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「大空性経(Mahāsuññatasuttaṃ)」の理解 - セーナ先日MP3で「大空性経」(『中部122(Mahāsuññatasuttaṃ)」のスマナサーラ長老による法話を拝聴致しました。
その中で最後の方の下記お経の部分が自分の理解と違っていたので皆様の助言を頂きたく書き込み致しました。よろしくお願いします。
中村元先生の翻訳では訳文通り、出家者を甘やかさない厳しく接すると理解していたのですが、長老のご説明では逆に壊れやすい土器を扱うように丁寧に扱うと説明されていました。
パーリ非定型のNAが文頭にあるので「~無い」と訳されるのが適当だと思われるので混乱してしまいました。
お釈迦様の厳格な一面を示されているのか、丁寧な優しさが表れているお経なのか、腑に落ちず気になっています。
Na vo ahaṃ, ānanda, tathā parakkamissāmi yathā kumbhakāro āmake āmakamatte.
(訳文) アーナンダよ、私はあなたがたへ、加熱されておらず湿った〔作りかけの器〕に対して陶工が〔慎重にふるまう〕ごとくの、そのような努力をするつもりはありません。2020年02月03日 (月) 18時46分 No.4573
追記です - セーナタイ仏教のターン・プッタタート比丘もお釈迦様の非常に厳格な態度を表すと解説が有りました。
なぜスマナサーラ長老は逆の理解をなさっているのでしょう。それとも私の勘違いでしょうか?
法話の該当部分をお聞きになった方の感じ方も教えて頂きたいです。2020年02月06日 (木) 14時12分 No.4582
セーナ様
手元にテープ起こし原稿があったので、該当箇所をコピペしてみます。
「陶工の喩え」ということを念頭に聴けば、仰るような疑問は生じないように思いましたが、如何でしょうか?
***************
Taṃ vo bhavissati dīgharattaṃ hitāya sukhāya.
Na vo ahaṃ, ānanda, tathā parakkamissāmi yathā kumbhakāro
āmake āmakamatte.
Niggayha niggayhāhaṃ, ānanda, vakkhāmi; pavayha pavayha, ānanda, vakkhāmi.
Yo sāro so ṭhassatī’’ti.
最後のたとえは、すごく立派です。日本語訳をちょっと見てみましょう。
「アーナンダよ。私に対し友誼(ゆうぎ)をもって行動しなさい。敵意をもって行動してはなりません。それは長い間、そなたたちの利益のために、安楽のためになるはずです。
アーナンダよ。私は、あたかも陶工が生の乾いていないものに対するように、そなたたちに対して努力することがありません…」
ん?
「努力することがありません」……どういう意味ですかね?
「アーナンダよ。私は押さえ押さえ、説きます。アーナンダよ。私は運び運び、説きます。真髄なるものがとどまるはずです」……。
Na vo ahaṃ, ānanda, tathā parakkamissāmi
日本語訳が違うのですよ。
Niggayha niggayhāhaṃ, ānanda, vakkhāmi
「陶器」といっても、焼き上がって、きちんと出来上がったものでしたら、乱暴に扱うことも出来ますよ。
でも、まだ「生(なま)」だったらどうしますか。
陶器を焼く前は、生の土(つち)でしょう。まだ乾いてないでしょうに。だから陶工がそれを扱う時は、すごく丁寧に扱うのです。
陶工が陶器を作るときは、土を手で叩いて平らにしたり、押さえたり潰(つぶ)したり削ったり、いろいろと手を加えて丁寧に扱うのですよ。それから窯で焼いて、きちんと芯のあるものにするのです。
つまり、お釈迦様に叩かれても、押さえられても、潰されても、お釈迦様は陶工と同じ気持ちなのです、と。とにかく、立派な作品を最後に出してみせるんだ、ということなのです。まあ、いくらか出来た陶器でも、形が悪いようでしたら全部潰しちゃって、もう一度土を練って作り直すということは、いくらでもあるでしょうに。
昔はね、生の土をよく叩いたのですよ。叩く場合は、叩いて叩いて土を薄くするのですよ。轆轤(ろくろ)で回している間も、こうやって叩いて叩いて、丁寧に叩いたのです。
だから、かなり神経を遣う仕事なのです。やっていることは「叩く」ことなのですけれどね。
