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生きとし生けるものが幸せでありますように。
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幸せになりたいです。
幸せという結果が欲しいです。
よく、結果よりもプロセスが大事と言いますが、私は違うと思います。
目標を達成できなかった時の言い訳にしか聞こえないのです。スポーツにおいても、ビジネスにおいても、そして人生においても。
人は幸せになるために生きています。幸せこそ全て。幸せという結果こそが全てだと思います。
結果的に幸せになれなかった人が、不幸な結果のプロセスに価値を置くなんて変でしょ。
幸せになれなかった悔しさから、論理が立たない言い訳をしているだけではないでしょうか。
そういうわけで、結果が悪かった人に、「あなたのやってきたことには価値がある」と言ってもしょうがないのです。ただの慰めです。
今やっていることが、どんなに楽しくても気持ちよくても、その先に待っているのが不幸であれば、止めたほうがいいでしょう。
逆に、今やっていることが多少苦しくても、その先に幸せという結果にたどり着くのがわかっているのであれば、意味のある時間を過ごしていると言えるのではないでしょうか。
もちろん、苦しすぎて不幸にならない範囲での努力に限りますが。それに、幸せのためだと確信できる努力は、そんなに苦しさを感じないと思います。
これが私の生き方です。
仏教的な観点から、正しいか間違っているか教えてください。
お願いします。2019年08月06日 (火) 13時52分 No.4378
Re.プロセスより結果 - ひろどうもこんばんは。
「仏教的な観点から、正しいか間違っているか教えてください」
いきなりですが仏教的な答えでは、見識や見解は間違えです。
ただそれだけでは分かりにくいのでもう少し深堀していきます。
人が幸せになるために生きているのかどうかは分かりませんが、人は常に幸せを追い求めています。
ただ追い求めている方々は誰も幸せが何なのか分からないのです。
プロセスや結果というのも、実は表裏一体で今は過去の結果であり未来(次の瞬間の今)へのプロセスです。
言い方を変えれば、今は過去の集大成です。
今の集大成は未来へ続く(次の瞬間の今の)プロセスであり、未来(次の瞬間の今)の集大成はさらに未来(次の次の瞬間の今)のプロセスです。
ですので、プロセスより結果が重要だとか、結果よりプロセスが重要だというのは成り立ちません。
「不幸な結果のプロセスに価値を置くなんて変」
ではなく、「価値」を置くこと自体が変なんです。
ただ『今やるべきことをやってください』
例えば食中毒にかかって嘔吐下痢が止まらない状態だとしましょう。
その時に、今こそヴィパッサナー日和、と思って瞑想しますか?
それは今やるべきことですか?
身体が動くのならさっさと病院に行ってください。
身体が動かなくても助けが呼べるなら、助けを呼んで病院に行ってください。
次に、仏教用語では因果と縁と業、一般用語では原因と過程と行為と結果、科学用語では確率についてですが、(不幸という観念の)事象という事自体が、公平不公平ではなくただそうなっただけです。
ただしボンさんのように、「ただそうなっただけ」というのを認めたくないのが衆生です。
その認めたくない心の動きを煩悩と言いますが、その煩悩をどうやって超越するかがブッディズム(仏教・仏道)です。
簡単にまとめます。
1.今やるべきことをやる
2.煩悩を超越する
参考
不幸の原因
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-028/2019年08月08日 (木) 23時07分 No.4380
こんにちは。
文章を読ませていただきました。
文章の内容に対して、「これが私の生き方です」と自信のある記述をさているのに、文章冒頭には「幸せになりたいです」と書かれています。これは、裏を返せば、今現在においては「幸せではありません」という意味になると思います。
では、なぜ今現在において幸せではないかというと、
将来に期待する(幻想の)幸福感(目標の達成など)を追い求めているからではないでしょうか?
