日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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因果応報と不倫についての質問です。 - プリン君
こんにちは!
いつも参考にしております!

素朴な疑問なのですが、
質問させて頂ければと思います。

現在、
瞑想をやっているのですが、
それにより、
物事には必ず原因がある。かゆみをかくのような。
瞬間瞬間には原因と結果の連続であるという事が実感として少し感じる事ができるようになってきました。不満と問題解決の連続というか。

ただ、
疑問に思ったのは不倫などです。
やった事は返ってくると言う言葉が昔からあります。
確かに、
略奪婚をする人は、
後になって、される側になる人が多い。
これは、不倫するような男性を選んだからという事が原因かもしれません。
ただ、
自分の欲の為に、手段を選ばず、悲しい目にあわせた人達がいるという罰というものもあるのか疑問に思いました。


因果応報は、
原因と結果というどちらかというと科学的な考え方だけでなく、
天罰などという神秘主義的な考え方も因果応報には含まれているのでしょうか?
2012年06月19日 (火) 12時38分 No.1760
因果法則 - R
一般的な日本語としては、天罰めいた意味合いで使用されることもあるでしょうが、仏教においては単に、原因があって結果があるという法則(因果法則)という意味だと思います。
さて、不倫についてですが、いざ不倫相手と再婚した途端、早いときには元配偶者との離婚が成立した途端に、やや冷めてしまったなどという話を聞くと、不倫をする心理として、「相手に不道徳なことをさせるほど、自分は求められている魅力的な存在である」という「慢」が、多かれ少なかれ、あるように思えてしまいます。(相手が既婚者と知らずに付き合っていて、且つ自らには他にパートナーがいない場合は話が別です。)
そうすると、いくら口では「配偶者や子供に申し訳ない」と言っていても、そうした関係者の犠牲こそが、自分の価値を証明すること(本当はそんなことはないのですが)になり、いわば故意に他者を苦しめているようなものですから、悪結果は生じるでしょう。
浮気をする人や既婚者とお付き合いをする人は、それらの行為を繰り返すことが多いと言われていますので、プリン君さんの仰せのとおり、結果、自分が同じ目にあうこともあるかと思います。
しかし、考え方や行動を改めることもあるでしょうし、過去の善業に助けられることもあるかもしれませんから、いつ、どのような形で結果がでるかは、わからないと思います。
ちなみに、昔は離婚のハードルが高く、浮気されても泣き寝入りというパターンが多かったでしょうが、現代では配偶者の権利も格段に確立され、離婚についての意識も変わってきましたから、有責者に対する慰謝料請求や、場合によっては社会的な制裁等という形で、早々に悪結果が出やすい世の中ですね。

私も自分の行いを省みると、プリン君さんの仰せのように、生きるとは不満と問題解決の連続に終始すると思います。
すべての欲は、所詮、苦しみを回避するためだけのものと感じます。
不倫をする人も、不満の解決(には実際のところ、なっていないのですが)策として、不倫という悪行為をしてしまうのだと、私は思っています。
2012年06月20日 (水) 11時58分 No.1762
プリン君へ - いづる
>因果応報は、
原因と結果というどちらかというと科学的な考え方だけでなく、
天罰などという神秘主義的な考え方も因果応報には含まれているのでしょうか?

