日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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sas > tamotsu - sas - 
ヴィパッサナー瞑想と尋・伺について - sas
対象を認識して把握することを尋、
把握したあとに同じ対象への認識を継続することを伺であると
私は思っていますが、合っているでしょうか?

だとしたら、それらはヴィパッサナー瞑想でしていることと
同じことをやっているのでしょうか?

また、違うのであればどこが違うのかを教えてください。
2020年02月26日 (水) 15時24分 No.4619
尋伺は、けっこう難しいですが。 - tamotsu
尋と伺は、ちょくちょくウィセッタ・セヤドーの法話でも出てきます。

が、ご存知の通り把握しにくい心所です。
自分もこんな感じかな位でしか理解してませんが、
一助になればと思い、書いときます。

セヤドーが尋と伺についておっしゃっていたのは、
尋は、蜂が花を見付けて近付いていくこと。
伺は、花に止まること
という例えでした。

スマナサーラ長老が、
車は、幾多の部品が組合わさって、1つの機関を作り、その機関の動き(機能)が合わさって、車という集合体が出来上がっている
という話を読んだか聞いたことはあるでしょうか?

同じように、人間や他の生命体も色受想行識の集まりであり、
人間という実体はない。
無我であるというのが、仏陀の教えです。

ある集合を見て人間かな~と一生懸命近付いていっているのが尋で、
あ、人間だ、と思い続けているのが、伺です。
(一瞬の出来事で、素早くこの過程がなされているようです。)

尋は、ある条件が揃ったものをみると、これは人間だと思考しパッと断定し、
その後、この条件が揃っている集合体は人間だととする概念を、思考し続けて組み立て続けてるのが伺になります。

自転車のこぎだしの重いところを尋、巡航して楽々こいでいるのを伺として、
思考によって概念を組み立てる際の蹴りだしを尋、
次々に思考して概念を維持しているのを伺
と思うのも手かもしれません。

ですので、ヴィパッサナーで、声でなく、音、音、音、と気付きをいれていたり、地水火風の四大色などに熱さ熱さと気付きを入れているときは、真理の実相である勝義諦に気付きを入れるので、尋と伺は、ほとんど作用してません。

尋や伺によって人間は人間なのだと思って我々は生活しています。
これは誤認です。これがいわゆるパーリ語のパパンチャ錯誤というものです。
(パパンチャについては、スマナサーラ長老の法話をどうぞ
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-131/)

ヴィパッサナーによって、この尋伺を抑えて認識をしているから、段々とパパンチャ無しで物事がとらえられてくるわけですね。
(自分で書いていて、そういうことかと頭の中が整理されました……。ありがとうございます。)

「対象を認識して把握するのが尋」

「対象(となる集合体)を認識して(思考によって概念を組み上げ)把握する(思考の発端)が、尋」

「同じ対象への認識を継続することを伺」

「同じ対象(の集合体)への(こいうものだという)認識(の概念を思考によって組み上げること)を継続することを伺」

こんな感じになりますでしょうか。

このような説明で、理解が深まってくれればいいのですが、お粗末様でした。
2020年03月03日 (火) 16時28分 No.4632
なるほど・・・。 - sas
回答ありがとうございます。

ヴィパッサナー瞑想では、尋・伺によって作られる固定概念を排除して観察する必要があるのですね。
また一つ、理解が深まったような気がします。

尋・伺についても色々な例を出していただきありがとうございました。
尋・伺は1つの思考作用であることが分かりました。
2020年03月17日 (火) 14時57分 No.4650


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