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妄想と感覚の違い - 匿名例えば広場にいて足元を見ている時に、自分のいる広場全体の映像が頭の中に浮かぶこと、自分が広場の中のこのあたりにいるんだとイメージすることは妄想でしょうか?感覚でしょうか?
実際に広場全体を見ていない状態で、記憶に基づいて考えていることなので妄想という気がします。妄想だとすると瞑想によってこのようなイメージもなくなっていくものでしょうか?2020年02月24日 (月) 19時16分 No.4616
Re.妄想と感覚の違い - ひろどうもこんにちは。
>自分が広場の中のこのあたりにいるんだとイメージすることは妄想でしょうか?感覚でしょうか?
妄想と言えなくもないですが、経験則に基づく思考と言う感じがいたします。
一番分かりやすい妄想は、広場なのに、草原の中にいるとか、白馬の王子さまが向かっているとかになると妄想です。
思考は瞑想が進んでも無くならないので、広場の真ん中がどこかを想像する事はおかしなことでは無いと思います。
2020年02月27日 (木) 16時07分 No.4625
こんにちは。
基本的にあらゆる感覚は、
1.苦
2.楽
3.不苦不楽
の三種類に分類されますが、阿羅漢果に至った聖者からみれば、結局、すべての感覚は「苦」(一切皆〈行〉苦)ということになるようです。
例えの「自分のいる広場全体の映像が頭の中に浮かぶ」や、「自分が広場のこのあたりにいるんだとイメージすること」は、意(心)が(故意に)作り出した客観的なイメージ(映像)のように思えます。
妄想と言えるかどうかはわかりませんが、感覚としては、苦も楽もない感覚(不苦不楽)を伴う想像(想)になるのだと思います。
仮に、上記のイメージが勝手に思い浮かび、何らかの心所(煩悩)が付随することによって、嫌な気分になる場合は、「苦の感覚を伴う妄想」になると思います。
言い換えれば、過去の悪業の結果を受けているということにもなるのだと思います。
楽の場合も同様です。
ご質問の妄想か? 感覚か? については、
両方ということになると思います。
つまり、妄想(想)+苦・楽・不苦不楽のどれかになります。
妄想だとすると瞑想によってこのようなイメージも無くなっていくものでしょうか?
スマナサーラ長老(著)『感覚について』からの抜粋です。
第一禅定に達したものは言語が滅する。
第二禅定に達したものは思考が滅する。
第三禅定に達したものは喜悦感が滅する。
第四禅定に達したものは呼吸が滅する。
想受滅に達したものは想と受(感覚そのもの)が滅する。
とありますので、悟りの最終段階までいくと想(認識して作る反応)も受(感覚)も滅すると書かれており、これが修行の終着点と記載されています。
結局、瞑想修行によって、妄想を含め様々な苦の原因を滅していき、最終的には想と受を滅すればゴール(苦が無くなる)ということになるのでしょう。
2020年03月01日 (日) 17時33分 No.4628
ご回答ありがとうございます。 - 匿名嫌な気持ちを呼び起こさない想像はとりあえずは、あまり気にしなくて良いと理解しました。
私の問題は、想像によって苦しみをつくってしまうことです。与えられた仕事の先を勝手に考えて、苦しさのイメージが浮かんで、体調が悪くなったりしてしまうことがあります。過去の経験に捉われずに、目の前の作業だけに集中すれば良いとは思うのですが、悪いイメージが反射的に浮かんでしまうのです。
やはり、地道に瞑想を行うのが良いようですね。2020年03月05日 (木) 17時07分 No.4634