日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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自責の念を解消するには - eco
仏教に出会う前のことですが、
仲良しだと思っていた友達とうまく行かなくなったことがあります。

具体的には、
相手の困りごとの相談にのっていた時は、頻繁にメールが来て、返信も必ずあったたのに、
相手の困りごとが解消したら、メールの返事も来なくなったり、約束をすっぽかされたりして、
結果的に疎遠になってしまいました。

こうなった理由が分からなくて、ショックでいろいろ考えました。

①私は困った時だけの都合のいい人で、使い捨てにされたのだろうか

②友達に頼られることを嬉しく思って、私に慢の心(優越感)が出てしまい、
 どこかで相手を不愉快にさせたのではないか

だいたいこの2つが思い浮かびます。

今思うと、相手は善友かぶりだったのかもしれませんし、
②については、私も善友かぶりだったと思います。

このため、私の中に自責の念が残っており、
自分の過ちを相手に謝罪したほうがよかったのではないか、と今でも後悔することがあります。

ただ、今更謝罪をしたとしても、お互いハッピーになれるかどうか分からず、謝罪はしていません。

「原因は分からない」のだから、
①も②もそもそも私の妄想で、自責の念を起こすこと自体がおかしいのでしょうか?

でも、自責の念が苦として残っています。

こうした自責の念はどうしたら解消されますか?

慈悲の瞑想やヴィパッサナーを行い続けることで少しずつ解消されるものなのか、
そもそも妄想で自責の念を持つこと自体が間違っているのか、
客観的なご意見をいただけると助かります。
2012年11月02日 (金) 13時35分 No.2013
こんにちは - むいむい
相手に直接聞けない以上は①の可能性もあるでしょうし②の可能性もあるでしょうし、あるいは③④⑤…と思いつく限りの可能性が出てくるでしょう。
気になるのなら相手に直接聞くしか解消法はありませんが、気にしないようにするならいずれは解消します。そもそも、その悩み事はいつ生じたのでしょうか。毎日ずっと思っていることではありませんよね? おそらく何かのキッカケ(五感による刺激)で、頭の思考回路がその悩みへ連結してしまったのだと思われます。サティを入れるタイミングはそこです。

これは私の推測ですが、相手の人も同じで何かのキッカケが生じるまでそのことを思い出さないと思います。ましてや人の思考というか生物の思考は勝手なもので、たいていの場合は、
A・自分のわがままが通ること
B・自分の価値を下げないこと
を考えるのが精一杯ですから、他人のことを考えている暇はありません。いやいや、ある人はずっと他人の文句ばかり言ってるよ、と思われるかもしれませんが、それは他人の文句を言うことで「自分」が優越感に浸って価値を維持したいだけなのです。そのためそれほど真剣に他人は見ていません。見ているのは他人を通り越した自分の我です。まあそのことに気づかないから争いがおこるのですけど。

仮にその人があなたに対して怒っていたとしても、あなた自身が悪意のある対応をしていなければ大丈夫でしょう。なぜなら怒っている理由は「自分」の思う反応が得られなかったせいなのですから、悪意のない対応をしていたにも関わらずそのような考えを抱くならば相手に問題があります。
それでも気になるというのなら、おそらくは悪く見られることで「自分」の価値が下がることが気になるからではないでしょうか。

よく観察してみてください。

①私は困った時だけの都合のいい人で、使い捨てにされたのだろうか
これは使い捨てにされて自分の価値が下がったように思うから気になるわけです。

②友達に頼られることを嬉しく思って、私に慢の心(優越感)が出てしまい、どこかで相手を不愉快にさせたのではないか
これは相手が自分の思うような反応をしなかったために気になるわけです。

こんなこと言い出したらどれもそうじゃん、と思われかもしれませんが、これが面白いことにどれもそうなのです。
ほとんどがAかBでできています。いわゆる我というやつです。

仮に使い捨てにされたとしても、すべての人に対して使い捨てにされるわけではありません。ある人にとっては必要とされます。また相手も人間なのですから思うような反応をしないのは当然のことです。本人ですら自分の心を思うようにできないのに、他人がどうこうできると思うのは都合が良すぎる話です。
だからこそ、相手に対して悪意のある対応をしていなければ、あとは相手に任せて気にしないにようにしていた方がいいのです。いくら気にしても結局は自分の保身のための思考にしかなりませんから。仏教的にも後悔はよくない考えに位置づけられていたと思います。

