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スマナサーラ長老の「13歳のチカラが世界を帰る」を読んでいます。
p86からp89までの意味がよくわかりませんでした。
自分だけが楽しいというのは「私」があるから、みんなが楽しいと思えるように楽しむべきだとおっしゃりたいのかなと思います。
この結論は、「自分が楽しいように絵を描きなさい」という言葉から始まってますが、これは楽しみの基準が「私」から始まり「私も含めてみんな」に終わるという矛盾ではなく、私なりの解釈では、やり始めは「私」だけが楽しく思えればよいが、周りの評価がついてこなければ、一旦立ち止まって検討し直してみよ、ということでいいでしょうか。
しかしこれでは周りに合わせて自分を曲げることになりはしないでしょうか。
芸術家の中には死後になって初めて評価された人も多くいます。
それは生前に自分を決して曲げなかったことで勝ち取った評価と言えます。
だから自分だけが楽しいと思っている状態で、周りがついてこない時に、それが仏教的に合っている状態なのかどうかは自分では判断がつかないのです。そういう場合は迷ってしまいますよね。
私の疑問は以上です。2017年09月17日 (日) 12時54分 No.3805
ちょっとした宿題にしておくとよいかも。 - tamotsu棟方志功さんが、
晩年、
自分が仕事をしなくても、作品ができるようになった
と語っているように、
作品を作り上げる技術を上げ、
こうしなくては、ああしなくては、と考えなくても
自然と体が動くところまで熟練し
作品を作り上げる意欲だけをもって
余計な偏見がなくなる程度にまで自我をおとしくして、
作品を作ると万人の感動する作品となります。
あのピカソの後期の作品は、
目に入ってきた光を、ただ見たままに描くと
あのような抽象的な人物像などが、
キャンパスにできあがってくるのです。
"私"という自我がなくなると、
自分も楽しく、他人も楽しい音楽など、
純粋な芸術がうまれてくるのです。
そこに、他人に誉めてもらいたいと欲がはいったり
自分が心地よければ騒音でもなんでも弾けばよいのだとか
ストレス発散のための芸術活動を
自分が楽しいと勘違いして行っていくと、
そのうち自分も苦しい、他人には迷惑がられるということになります。
偉大な芸術家たちが、生涯をかけて挑む課題ですが、
仏教の修行と勉強をやっていくと、
さくさくっと理解できるところなので、
自我が錯覚だと理解できるように頑張ってくださいね。
2017年10月05日 (木) 10時20分 No.3807
tamotsuさん - ボンヒントになる回答ありがとうございました。
頑張ります!2017年10月08日 (日) 13時51分 No.3810