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特に慈悲の瞑想のフルバージョンにはそこここに教わるポイントがあふれていて、指針としてそのまま実践に移したい、移そうと、しっくり心に入ってくるように感じています。一方で、慈経ではしっくりつかめないところが一箇所あり、いつか解消する時が来るのかもとやってきたのですが、力及ばずなのでお教えください。
慈経の最初に「静かな場所に行ってなすべきことがあります」とお釈迦さまがおっしゃっていますが、続けていわれていることは、ほかの人がいる(静かではない)コミュニティでの心構えのように思えてしまいます。この静かな場所ですべきこととは、慈悲の瞑想を指しているととらえてよいでしょうか。
言葉尻をとらえるような質問になっているかと心苦しくもあり、何か大事なことを見落としていないかと気になることもあり、すみませんがよろしくお願いいたします。2019年09月25日 (水) 16時03分 No.4420
Re.慈経について - ひろどうもこんばんは。
慈経は慈悲の瞑想ではなく、衆生(有情)が居る場所において、より具体的な慈悲の実践を行うための方法です。
慈経の「Karaṇīyam(カラニーヤン)」は、「為すべきこと・義務」という意味があります。
つまり、ブッダは慈経にある慈悲の実践をやりなさいと言っています。
誰に言っているのかというと、「atthakusalena(アッタクサレーナ)」という、「(解脱という)目的を善くわきまえた人」に対して言っています。
「santaṃ padaṃ(サンタン パダン)」は、「静かな場所」という意味ですが、物理的な静かな場所ではなく、「心が落ち着いている状態(寂静の境地)」という意味の方が分かりやすいかもしれません。
「santa(寂静の)」+「pada(境地)」です。
慈経は元々は雨安居中に比丘たちが森で修業をしようとした際、先住者の樹神たちが比丘たちのあまりの清らかな徳の高さに眩しすぎて目が眩み、出て行ってもらおうと脅かしていました。
比丘たちがブッダに相談をしたところ、慈経を唱え実践して害意が無い事を示しなさい、と比丘たちを森に帰しました。
とまぁ、うろ覚えですがこんな話です。
詳しく知りたい場合は日本テーラワーダ仏教協会の精舎に施本があったような気がしますので、確認してみてください。
後世になり護経としての意味合いが強くなっておりますが、今風に言えば生命がいるところで行う慈悲のハウツー本です。
慈悲の瞑想は、実践というよりは瞑想です。
慈悲の瞑想のフルバージョンは、実践がかなり入った瞑想です。
慈経は、実践についてこれでもかというくらい書かれています。その中に慈悲の瞑想が入っています。
ですので、「静かな場所ですべきこととは」
生命がいる場所で行う慈悲の実践の事を指しています。
慈経の内容が実践できるのであれば、慈悲の瞑想や慈悲の瞑想フルバージョンはすっ飛ばしても構わないです。
参考:
・パーリ語日常読誦経典~慈経~
・岩波書店ブッダのことば~スッタニパータ~(中村元訳)
・日常読誦経典パーリ語ノート(著者:木岡治美)
・慈悲の瞑想 フルバージョン
・法楽寺~Metta sutta~
(http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Metta_sutta.htm)
・慈しみと涅槃の関係
(https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou225/)
・大江広のつぶやき~スッタニパータに学ぶ(1)慈しみの経(Metta-sutta)~
(http://blog.livedoor.jp/toky0musashinohs0424/archives/67366883.html)
2019年10月01日 (火) 10時22分 No.4426
RE: 慈経について - くもり時々晴れひろ様
こんにちは。ご教示ありがとうございます。参考資料も読んでみました。
静かな、とは、物理的な場所ではなく、こころの状態のことだったのですね。それでモヤモヤが解けました。
樹神のいる森とはいかないまでも、日々いろいろある中で、こころのあり方について振り返る機会をいただきました。情けなくも、ともすると物理的に静かな場所に逃げて行きたくなるような思いもありますが、踏みとどまって、周りに文句を言うでなく、自分のこころを観て育てる努力を続けて行かなくちゃと思います。慈悲の瞑想を進めつつ、慈経の実践につなげていく、そのようにやっていければと思っています。
慈経のそのフレーズを唱えるとき、いただいた回答を思い出し、その時々のこころの状態をチェックできそうです。
ありがとうございます。
2019年10月22日 (火) 16時49分 No.4446
スマナサーラ長老からコメント頂きました。
https://www.youtube.com/watch?v=LWJbWzGNd342019年10月22日 (火) 16時51分 No.4447
RE: 慈経について - くもり時々晴れ先日は、動画でのスマナサーラ長老へのQ&Aを、ありがとうございました。拙い疑問を長老に宛てて翻訳してくださって、また、長老は一生懸命説明してくださって、なんといってよいか、感謝の気持ちでいっぱいです。これは勝手な感想なのですが、おふたりのやりとりを通して、完全に説かれた教えを一般に伝えるプロセスは相当エネルギーを使うことに違いなく、協会のみなさまのお骨折りがなければ仏陀の教えに直接触れられることもなかったろうと思いました。
そして、超越したありようとは、順番などを超えていて、いまの自分には理解が及ぶはずのないものですが、でも、こうして教えていただくことで、初心者レベルでもとっかかりをつかんでやっていけるのだと思いました。これからも確信をもって、慈悲の瞑想と自己観察を続けていきたいと思います。自分の引っかかったところをチェックしていくと、嫌になって明るさを失ってしまうことも多いですが、静かな場所で積んだ訓練が、人といるときも静かで穏やかなこころでいられることにつながるのだと勇気を持ってやっていこうと思います。2019年11月01日 (金) 11時45分 No.4452