生の粘土を扱っているあの陶工と同じように、お釈迦様は人間を、かなり丁寧に扱っている。乱暴はしません、と。ですから、na parakkami とは、「乱暴はしない」ということなのです。
まだまだ生の陶器だから、そんな期待はしていないのですよ。だからもう、陶器は生でいいのですよ。それで「水を汲んでください」ということはない。
その辺は考えて考えて、調整して調整して、一旦、火にかけて焼いて戻ってからが仕事になりますからね。そういうふうに、いきなり乱暴に何かすることはないのだから、「ブッダは〈敵〉ではありません」と。
生の乾いていない粘土を扱うように、叩くところは叩いて、運ぶところは運んで、もうちょっとこの辺は粘土を盛っていこう、この辺はちょっと伸ばしておこうとかね。そうやって運ぶところは運んで、押さえるところは押さえて、そうして陶器を作るでしょうに。「生」の間は。だから、乱暴はしないのです、と。轆轤(ろくろ)で回している時でも、軽く手を、指を入れるだけでしょうに。その時、ちょっとでも間違ったら形が出てこないのですよ。手とか指の入れ方はすごく優しくて繊細で、きちんと角度を決めて、強くもなく弱くもないのです。この「ちょうどいい」ということ。これ、なかなか出来ないでしょうに。
それで一旦、形が出来ても、あの元の粘土から切ってもらわなくてはいけないでしょうに。これは素人にいくら頼んだって出来ないでしょうに。できる人は、ちゃんと自分で、糸を使って切るでしょう。糸をサッと持っていくだけのことですけれど。まあ、見ている限りは簡単、単純なのです。でも慣れていないと、まるっきり出来ないのだから。轆轤を回しているのですから、ただ糸をこうやって持って来て、それからこれを取るだけのことなのです。それでもガチャンとなっちゃいますからね。
その丁寧さで、気をつけて、「この生の粘土を扱っているような感じで、私はあなた方を管理しているのです」と。やがて芯のあるものが出るでしょう、ということです。
すばらしい、見事なたとえだと思います。
Yo sāro so ṭhassatī’’ti.
粘土の世界では、しっかり出来たものを窯に入れて、焼いて、しっかりした作品として出てくるのです。出来の悪いものはそのまま潰(つぶ)します。もう関係ないと。ですから、やっぱり、みんな百パーセントが悟るということはないのです。
やっぱり、お釈迦様の言うことをやってくれない、なんだかいい加減な人だったら、うまく出来ていない「作品」ですから、それはそのまま追い出してしまうということです。陶器の場合は、百ぐらい作っても、役に立つのは二十とか三十ぐらいではないでしょうか。すごいプロだったら九十個くらいできるかも知れません。けれど一般の人の場合は、百個作っても、まあ四十か、三十ぐらいがせいぜい良い作品として残って、「あとはもう全部駄目」となりますよ。
とにかくこの「大空性」というものを説明するのに、お釈迦様はあらゆる方面に話を持っていって、とてもきれいに話を進めて、パーフェクトに終了させるのです。
「空」とはどのように観(み)るべきか。空と涅槃、悟りとの関係。これはものすごく膨大な内容の経典です。仏教の膨大な内容が入っています。ですから何回も何回も読み直して読み直して、してみないとね。
ただし、日本語訳で読んでも、生きている意味は通らないのです。それは私が威張って言うわけではなくて、それがこの経典の「ありかた」で、和訳では、生きている意味は通らないのです。翻訳が間違っているわけではないのですけれど、「削減の話」のような事情もありますし、そうなると意味が分からなくなってしまうのですね。
***************2020年02月06日 (木) 14時42分 No.4585
安心しました - セーナnaagita様
ご助力ありがとうございます。
na parakkami を長老が仰られるように「乱暴はしない」と訳するのと、辞書による訳で「努力しない」と訳することで反対の意味に解釈していたことを理解致しました。それによって丁寧に扱うという意味が丁寧に扱わないという意味に捉えられていました。
排他的、粗雑乱暴に扱い切り捨て、芯のある者を残すという過激な言葉にも受け取れたための動揺でした。
私の厳格という言葉使いも宜しくなく、甘やかさない態度を厳格と使用していますが、厳格綿密に丁寧な対応をすることもあります。
いずれにせよ未熟ですぐ壊れそうなものには気根によって優しく大切に対応していたということですね。
疑問は解消しました。納得できました。ありがとうございました。
2020年02月09日 (日) 01時47分 No.4589