私もたまに、話している人がムスっとしていると何か気にさわることでもしたかなと思うことはありますが、自分が普通の態度であったなら気にしないようにしています。たいていの場合は次に会うとき普通に戻っています。良くも悪くも思考は一過性なのです。

悩み苦しみがなくなりますように。
余談ですが、上記のような考え方は、「仏教対人心理学読本:小池龍之介著」におもしろおかしく書かれていますので、興味がおありでしたら一読をお勧めします。
2012年11月05日 (月) 15時38分 No.2016
eco様 - kou
正直私は友人の相談にのるという経験がまずない人間でして・・・
なのであまり友人関係というものに立ち入らない視点で考えてさせてください。


まず慈悲の瞑想やヴィパッサナーを行い続けることで少しずつ解消されるものなのか、の答えはYESでしょう。
自責、とはつまり自己に対する怒りなので、怒りの特効薬である慈悲や煩悩そのものを攻撃するヴィパッサナーは効果があると思います。

ただまあ瞑想で自責が消えるまで待つのも苦しいので、私ならこうして応急処置するなぁという考えを述べたいと思います。


①私は困った時だけの都合のいい人で、使い捨てにされたのだろうか

質問の内容からして、「成功する生き方」を読まれたのだろうと思います。
(これの元になった本は私が仏教に入ったきっかけになった本なので、読んでもらえて嬉しいです)

ならば善友、悪友のチェックリストが手元にあると言えるわけで、照らし合わせてどちらかと判定できます。
それで悪友と判定できればそのまま離れればよし、どちらとも言えなければ保留にしておけばいいかと思います。

とは言ってもなかなか切れないのが「悪友」なんですけどね!
自分も悪友のカテゴリに入る友人がいますが、最も親しい友人がその人だったり・・・


②友達に頼られることを嬉しく思って、私に慢の心(優越感)が出てしまい、
 どこかで相手を不愉快にさせたのではないか

ここは「慢の心が原因で失敗したこと」と「失敗したことを後悔していること」に分けたほうがいいと思いました。
失敗したことはもう結果で変えられませんから、とりあえず置いておきます。

私も相手を傷つけたかなぁと不安になることはしょっちゅうですが、私の場合は自分が失敗するのが嫌で怖いんですね。
失敗して自分を能力のない人間だと認めることになるのがたまらなく怖く、失敗をなかったことにしたいと妄想してしまう。
そうなるとまあ頭の中は妄想でぐるぐるで。

で、そんなときに自分がよく使う方法なのですが、「~~したら(してたら)どうしよう」ではなく「まあ~~するでしょう」と考えると、すーっと不安な気持ちが消えます。

eco様の状況でいうなら「傷つけていたらどうしよう」ではなく、「まあ傷つけたでしょう」と考えることです。

客観的にみれば、自分程度の能力で「絶対失敗しないようにしよう」とかバカな話ですからね。
むしろ成功1に対して失敗は100とかが現実です。
そうやって非現実な妄想から頭を離すと、恐怖が消えてくれるわけです。

これ地震のこととか考えて怖くなった場合でも「死んだらどうしよう」ではなく「まあ死ぬでしょう」と考えれば効くので、妄想に捕まっちゃったときには個人的に薦めたい技です。


なにか参考になれば幸いです。
幸福でありますように。
2012年11月05日 (月) 15時38分 No.2018
あべこべ - 迷い犬
>こうした自責の念はどうしたら解消されますか?