例えば、オーロラや蜃気楼を求めて、あそこにたどりつけば何か良いことがある(幸福が待っている)のではないかと、ひたすら歩き続ける(プロセス)旅人のような感じです(渇愛・無明)。
私も過去に自分のビジネスで独立しましたが、ここから先が成功で幸福だ!というようなラインはありません。その時々で様々な問題・課題があり、苦しみを味わうはめになります。要するに問題解決の連続の中で、変化し続ける環境に相応して、自分自身も変化していくだけです。
では、そこに幸福感が無いのかといえば、その時々において問題が解決されたり、人の役に立てれば達成感や充実感は味わうことができます。
ボン様の文章の内容は、俗世間の価値観(世俗諦)からみれば、間違ってはいないのかもしれませんが、仏教的には、まさに「渇愛」といえるのではないかと思います。
さらに、複雑な因縁によって現れた一つの現象(例えばビジネスが軌道に乗る等)は、常に瞬間・瞬間変化し続けていきます(諸行無常)。そういう無常なものに対して、「結果に価値がある」とか、「プロセスに価値がない」という見解は、うさぎの角(空想)に価値がるとか、価値がないとか言っているようなもので、妄想であり邪見だと思われます。
そして、その見解が「私の生き方である」と固執し、心の柔軟性まで失っているように見受けられます。
仏教の中心的な教えである四聖諦で考えてみると
1)苦諦=一切皆苦・・結果
2)集諦=渇愛・・原因
であり、苦諦(一切皆苦)の原因は、集諦(渇愛)です。つまり、ボン様は苦しみの原因である渇愛を一生懸命増やしているという努力をしているということになってしまいます。
では、仏教的な幸福とは何かというと、
3)滅諦=涅槃寂静・・結果
です。そして、その結果を作るための原因は、
4)道諦=八正道・・原因
ということになります。この滅諦(涅槃寂静)には、「価値がある」といえます。そして、その原因である道諦(八正道)を実践しているプロセス(過程)にも「価値がある」のではないかと思います。
なぜならば、「涅槃」は勝義諦であり、幻想ではない実際に「ある」真理だからです。
参考になれば幸いです。
2019年08月29日 (木) 15時08分 No.4403
ひろさんへ - ボンスマホから失礼します。
幸せになるために、今やるべきことをやっている時間が、幸せだと言いたかったにです。
ひろさんのご意見には、私も賛成です。
ありがとうございます。2019年09月29日 (日) 20時03分 No.4423
イエモンさんへ - ボンスマホから失礼します。
渇愛などしてません。
裏読みし過ぎです。
あまり複雑に考えず、素直に読んだらいかがですか2019年09月29日 (日) 20時03分 No.4424
ポンさんへ。 - ティサさんはじめまして。
Qこれが私の生き方です。
仏教的な観点から、正しいか間違っているか教えてください。
ポンさんが、この生き方が正しいのだ、と確信していらっしゃるのなら正しい、それで良いのではないでしょうか。個人的に異論はありません。
仏教では、幸せを追い求める事は終わりのない、幻想を追い求め、結局惨敗し、老い、病に倒れ、死ぬ宿命からは逃れられません、という事実を突きつけているのだと思っています。
ポンさんの仰る幸せとは具体的には何でしょうか。
お金、地位、名誉、美貌、賞賛・・・。私などに思いつくのはこの程度ですが。
どれもこれも、老い、病気、死により簡単に失うものです。どんなに挑戦しても結局最後に惨敗する、というのは、このことです。
必ず成功する結果が待っていると確信のある道程で挑戦することが楽しい、挑戦している時が楽しい、というのは、おそらくその刺激、ワクワク感、のことでしょうか。勝ち組思考ですかね、わからんでもありません。必ず予定通り、期待通りに成功する未来、が確実にあるかどうかは、昨今の自然災害を見れば自明の理ですが。
仮に何事もなく順風満帆に過ごしたとしても、しかしながら、いつか必ず老いさらばえて死ぬのです。病に倒れた時にも、この刺激はもう感じることはできません。
では、ポンさんの仰る【幸せという結果にたどり着く】【幸せのためだと確信できる努力】という幸せ、を得られない状態については、不幸な状態、ということになりますか?
つまり結局いつか必ず最後に得るのは不幸のみ、ですか?
>今やっていることが、どんなに楽しくても気持ちよくても、その先に待っているのが不幸であれば、止めたほうがいいでしょう。
↑仰るとおりだと思います。
仏教的には、事実を教えているのみで、強要も主張もしていないと思っております。
「1+1=2です」と言うのは強要でも主張でもなく事実です。
ですから、仏教は間違っている、とお思いでしたら、どこがどのように間違えているかをご自身で確かめてみるのも良いかもしれません。(お釈迦様が「来たれ、見よ」と仰っています。)
まとめると、あなたの生き方は間違いではありません。行為の結果のみが個人の所有物、という事実しかありませんので、そこに正解も間違いもありません。
ぜひご自身で確かめてくださることを願っております。
乱文失礼いたしました。2019年10月08日 (火) 20時08分 No.4429