日本テーラワーダ仏教協会の質問&議論用の掲示板です。
投稿は個人情報を削除した上で編集しHPや協会機関誌等に転載する場合があります。
YouTube「日本テーラワーダ仏教協会事務局」チャンネルのQ&A動画で取り上げる場合もあります。
画面左上の検索フォームで過去の書き込みをキーワード検索できます。
投稿は管理人が内容を確認後に掲載します。不掲載の理由問合せにはお答えできません。
質問や相談にコメントする場合は"真理を守る"謙虚な姿勢を心がけましょう。
お問合せは、info@j-theravada.net まで。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。
業と言われても - ボンここ数ヶ月よく考えるのですが、
原因と結果の法則は理解できます。
いわゆる業です。
長老の言葉ですと、今の自分の状態がポテンシャルを作るということも、年々わかってきました。
善行為を行う、徳を積むということは良いも悪いもなくて、良い結果を作るためのことです。
農業にも似てます。美味しい農作物を作るには、栄養を与え手入れを怠らずに、それ相応の原因をつくらなけらばならない。
善行を行うことによりある程度、業はコントロールできると思います。
悪業を背負って産まれても、本人の生き方次第で望ましい人生を送ることは可能でしょう。
難病が寛解することもあるますし、障害をコントロールすることもできます。
私は精神の障害を持ってます。
私自身の努力や、周りの人の支えのおかげで働けています。毎日楽しく幸せです。
長くなるので割愛しますが、尋常ではない程の努力はしてきました。良い支援者にも恵まれました。
原因があり結果がある。それを身を持って理解しました。
ただ、どうしてもわからないことがあります。
相模原障害者施設の障害をお持ちの被害者の方達、池田小学校殺傷事件の被害者に遭われた子供達、通り魔に殺された無辜の人たち、他にも戦争によって大量殺戮された無数の人々、アウシュビッツや広島長崎の犠牲者。
私のイメージでは不慮の交通事故に遭ったり、体調の急変でお亡くなりになるなどのことは、過去の業の結果であることはわかるような気がします。
科学では解明できない領域を、業は語り尽くしていると思います。
ただ、前述のケースの被害者の人々に殺されても仕方のない業を背負っていたからと、納得しろと言われても無理というものです。この人たちに悪業などありません。
私の理解がまだ足りてないので、補足お願いします。2020年02月24日 (月) 19時16分 No.4604
Re.業と言われても - ひろどうもこんばんは。
我々の身体は無敵にできておりません。
心臓にナイフが深く刺さったら心臓が止まる業を持っております。
また臓器を強打し壊れたら不全を起こす業を持っています。
常に老いていくという業を持っています。
身体は病の巣窟である業を持っています。
生まれたものは死ぬという業を持っています。
それらは悪業なのでしょうか、善業なのでしょうか。
また、生まれてから善業しかしない場合は死から免れるのでしょうか。
阿羅漢果を得ない限りは新しい業を作り続けます。
財産があるのも健康な体もただの業でしかありません。
ある死に方は不幸であり、ある死に方は幸福なのでしょうか。
殺されるかどうかは死に方の一つです。
殺されても仕方がない業かどうかや残された人々の残されたという業は、仏弟子として不幸の基準になりません。
不幸なのは愛着を抱いたまま死ぬことであり、愛着を抱いたまま残されることです。
愛着を抱くのなら業は苦であり、愛着を抱くなら業は非難されるべきものです。
もし業について不可解で納得できない部分があり、それが足かせとなるようなら、業の理解は上記くらいでよろしいと思います。
参考:
大善見王経
(マハースダッサナ・スッタ)
十法経
(業の観察)2020年02月26日 (水) 15時24分 No.4624