自責の念というと責任感のあるイメージがしますが、自責の念は仕事中や運転中などにも確実に邪魔をしてきます。
それが分かれば、無責任な責任感・・・あべこべなんだと・・・
それがわかるためには、サティですよね。

あべこべだと分かると自然と直そうとしますので解消します。
2012年11月05日 (月) 15時38分 No.2020
むいむい様へ - eco
詳しく解説していただきありがとうございます。
ご紹介いただいた本は、今度読んでみます。

悩み事が生じたのは、困りごとが解決した1年ほど前から徐々にです。
最初はあまり気にしてませんでしたが、半年ほど前に
完全に相手から返事が来なくなったのが決定打でした。

この時は仏教に出会う前だったので「慢」などの言葉は知りませんでしたが、
意識の上では、①と②の思いを、行ったり来たりするようになりました。

そんな中、仏教に出会って、自分の行動を仏教に照らし合わせていくことで、
自分の過去の間違いもはっきり感じるようになってきました。

もう少し詳しく書くと、
私の意識上、悪意があった訳では決してないのですが、

・相談にのっていた時、100%相手のためではなく、「友達でいたい」という自分のため、
 「友達に自分の価値を認めてほしい」というエゴが混じっていたこと。

・無明ゆえに 良かれと思ってアドバイスしたつもりが、
 真実相手を救うものにはならず、私の独りよがりだったのではないか、と思うこと。

 これは、例えば相手に「自信を持ってね!」などという言葉を良かれと思って言っても、
 仏教的に考えると、良くなかったのではないか、
 かえって彼女の困りごとへの怒りを助長してしまったのではないか、ということです。

しかし、こうした後悔・自責の念も、エゴゆえに考えるということですよね。

そもそも悩み(過去のこと)を考えようとした時点でそれがエゴであるから、
そのエゴに囚われないように気付き、考えないようにするのが正しい方向と思ってよいでしょうか。

しかしうっかり悩みを考えてしまって、
過去の自分に悪意はなかったにしても、無意識にエゴだったり、無明だったりして
適切な対応が取れなかったことに、後から気付いた時は、

 過去のことを「ああ、私はエゴで行動したのだ」と気付いたら流す、
 それ以上考えるのはエゴだから、それ以上考えない。

という解釈で合っているでしょうか?

もしよろしければ、ご回答いただけると助かります。
2012年11月07日 (水) 19時16分 No.2022
kou様へ - eco
応急処置の方法をありがとうございます。
(以前、紹介していただいた「成功する生き方」も読みました)

今回相談した友達は、現時点では音沙汰なく、すでに縁が切れてしまったような状態です。

「成功する生き方」に載っている、分かりやすい悪友ではないものの、
友達は善友かぶりの項目にいくつか当てはまっていました。

しかし付き合っている当時は用心すべき善友かぶりだとは気付きませんでした。

とはいえ、私自身もエゴがあって、100%善友になれてないと思うので、お互い様なんだと思います。
お互いに無明ゆえの行動だとも思い、このまま疎遠でいいのかなと迷った次第です。
友達なら縁を切らずに、一緒に成長できるようにこちらから声をかけるべきではないかと思ったりもします。

しかし私が自分のエゴを謝罪したとしても、相手は怪訝に思うだけのような気がしますし、
お互いに許し合って、また仲良くなりたいというのも自分のエゴなのでしょうし、
今更、覆水盆に返らずな気がするので、せめて慈悲の瞑想で彼女の幸せも祈ろうと思います。
(でもそう思って謝罪を避けるのがエゴなのかもしれませんが…)

それにしても、実際、私の友達のほとんどが善友かぶりなんではないかと思うくらいです。
もちろん自分だってエゴの塊で、他人のこと言えないのですが。
近付き過ぎず、ほどほどにお付き合いするしかないのかなと思うようになりました。

でも、一番強力で長い付き合いの悪友は、自分の中のエゴなのかもしれません。

kou様の実践されている応急処置で、「~したでしょう」というのは、
例えば「私はエゴで行動したでしょう」と気付いた所で止める、という風に解釈しました。
どうしても不安な事を考えてしまったら、「まあ~したでしょう」と淡々と捉えて、
今なすべきことに戻る努力をしたいと思います。
(間違っていたらご指摘ください)
2012年11月07日 (水) 19時16分 No.2023
迷い犬様へ - eco
ご指摘、ありがとうございます。
確かにその通りですね。
自責の念に囚われている時は、その時点を生きていないので、いいことではないですよね。
ヴィパッサナー、心がけます。
2012年11月07日 (水) 19時16分 No.2024
勇気 - 慈悲と智慧 MAIL
人間関係は、相手あってのことですし。

これからも似たような事は起こると思います。

基本的に自責の念に襲われたら、妄想ですから、「妄想」と確認して、普段から慈悲の瞑想を習慣にすることです。

きついことを言うようですが、この程度のことで自責の念で困ってしまうなら未だ未だ、修行が足りないと思います。

今日、中国の吹雪で唯一人助かった人が、報道陣の前で、体調の悪い中、懸命に謝っていました。

彼女は、これからどれだけ自責の念にかられるでしょうか?

