日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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人間関係 - ボン
それなりの年月を生きてきました。
今思うことは、人間関係ってそもそも無いんじゃないか?ということです。
あるのは所属意識、利益の繋がり、助け合い・・・家族関係でさえ、ようは自分の都合で生きている人々の集合体が社会なのでは?ということです。
都合の合う部分を重ねる。これだけのことなのではないでしょうか。
人間関係って、ただそれだけのことだったのではないでしょうか。
あるのは個人の都合だけのような気がしています。
誰もが自分の都合の中だけで人生を全うしていく。
生まれてから死ぬまで、ひとり。
職場で相手の都合を考えるのは、それが仕事であり、仕事するということもまた自分の都合でしかない。
親が子を愛するのも、そうしたいからという親の都合。
この世は都合だらけです。
人間関係ってものはそもそも無かったのです。まやかしです。
自分の都合から出る行為って何かといえば、「親切心」です。
親切な人ってほとんどいないじゃないですか。本当に少ないですよね。
私は、自分の都合だけで人生を全うするのって、絶対違うんじゃ無い?と思える人が仏教徒になるような気がしてます。
私もひとり気を吐いて人に親切にしてきました。
見返りを期待してたわけはなかったのですが、親切にしてもしても相手の心が育たないので、徒労に感じます。
もう人に親切にするのも嫌になってしまいました。
私も自分の都合の中で生きていたいと思う時もあります。
仏教徒として強い心をもつ為にはどうしたらいいでしょうか。
教えてください。
2016年11月21日 (月) 17時44分 No.3615
少し混同をされているのかもしれません - yuu
>人間関係ってそもそも無いんじゃないか
こちらに関しては、私見になってしまいますが、
確かに人間関係という概念を作ってその上でそれについて考える場合にはただの概念ですので無いと言えます。他方では私たちは人間同士でコミュニケーションをとる事は現実で成り立っています。
したがって、事実としてコミュニケーションは成り立っていますがそれを人間関係と定義するかどうかは人それぞれです。

また、本質としてはここで無いような気もします。
質問者さんは個人個人の都合によって成り立っているのが、よく言われる人間関係で、でも個人の都合なら人間同士の関係とは言えないと言いたいと理解して応えます。
確かに質問者さんの言う通りです。そのような関係であればその関係は成り立ちえない(そのような関係であると気づいたらどちらかが離れると思います。)ので、すぐに崩れる、と思います。

個人個人のの都合だけなら、欲で周りが見えていないわけですから、お互いに奪い合う関係は長く続くわけがありません。

ですから、私個人の見解ですが、自分の欲でお互いにコミュニケーションを取るのではなく、自分の生命を維持するためにも、周りのためになる事に自分の行動を合わせる事が仕事という事になるのでは無いでしょうか。

納得できないかもしれませんが、自分の都合の定義が私と質問者さんで異なるからかもしれません。

またタイトルにあるように混同されていると言うのは、
>私もひとり気を吐いて人に親切にしてきました。
これについても私個人の見解ですが俗世間で言われる親切と慈悲の混同をされているかもしれません。
私はまだ慈悲についてどうこう言えるほど理解できていませんので下にURLを貼っておきますのでよかったら参考程度にどうぞ。

http://okanejuku.blog92.fc2.com/blog-entry-662.html?sp

質問者さんの悩み苦しみが無くなりますように。

2016年12月04日 (日) 15時33分 No.3616
追記 - yuu
やはり自分の言葉ではまだ誤解が生じる言い方が多いと感じましたので、質問者さんに似たような考え(と私が感じたもの)のURLを添付させてもらいます。参考程度にどうぞ
www.j-theravada.net/kogi/kogi82.html
2016年12月04日 (日) 15時33分 No.3619
結論 - ボン
yuuさん、回答ありがとうございます。
私も慈悲の心で人に親切にしてきたつもりです。
今言えることは、慈悲の心で人と接することも場所を選ばなければならないということです。
慈悲の心がどこでも通用するわけではないのです。
今自分のいる場所が慈悲の心で立ち振る舞うことで結果がついてくるのか、あるいは心ない人の集まりの中で徒労で終わるのかというところをよく見るべきだと思いました。
そこを見定めておかなければ、精神的にすごく疲れるのです。
今の結論はこうです。
自信はあります。
2016年12月05日 (月) 14時07分 No.3621
長文になってしまいすみません - yuu
ボンさん返答ありがとうございます。
今までも、今でも親切に接されている事は素晴らしいと思います。きっと真面目に行ってきたからこその悩みなのだと感じました。
ボンさんの結論が出ているということなのでこれ以上言う事はないのだと感じました。
そして、状況によって行動を変えるというのは本当にその通りで、私も分かってはいるもののなかなか気付きにくく実践できている事のほうが少ないです。私もボンさんの返答から学ぶ部分が出来て良かったと思います。
蛇足だとは思いますが、参考になれればということで最後に一つだけ残しておきます。(ほとんどはスマナサーラさんの言葉を借りて足し引きしたものですが)慈悲の心は実のところ生きていくには自然にあるべきものだと存じます。それは何か気を使うことではないのです。ですから、人に接するときの行動と慈悲はまた別の問題だと私は考えております。そのため、ブッダも接する人を選ぶように言われています。ですが、接しないからといってその人、生命に対する慈悲の心が無いのではありません。(慈悲と人との接する関係の比較はここまでにしておきます。)
ぜひとも、この違いを理解して、気遣いの束縛から放たれ、質問者さんの悩みがなくなりますように。
2016年12月20日 (火) 12時21分 No.3627


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