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「慈悲」と「判断」 - 判断の子私にとって、「慈悲」の行為のなんと難しいことか。
今まで物事を「判断」で決めてきました。頭のどっかで損得計算をして、不利なことは避けるのです。
そんな私が、慈悲の行為をしたいという気持ちを持つと、私から出る言葉や行為は、相手に期待を抱かせ、挙句の果てに、相手は私の判断で切り捨てられる…。これなら初めから慈悲の行為などと自分の器を越えたことなんて考えなければよかった…。
今、こういう心境で落ち込んでいます。(落ち込んでは駄目なのでした!!)チャレンジするとまた相手を苦しめてしまう…。
偽善者にならないためには、慈悲は搾り出すのではなく溢れ出るときまで溜めておくものということでしょうか。アドバイスをお願いします。2019年11月01日 (金) 11時45分 No.4453
良いスマナサーラ長老の法話が。 - tamotsu今回更新された巻頭法話が最適かと。
https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou266/
自我が最初は邪魔をして、難しいやらこんがらがるやらしますが、
どうすればいいんだーと八方塞がりや自縄自縛、矛盾が出たときは、
欲、怒り、無知が出ているときだと、思って、
結論を急がないのも手かと思います。
最初のうちは、自分のできることをちょこっとずつで
訓練するしかないでしょう。2019年11月13日 (水) 10時53分 No.4463