でもこれは、世界中でほんの一例ですよ。
世の中、想像以上の自責の念にかられている人がたくさんいます。

kouさんは、実況中継というものを知ることが、出来たのです。
お釈迦様は、気づき以上にこころを治すものは、ないとまで言われたのです。
本当に恵まれているのです。
勇気をもって目の前の一瞬一瞬にサティをいれることだと思います。

幸せでありますように



2012年11月07日 (水) 19時16分 No.2025
訂正 - 慈悲と智慧 MAIL
もしかすると上記投稿で、名前を間違っているかもしれません。
eco1様みに対してのメッセージです。

お詫びと共に訂正です。
2012年11月07日 (水) 19時16分 No.2026
こんにちは - むいむい
まずはじめに、横レス的な流れとなりますがKouさまにお礼を。
「まあ~~するでしょう」という考えはとても良いですね。私もそれを読んでから都度使わせて頂いてます。ストレスは自分の妄想と実際の現実とのギャップの違いにより生まれると聞きます。それだけに、この方法は実際の現実を率直に認めるため、とても有意義だと思いました。感謝いたします。以下の文面で使用させて頂きますのでご了承ください。

ecoさまへ

>そもそも悩み(過去のこと)を考えようとした時点でそれがエゴであるから、
>そのエゴに囚われないように気付き、考えないようにするのが正しい方向と思ってよいでしょうか。
>過去のことを「ああ、私はエゴで行動したのだ」と気付いたら流す、
>それ以上考えるのはエゴだから、それ以上考えない。

おおむねその方法で良いと思います。ですが他の方への返信などを読んでいると、どうも重く考えてしまっているように見受けられます。
おそらくですが、仏教と出会ったことにより自分の心の状態を知ってしまい、ショックを受けているのではないでしょうか。
私がそうだったのですが、初めの頃は自分が嫌になって仕方ありませんでした。なんといっても気づく心のほとんどが欲と怒りですからね。
なんだこれはと。おれ最低すぎなんじゃあないかと。こんなことなら知らないでいた方が良かったと。
一時はそう思っていましたが、ここが脳の欠点というか利点というか、そういった刺激にもやがては慣れてくるんですね。
何かの本に、「サティを入れていると自分が欲の塊ということに気づいて嫌になるのですが」という質問に対して「みんなそんなものですよ」という答えだったのを見て安心したものです。

ですから、それほど深くエゴだエゴだと考えない方がいいです。考えるのではなく気づくのです。思うのではなく感じるのです。
悟りには4段階あって、煩悩が完全に消えてなくなるのは最終段階(阿羅漢というクラス)に達しないと無理だそうです。これは逆に言うと、3段階までは欲はどうしても消えないということではないでしょうか。
私も最初の返信で、さも偉そうに心の働きはこうだからこうすればいいですなんて言ってますけど、私自身がそれを完璧に実行できいるわけではありません。
実際、知人と世間話をしていると、自分が大した興味もないのに「すごいですね」とか「それは面白そうですね」とか言ったりしています。仕方ないじゃないですか、そういう社会ですから。正直に「いやそれは興味ないですからこれにて御免」なんて言ったら場の空気がフリーズしてしまいますよ(笑。

世間との繋がりを考えたらエゴというか、ある程度の繕いは必要だと思います。悟りのクラスでも3段目までは普通に暮らせるけど、最終までに達するともう出家しないと生活できないと言われています。欲がないのだから、普通の生活はできないみたいです。
だから普通に生活しているうちは、「まあそんなものでしょう」と割りきって、自分は自分で精進して心を作っていくようにすればよいのではないでしょうか。

