日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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聖者の自称について。 - 修行者
こんにちは。

聖者は自称しない。理由は解脱で自己認識が変化して
自称出来ないようになった、というような話があります。

これは有身見が消えた預流果から
自称出来ない自己認識に成っているのでしょうか?

それと無我と預流果の関係も教えて頂きたいです。

よろしくお願い致します。
2019年07月16日 (火) 15時39分 No.4347
Re.聖者の自称について。 - ひろ
どうもこんばんは。

気になりますか?
聖者の定義

ペーパーテストがあって、95点以上は聖者です、みたいな数値化できる基準があれば分かりやすいんですけどね。
聖者を目標にするのは推奨されますが、概念に囚われるようなら気にしない事です。
概念に囚われるとそれが苦しみになります。

個人的な考察ですが、
先ず、有身見が消える=預流果でもなければ、
無我=預流果でもありません。

預流果の定義は、
悟りの階梯
https://j-theravada.net/world/study/pali-sutta2-2/
にありますので、ご一読お願い致します。

有身見が消えた場合は、「聖者の自称」関係なく、智慧ある人から「あなたは誰ですか?」と質問されたときに答えられなくなります。
もちろん一般的な名称はあるのですが、一時的にでも有身見が消えた体験上、「自我という現象も因縁によって生滅を繰り返しているだけで、呼称・記号・通念・名称であって、それに対応する実体・人格は存在しない」から言えないor表現する言葉が見つからないのです。
やっと私は誰々であると絞り出せるのは、自我の錯覚が現れてからです。



「無我と預流果の関係」についてですが。
無我というのは自我が錯覚であったと気づいた状態なのか、我が生じていない状態なのか、我が無いという状態なのか、自我が生じては滅した一連の状態なのか、この質問では不明ですが、「自我が錯覚であったと気づいた状態」や「自我が生じては滅した一連の状態」は、仏教徒じゃなくても起こります。

簡略化して無我の体験と言いますが、無我の体験は、悟りの階梯にあるように、
「「私」というものがいると錯覚している煩悩が、まず根こそぎ消えます。」
という体験だけで、それ以上でもそれ以下でもありません。
だから、唯一絶対神がどうとか、魂がどうとか、輪廻がどうとかとは関係ありません。なぜならそれらはそれぞれ人によって概念が違うからです。


有身見が消えれば「疑」が自然と消えますが、「仏教に対する疑いが消える」というとだいぶ語弊があります。
例えば、供物をささげるのも火を渡るのも滝に打たれるのも仏像を拝むのも真言や念仏題目を唱えるのも「仏教」です。
人々が瞬間瞬間に概念を作っているので、「仏教」は無限にあります。
では何の「疑」が無くなるのかというと、「ダンマにそったブッダの教えに対しての「疑」」が無くなります。
何が「ダンマにそったブッダの教え」なのかというと、自分で一つ一つ検証するしかわかりません。

ダンマにそったブッダの教えは正しいというのが、体験されれば「疑」が消えた状態です。

「戒禁取」宗教だけではなく、マイルールも含めた一切のこだわりです。
これが体験として消えると「戒禁取」が消えたという事になります。
こだわりが消えたからと、虚無主義になって他人のやっていることをあれこれ思い悩むようなことはありません。
また「戒禁取」が消えたからと言って、無法律主義や五戒などの戒律を蔑ろにすることはありません。
と言いますか、縛られてるような感じは受けずに、自然体で五戒を守るようになります。
もちろん、五戒を守る理由も「当たり前の事でしょ。破ったら〇〇で苦しみが生じ、守ったら〇〇で苦しみが滅するor生じない」くらいのレベルで答えることができます。

というわけで、無我の体験自体は誰でも宗教も主義主張も問わず体験できると思います。
と言いますか、瞬間瞬間、無理やり我を錯覚として生滅させているだけです。

ただし、預流果となると、「疑」と「戒禁取」が消えないと無理なので、仏教徒はもとより他宗教無宗教問わずに難しいです。

余談ですが、預流果であろうがなかろうが、ブッダの教えに従ってよく自己を整えている方は、まるで毎日日が昇っては沈むようにブレが無く、成果が出ておりとても尊いです。
ですので概念に囚われるなら、聖者の定義は気にしなくて良いというのはそういう事もあります。
2019年07月17日 (水) 14時42分 No.4351
Re.聖者の自称について。2 - ひろ
大事なことを付け加えるのを忘れていました。

聖者の自称について。
ですが、聖者本人は自称しないでしょう。
名前と違って、「聖者」という称号を使う必要がないからです。

それは自我の錯覚が現れても一緒です。
逆に、「聖者」を自称する必要があるときってどんな時でしょうか。
また、聖者という言葉を使う場合の周りの衆生に対する影響はどんなもんでしょうかね。

他人が聖者本人に聖者かどうか問う場合は、聖者では無ければ否定するか、聖者か聖者では無ければ必要がないので受け流すでしょう。

Aさんから〇〇長老は聖者だと言われているようですがどう思いますか? とBさんが〇〇長老に質問しても聖者では無ければ否定するか、聖者か聖者では無ければ必要がないので受け流すでしょう。

締めの言葉は、必要に感じないから聖者と自称はない。
出来ないのかしないのかは、その聖者に聞くしかないといったところでしょうか。
2019年07月17日 (水) 14時42分 No.4352
ありがとうございます。 - 修行者
ひろさん、
お返事ありがとうございます。

しかし私が思っていたよりもずっと立体的で
難しいお話だったようでびっくりしてしまいました。
有身見、無我などの相互の関係性を私は全く理解していなかったようです。

気楽に質問してしまいましたが、
聖者は自称しないことは間違いないようで、そこは間違いなかったようですね。

ご紹介いただいた藤本晃さんの文章ですが、本も書いてらっしゃるようですので、そちらもあわせて読んでみます。
2019年07月19日 (金) 15時54分 No.4357
Re.ありがとうございます。 - ひろ
どうもこんにちは。

気楽に質問していただいて大丈夫です。
長く書いてしまい申し訳ありません。
簡単に答えると、

Q.聖者は自称しない?
A.しません。できないのかしないのかは聖者に聞くか、自分が聖者になって確かめてください

Q.無我と預流果の関係
A.無我は(預流果も含めた)悟りに至るためのステップの一つです


余談ですが、以前、仏教学者で花園大学教授の佐々木閑先生に、ブッダ亡き後誰が四双八輩(聖者)の認定をしているのか質問したところ、
「自分自身でする」
との回答を頂きました。

悟った師匠や悟った周りの人が認可状をくれるわけではないのと、私自身は聖者になることが目標ではない事、概念に囚われても煩わしいので、聖者については深く考えないようにしております。

迷うようなら聖者についての考察は程々にしておいた方がよろしいと思います。
2019年07月21日 (日) 16時17分 No.4358


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