ということで、仏教の考え方をご紹介します。
スマナサーラ長老の『Power up Your Life』より抜粋させて頂きます。

すべての結果は偶然ではない
 我々が「カルマ(業)」として扱う生命に対する法則は、普通の科学的な思考や、普通の物理的な説明だけではどうにもならない、理解できないところだと思います。しかし、カルマ論は完全に論理的です。確実にある働きです。にもかかわらず、普通の知識ではまったく説明がつかないのです。
 身長が170㎝の人について、背骨が何㎝、脚の長さが何㎝と物理的に説明することはできても、「どうして170㎝なの?」という問いには答えられません。
 ガンはDNAが原因で起こるといわれています。そのDNAを入れ替えれば、ガンの発生を抑えることができると考えられています。まだ実用できる段階までは進んでいない領域ですが、現代は身体に起こることのほとんどはDNAの解読で説明できると思っている時代です。しかし、肝心の「どうして私にガンになるDNAが入ったのか?」と聞かれると説明できません。
 長男は頭が悪くて体力だけはあり、次男の頭は見事によいが、身体は弱い、というようなケースがあるとしましょう。遺伝子を解読して、その原因になった遺伝子を発見したとしましょう。しかし、私はそれでも説明が足りないと思っています。なぜ一人の遺伝子は体力がつくように組み合わされていて、もう一人の場合は虚弱になるような遺伝子の組み合わせが起きたのでしょうか?説明がつかないところにぶつかると、知識人が持ち出す虎の巻は「偶然」という概念です。「それ以上は神のみぞ知る領域だ」と言う科学者もいますが、そのような子供だましの話を聞くと、笑わずにはいられません。
 偶然になにかが起きるなら、科学の説明は要りません。その言葉で、科学者は自ら科学を否定しています。偶然というのも「あるえる確実な条件」であるならば、この世はどうなるのか心配でたまりません。偶然がありえるなら、突然人の頭から角が伸びたり、背中から翼が生えたりするかもしれません。
「そこまではわからない」「そこまでは研究されていない」「そこまでは研究できない」などと答えるべきですが、この理性的な答えが、なかなか出てこないのです。説明できないことに出会うと非科学的で非合理的な「偶然」という概念を持ち出して、愚者は逃げるのです。
「偶然」は我々が日常生活の中でもよく使う言葉です。「すべては神様が知っている」というのも愚者の逃げです。神様が知っていたとしても我々には関係ないし、私たちの疑問の答えにはなりません。「どこかの国の誰かがご飯を食べて満腹ですから、あなたは食べなくてもよい」というような話です。偶然(coincidence,accident,chance)という言葉は日常生活では避けて通れないものですが、偶然というのは、厳密には成り立たないのです。何事もちゃんと原因があって起こるのです。
 例えば、偶然頭上にあるライトが花束になったらすごいですが、そうはなりませんね。ただ、もしかするとライトが突然爆発するかもしれません。ボーンと音を立ててガラスが割れるかもしれません。これは偶然ですか?偶然ではありません。
「他のライトはそのままあるのに、なぜこれだけが爆発したのか?やっぱり偶然だ。今までは爆発したことなんかなかったんだから」と言う人がいたら、それは無知な考えです。以前からひびが入っていたか、老朽化していたか、なんらかの「原因」があったのです。「偶然」にはものごとは措きません。「原因」があって起こるのです。
 雷が鳴って、一つの電化製品だけが壊れたとします。その人は「雷が電線に入ったならば、すべての電化製品が壊れるはずだ。なぜこれだけが?これは偶然だ」と思ったとします。しかし、それも偶然ではありません。
 雷が電気系統に入ったら、すべての電気製品が壊れるはずだと思った推測が問題です。その推測に根拠がなく、現実が適合しなかっただけです。自分には説明できなかったので、「偶然」という万能薬を使って納得するのです。
 原因がなくてはなんの現象も起こらないというのが仏教の立場です。人間はすべての原因をわかていないということも当然です。わからない原因を探し出すことは、人間特有の能力でもありませう。これは進歩、発展と言えるものです。しかし、すべてをわかることはありえないし、理解できないものもあります。実は私たちが知っているものより、知らないものの方が比較的ないほど巨大なのです。
「原因はさっぱりわかりません」と認めることは人間として悔しいです。だkら、人間は未知の世界にチャレンジするのです。それは進歩の原動力です。原因が分からないからといって、「偶然」という無知のウイルスをばらまくと人間の発展は止まるのです。
 カルマとはなんなのかというと、科学的にはまったく説明のつかない領域の、因果法則を語ることです。世界は物質のみを知ろうとします。宇宙の果てまで知りたがるのですが、理論的には可能でも
具体的には不可能なことです。どこかで、手を打たなくてはなりません。物質の秘密を知りたがるのは心です。心は、今の自分の身体の中に機能しているので、それを把握すること、知り尽くすことは、論理的にも具体的にも可能です。
 仏教は物質の探求を止めて心の探求をします。それこそが知り尽くすことだと言うのです。ブッダは「自分を知ることは一切を知ることだ」と説かれています。決して終りがないので宇宙の探検はやめた方が良いと言っているのです。自己の探検こそが唯一大事なことだと言うのです。自己の探検をすればカルマの法則も見えてきます。
 また、DNAの話に戻ります。なぜ、DNAが兄弟の一人を強い身体にして、一人を弱い身体にするのでしょう。DNAは化学物質で、DNAを構成する塩基にはアデニン(A)、チミン(T)、シトシン(C)、グアニン(G)の四つがあるそうです。三十億の塩基からの人のDNAができているそうで、またその中に十万種の遺伝子があると言われています。たいへんな量ですが、科学者には身体を弱くする遺伝子と、強くする遺伝子を発見できるでしょう。
 しかし、なぜそのような組み合わせになったのかということは説明できないと思います。科学的に説明できないものだからといって、宗教的にとらえて「神のみぞ知る」という無知の駄目押しをしてはいけません。遺伝子の組み合わせに「心」が決定権を持っていたことは、科学では発見できません。身体が強くなるか、弱くなるか、長寿になるか、短命になるか、健康になるか、病弱になるかは、遺伝子の組み合わせの瞬間に関わった「心」のエネルギー次第なのです。(P51-57)

ご参考にされて下さい。
幸せでありますように。
2012年06月25日 (月) 13時38分 No.1768
お返事ありがとうございます! - プリン君
R さん 
いづるさん

回答頂きましてありがとうございました!
参考になりました!

慢などの悪行が重なったりと、
カルマの学びはより深く難しいと感じました。

心の自己の探検、カルマと更に勉強していこうと思います。


ありがとうございました!
2012年07月02日 (月) 12時26分 No.1778


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