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仏教とニヒリズム - apa
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そこで、長老に質問です。
仏教とニヒリズム、とくにニヒリズムの克服について教えてください。
仏教を、とくに西洋で、ニヒリズムの教えだと理解する人がいます。
私は以前は、それはまちがいだ、仏教は明るい教えだと、そういうニヒリズム説を否定していました。
しかし、何年も自分なりに仏教の教えを理解しようと努めているうちに、だんだんとわからなくなってきました。
長老は「仏教は生きることを乗り越える教えだ」と話されたことがありますが、その乗り越えていこうとする際中に、一過的とはいえ「虚無」に陥ることはないのでしょうか。また、その乗り越え方を教えてください。2019年11月25日 (月) 10時10分 No.4474
Re.仏教とニヒリズム - ひろどうもこんばんは。
ニヒリズムと仏教は似ているように感じますよね。
特にニヒリズムは、ネガティブなニヒリズムとポジティブなニヒリズムに分かれます。
ただ、先ずその前に、ブッダの教えと哲学の違いから話します。
先ずブッダの教えは一貫して苦しみと、苦しみの原因と、苦しみの滅と、苦しみを滅する道を説きます。
これを四聖諦と言います。
要は自己の苦しみを無くすためだけの教えです。
対して、哲学は思考を使った概念や観念、唯物論の明確化です。
要は頭を使った言葉遊びです。
苦しみを無くすというのは優先順位が低いのです。
ただ、言葉遊びは自分だけで使っても食っていけないので、他人にもわかるように共通認識化させることに注力をします。
ニヒリズムについてですが、ネガティブなニヒリズムはどうせすべてが終わるのだから無気力的に流されるままの考え方。
ポジティブなニヒリズムについては、どうせすべてが終わるのだから今の瞬間を頑張ろうという前向きな考え方。
ブッディズムとの違いは、ニヒリズムは強制的にすべてが終わるという考え方です。
ブッディズムは強制的に一瞬一瞬が終わりますが、本人が輪廻から脱出しない限り延々と新しいことを繰り返す、という考え方です。
だからブッディストが明るいのは、苦の性質(五蘊への刺激)とその対策は説かれているのだから繰り返したい人は繰り返せばいいでしょう、終わらせたい人は努力しましょう、という考え方なので、良いとこどりという事になります。
ですので、前世で一緒だったかもとか、来世でも一緒にいようねとか、今世の苦しみは瞬間瞬間に終わるから無理して苦痛が大きい道を行かなくても良い、という思考になります。
対して、ニヒリストも含め哲学者全般は、「ブッディストと仏教徒の違いは何か」、「十八界の意識(意が法に触れたもの)は、一般的な意識や意思や意志とは何が違うのか、またそれはあるのかないのか、いつからあるのか」
から拘りはじめます。
ブッディストにとって言葉はどうでも良いのです。
それが意識であろうと意思であろうと意志であろうと。
最重要なのは、今自分に起きている苦しみを無くすことだけです。
観るものは三科(五蘊・十二処・十八界)で十分です。
仏教徒が虚無に陥ることはあるかもしれませんが、八正道を進んでいけばその疑は無くなります。
乗り越え方は、実践をやればいいんですが、頭で乗り越えたいのなら、今のご自身を観察することです。
今のご自身を動かしている渇愛や煩悩が過去に一度、ほんの少しでも終わったことがあるのか。
終わったことがあるのなら、死んだのちに涅槃という虚無(?)に入ることができるかもしれません。
終わったことが無いのなら、肉体が死んだのちも続きます。
リモコンが壊れても電池が無事ならその電池は新しいリモコンに再利用されるようなものです。
2019年11月26日 (火) 13時43分 No.4475
Re.仏教とニヒリズム2 - ひろ続きです。
ニヒリズムと仏教の比較では、ニーチェを書くかどうか迷ったのですが、簡単に記載いたします。
ニーチェは原始経典を見たので、所々、仏教思想が入り組んでいます。
ですので、永劫回帰という、輪廻観に似た確率論的な循環説を持っていました。
しかし、ニーチェはインドヒンドゥ教の中興の祖で有名な仮面の仏教徒シャンカラのように、仏教を理解できませんでした。
さらにニーチェは実践を全く行わなかったので、最終的には自我の錯覚の肥大によって気が狂ってしまったようです。
永劫回帰とは、全く同じことが延々と繰り返すというもので、その中でニーチェは存在欲を強めるようにしていきました。
ただ、永劫回帰思想はニーチェの抽象的な主観なので詳しくは分かりません。
勝手な主観ですが、ニーチェは生きる事は素晴らしい、絶対神はいて欲しい、絶対神は存在することができるという虚無だから生まれる事が出来る、という虚無主義(ニヒリズム)と矛盾する思想に行きつき狂ってしまったのだろうと思います。
ですから、未だにニーチェのように仏教を頭だけで考える人は、仏教を生に対してあまりにもあきらめている(冷たい・愛が無い・救いが無い・楽しみが無い・喜びが無い等)と考えてしまうのです。
そして仏教をニヒリズム(虚無主義)だと誤解をしてしまうのです。2019年11月26日 (火) 13時43分 No.4477