体、大事にします!!




 …と申したいのですが、2012年の札幌講演での、長老のお話が頭をよぎります。

 体を整えるためにヨガをしている人々の前で、長老はこのようなことを仰いました。

 「『体を良くするために心を良くする』というのは順序が違う。体は放っておいてください。『体はどうなっても良い。この心を何とかするんだ』というのが正しいです」

 佐藤健二先生のアトピー治療法も、「とにかくステロイド薬も保湿剤も、何も塗らずに放っておく」というもので、誰でも思いつきそうなものですが、実行は大変なんです。

 なぜかというと(ご存じの事とは思いますが)、薬をやめてしばらくの間、とにかく猛烈に体の調子が悪くなるからです。

 ずーっと不快な症状が続き、やっと改善の兆しがみられても、心と違い体は遅いから、治っていくスピードはものすごーくゆっくりです。

 それまでは、かゆいわ、ヒリつくわ、体中から臭い汁が吹き出るわ…そうすると、すぐ薬でごまかしたくなってしまうんです。そしてまた振り出し、永遠に治らない…と。




 皮膚疾患は外面に現れる病気ですが、同時に内面が蝕まれますよね。でもやっぱり仏教徒としての誇りをもって、『外面がどうなろうと、内面の慈悲喜捨だけは保ってみせるぞ』というのが真の勝利の道なのでしょうね。

 正直言って、病気については、たこやきマンさんの抱える悩みは、私のなんかよりずっと大きいと思います。こうなると私のアドバイスってあんまり役に立たないような気がします!(笑)

 でも、たこやきマンさんが、この大きな悩みを跳ね返せたら、それこそとっても大きなリターンが帰ってくるような…これは私の無責任な妄想ですが。

 今年も、今の瞬間も、生きとし生けるものが幸せでありますように!
2013年01月09日 (水) 14時09分 No.2134
yoshioさん、ご返信ありがとうござます - たこやきマン
>>『体を良くするために心を良くする』というのは順序が違う。体は放っておいてください。『体はどうなっても良い。この心を何とかするんだ』というのが正しいです

そう思います。
こんな身の上だからこそ良く分かりますが、身体と言うのは物理的なものですから、遺伝子や病気や事故で幾らでも欠損したり醜くなったり、手に負えなくなったりしてしまいます。本人の努力ではどうにもならないのですものね。
だから、肉体を整えて精神を整えようとするのは、限界がある。出来る人は健康な肉体、満足する肉体に依存しているから出来るだけ。出来ない人は、何に依存するでもなく、直接的に心を整える練習をするしかない。順序的には必然でしょう。

>>「とにかくステロイド薬も保湿剤も、何も塗らずに放っておく」

コレ、本当に地獄みたいですね。
しかも、それまで蓄積してきたステロイド量や、その人の肉体的な浄化能力、身を置く環境、精神的なストレス度合などがカギになりますから、一概に”いついつまで我慢すれば大丈夫ですよ”といった目途が立たない。先の見えない生き地獄に突入するようなものですよね。

”先が見えない事だけは、はっきりと見えている”

こういう状態が一番苦しいのですよね、人間というものは。

だから、今この瞬間に集中して生きるという事が大事なのでしょう。

過去に執着しない事はもちろんですが、未来をあれこれ考えると、不安や恐怖ばかりが募ります。なので、人生に必要なやるべき事は何か決めたら、もう未来を考えず、今に集中して淡々と実行し続けるだけ。

それが、不安や恐怖を克服するカギだと感じてきました。

考えなくていいことは考えない。本当に必要な事は、必要になれば自然と考えざるを得なくなります。なので、その時々になってから考ええればいいや、と最近は感じています。

yoshioさんの場合、脱ステするかしないか、アトピーが改善するかしないかという事に囚われるよりも、その時々の選択をしたら、後は淡々と実行し、それをベストと思う様になさってみてはどうでしょう?

再ステしても、それはその時に必要な事だったのだから、ベスト! 悪化したように感じても、治そうとしているのだから、これが現状ではベストなんだ! と考える。

治そう、こうなりたい、と思い描く”結果”や”理想”と比べて、一喜一憂してしまわず、”方向性”だけ意識して、後は自分の判断を、その時々のベストだと考えていけば、良いのではないでしょうか?
実際、脱ステ期間や減ステ期間があるだけでも、それは確実に体にとってはプラスなのですから。

私も、慈悲の心を育て、大切なモノを見つけてから死にたいと思っていますが、同時にダメならダメでいいや、と半分あきらめてもいます。そうすると、肩の力を抜きながら適切に頑張れる感じがしています。

また、(ここで言うと怒られそうですが)自殺しちゃ絶対ダメ! と自戒するつもりもありません。どうしようもなくなったら自殺すれば良いや。ただ、今はそうじゃないから、出来る事しよう! それで何か良いモノ見つかったらラッキー! ってな感じです。