心は空で思考はその下を流れていく雲だとか、心は家で思考はそこを訪れる人だとか、心は湖で思考はそれに溶け込んでいる成分だとか、宇宙の一点に心があって思考はそこを通り過ぎていく漂流物にすぎないとか、いろいろな例えがあります。
大事なのは、そういった一過性のものに心そのものを占拠されるのではなく、いま考えている思考に気がついてさっと流すことだと思います。
よくない人が家にずっといたら嫌じゃないですか。それと同じです。思考なんて「いらっしゃい、そしてさようなら」といった感じでいいと思います。
そしてその思考(雲や人や成分や漂流物)に対して「あ、いま嫌だと思っていた」とか「いま楽しんでいた」とか気づいて、その気づきがたとえエゴの塊であったとしても、「まあ今のところ、私の心はこんなものでしょう」と思って日々心を強くしていけば良いのではないでしょうか。

こう書くと、理屈ではわかるけど実行するのは難しいと思われるかもしれません。これは当然の話です。
心を操作する仏道は、一見すると考え方さえ直せばできるから楽だと思うかもしれませんが、実のところ武道のように日々鍛錬しないと難しいものがあります。
鍛錬して鍛錬してはじめて技がなせるように、歩く瞑想や座る瞑想などをしてはじめて気づく力(念力)や定める力(定力)などが発揮できるようになるみたいです。
私もようやく、思考と心は別物っぽいなということを薄々ながら体験しはじめました。こうなると今まで読んできた本を読み返すと面白くなってきます。
ですから時間さえあれば瞑想などをして念力や定力を強化することを強くお勧めします。

私もまだまだ修行中であるだけに偉そうなことは言えませんが、あまり深く考えず、気楽に、楽しむように仏道を学んでいった方がいろいろな面で良いと思います。

幸せでありますように。
2012年11月08日 (木) 13時30分 No.2027
慈悲と智慧様へ - eco
ありがとうございます。

仏教に出会う前は、反省するのはいいことだと思っていました。

しかし仏教に出会ってから、反省に限らず
いいことをしていたつもりが、実は間違っていたんじゃないか、みたいな価値観の逆転が多くて、
自分の判断に自信が持てなくなって、質問させていただきました。

皆様の回答を読んでいるうちに、
そもそも仲良しと思っていた時も私の美化した妄想で付き合っていたのだろうし、
期待外れの結果になった原因を探そうとするのも、私のエゴだと気付かされました。

自分の妄想で勝手に期待して、現実が妄想どおりでなかったからといって、
ショックを受けて、さらに、妄想と現実の辻褄を合わせようとしているのがナンセンスですね。

おっしゃる通り、お釈迦様の教えに出会えたのは幸いでした。

私はまだ自分で自分に気付けないレベルですが、
実況中継がいかに大切かがよく分かりました。
2012年11月09日 (金) 15時30分 No.2028
むいむい様へ - eco
ご回答ありがとうございます。

ご指摘のとおり、本当に自分の行動のもろもろの動機がエゴでしかないように見えて、
自分が嫌というか、自分がはずかしくなった感じです。
それで、過去の過ちを謝罪したくなってしまいました。

むいむい様も初めの頃は自己嫌悪されたとのことですが、みなさん通る道なのですね。

阿羅漢のレベルまで行かないとなんらかの欲が存在するということは、
私ごときは欲だらけで当たり前ですね(苦笑)
自分が正しい判断で自責できるレベルでもなかった、と思ったら楽になりました。

思考はそんなものだと思って気付くに留める、
また浮かんで来たら「いらっしゃい、さようなら」と流してみます。

流れていく雲、訪れてくる人、漂流物。 思考とはそんなものなんですね。
どんどん変化するのだから、そんな不確かなものを基準にしてはいけないということですね。

これまで私は誤解していたようなのですが、
思考≒理性 
心・感情≒欲・エゴ なのかなと思っていました。

でもそうではなくて
どちらかというと、気付き&慈悲≒理性 
思考は理性に支配される時と、エゴに支配される時があり、
凡人はすぐエゴに支配されてしまう。
心・感情は、その結果起きる反応、ということなのかなと読んでいて思いました。

おかげさまで頭の中を整理することができました。
正しい判断ができるようになるためにも、気付きと慈悲を育てる必要性を改めて感じました。
考えすぎず、楽しみながら仏教を学んでいきたいと思います。
2012年11月09日 (金) 15時30分 No.2029


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