>>たこやきマンさんの抱える悩みは、私のなんかよりずっと大きいと思います。

違いは無いと思います。私もyoshioさんも、そして自殺したいほど苦しんでいる、世界中の人達も。
心が苦しみを生み出している、まさにこれが真実だと最近は感じます。

出来る事は、世俗の価値観から脱しつつ、世俗で生きる以上、そこに出来る範囲で順応して、自分が生き易いように生きる方法を模索する。それだけだと分かってきました。

と、相談者の私が、偉そうに助言してしまいましたが(笑)、心の安定は、全ての基盤だと分かってきました。yoshioさんも、自身の心が楽になる事を最優先にして良いと思いますよ。気張らず、理屈も抜きにして、ホッと一息つける感覚こそが自分への慈悲の第一歩だと、私は感じてきました。

生きとし生けるものが幸せでありますように!!
2013年01月11日 (金) 15時06分 No.2135
赤染衛門さんへ - いづる
だったらそんな疑問、というか妄想もお叩きになったらいかがでしょうか?笑
どうぞお幸せに。
2013年01月15日 (火) 11時29分 No.2140
再度の返信ありがとうございます - yoshio
たこやきマンさん、再度の返信をありがとうございます!


実は私は、昨年10月末から上述の佐藤健二先生の本に従った治療を行い(治療といっても放っておくだけですが)、最近かなり完治に近い状態にまでなってきたんです。

たこやきマンさんの投稿をみて即返信させてもらったのは、約2か月間、そういう生き地獄の片鱗とでもいうべき体験をした直後だったので、勝手に運命的なものを感じたためです^^

私の場合ラッキーだったのは、佐藤健二先生がステロイドによる皮膚の病変や治癒過程について、詳細にデータを蓄積・まとめて下さっていたことです。「やめたあとはああなって、こうなって…」という情報に触れられたことは治療中の心の支えになりました。

といっても、「みんなはそうだったけど私だけそうならなかった」となる可能性もあったのだから、ある意味私はまやかしを心の支えにしていた、と言えなくもないのでしょうが…


それと、さらに申し上げますと、
「病気については気にしないこと。大切なことは、心に慈悲喜捨を、どこまでも大きく、強く、育てることです」
といったようなことを上述致しましたが、これ、私がテーラワーダの御坊様に伺ったことの受け売りでした!!(笑)

ただ、生き地獄体験の最中は、この言葉も何度も何度も思い出し、心の支えにしていました。だから、こういった智慧の言葉だけは、たこやきマンさんに伝えたほうがいいに違いない、と、私は思ったのでした。



>>心が苦しみを生み出している、まさにこれが真実だと最近は感じます。

「病気が苦しみの原因ではない。病気を苦しみの原因であると決めつけている心こそが、苦しみの原因である」ということでしょうか?うーん、まるで長老も仰いそうな、智慧の香りがするお言葉ですね。しかし、智慧の薄かろう私には、いまいちピンとこない…><私は修行が足りないです!


なんだか、たこやきマンさんの投稿に乗じて自分のことを好き勝手書いていただけのような気がしますが、最後にもう一つだけ書かせてください。

お暇ができましたら一度、たこやきマンさんも、ゴータミー精舎等、御坊様の集まられる所に、お伺いなさることをお薦めします。直接御坊様とお話させていただけると、やはり気持ちが変わりますよ。私の場合は、今思い出しても気持ちが明るくなる、素晴らしい思い出になっています。



アドバイスありがとうございました。生きとし生けるものが幸せでありますように!
2013年01月18日 (金) 14時42分 No.2151
yoshioさんへ - たこやきマン
>>>>心が苦しみを生み出している、まさにこれが真実だと最近は感じます。

自己観察した私の感覚の説明になりますが、例えば……
殴られた ⇒ 痛い ⇒ 辛い・嫌だ・苦しい

と言う風に、意識が、現象としての真実から、感情や思考を想起するまで、認識の段階があるのだという事です。

殴られた ⇒ 痛い までは真実ですが、それを苦しい! と思うのは、感情による判別です。なので、この感情や思考による反応をしない事が、苦しみを生まないカギなのだと分かってきました。

これが、”あるがまま観る”というヴィパッサナー瞑想の意味なのではないかと感じてきました。
そのために無我になります。無我であれば、
主観的な感情や思考が一切発生しません。

なので、解脱=無我=ヴィパッサナー瞑想というのは、論理的は完全に正しいと分かってきたのです。

>>「病気については気にしないこと。大切なことは、心に慈悲喜捨を、どこまでも大きく、強く、育てることです」

どこまで行っても、清らかな心が大事という事ですね。精進します!

>>最近かなり完治に近い状態にまでなってきたんです。

この言葉を見て、安心しました(笑 
嬉しい年始になって本当に良かったですね!

生きとし生けるものが幸せでありますように!
2013年01月23日 (水) 20時13分 No.2155


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