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生きとし生けるものが幸せでありますように。
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こよなき幸せ――「囲碁」などの学識・技術は・・・? - massa814スッタニパータ261
「深い学識あり、技術を身につけ、身を慎むことをよく学び、ことばがみごとであること――これがこよなき幸せである。」(中村元訳)
私事ですが、私は囲碁が大好きです。
仏教では、基本的に遊戯や娯楽などはあまりよくないとされているものと、私は理解していますが、ヴィナーヤ(律蔵)で、ソーナという弟子に、お釈迦様が彼が琴を弾くことが得意であることを知って、対機説法として、「もしお前が琴を弾くとき、張りすぎたり緩すぎたら、その音色は心地よいものになるだろうか。それと同様に緊張して努力しすぎるなら心は昂ぶり、反対に怠惰であっても、正しい境涯に達することはない」と仰られ、それを聞いたソーナは中道を悟って程なくして覚ったとあります。
囲碁の話になりますが、最終的な勝ち負けは取った陣地の比較になります。シンプル極まりないルールですが、そこにこそ他のゲームには類を見ない奥深さと楽しさがあります。
「昭和の棋聖」との呼び声高い呉清源先生は、こんな言葉を残しています。
「勝負の秘訣は、無理をしないことです。人間はだいたい、無理をしたいんです。というのは、欲望というものがあるから。誰でもみな、金持ちになりたいし、大臣になりたいし、権力の座につきたい。そこなんですよ。無理をして失敗するんです。欲張って失敗する。」
先のスッタニパータの「こよなき幸せ」の言葉ですが、中村元氏の註によると「深い学識・技術」は(のちの大乗仏教では)世俗の学問や技術に通じていることも意味するとあります。
これは、囲碁やチェス、楽器を弾くことや料理を作ることなどに精通することにも当てはまるのでしょうか?
以前、スマナサーラ長老のお書きになった法話か何かで、「ゲームは時間の無駄遣い・煩悩を強化する道です」というのを読みました。
その中で、長老は「将棋などのボードゲームの知識が、実社会において何か役に立ちますか?」と仰られていました。
しかし、この世の中で役に立たない知識はたくさんありますが、だからと言ってそれらを否定するのには私は反対です。
たとえば、素粒子物理学は?ユークリッド幾何学は?あるいは、古生物学は?
これらのことを真剣に、人生をかけて学んでいる人たちは、果たして自分の人格を高めることをしようとしない愚か者でしょうか?
このことについて、スマナサーラ長老や他の方々のご意見を是非お聞かせください。
全ての生きとし生けるものが、幸せでありますように。2014年03月13日 (木) 08時08分 No.2919
私も諦めきれないでいます。 - みや私は音楽が好きなんです。子どものころから…。
踊りなども好きです。
ですからmassa814 さんと同じようなことで悩んでいます。芸事に関しては「地獄に行きます」とお釈迦様がおっしゃったお話もあるんで、ショックを受けてます。
結論としては。私は、やはり良くない事と思っています。諦めきれないってことは、執着が絡んでますし。
確かに、何かを極めることはある程度なら人格を高めることが出来ると思います。スポーツ選手などは「筋肉のふくらみが…」なんて瞑想みたいなことを言ってることもあります。厳しい世界ですから、気付きもあると思います。
でも、やはり「ある程度…」までなんじゃないでしょうか?私は他の宗教なども同じだと思っています。
キリスト教徒の人も、結構良い人います(笑)将棋がすきでも音楽がすきでも、結構良い人います。ただ、その人がブッタになれるかと言うと…それはまた別の話ってことだと思うのです。
それから長老は否定などされてい無いように感じます。上手く説明できませんが…存在否定とは違う感じです。根本としては良くないことだけど、楽しんでいる人の存在自体は否定しないはずです。それに、多くの発言でその国の文化を尊重されていますよね。
知識については、手段に過ぎないと思っています。知識は自分を守る方法でしかないです。学ぶことは否定しませんが、それが苦しみをなくすかと言うと決してそうではないです。これは私のつたない経験上もそう思います。なので、もし知識にのみこだわる人がいたらその人は愚か者になると思います。
いずれにせよ私も悩んでいますので、他の方の意見が沢山聞きたいです。2014年03月14日 (金) 11時10分 No.2929
刺激的な回答ではないですが・・・ - 迷い犬長老も目的が気晴らしならば、時間的にその目的の範囲でやることは問題ないと述べられていました。
ただ、その範囲でやるというのには、強い人格が必要です、また、目的は良くても及ぼす効果に目がいかなければいけませんから、人格というか智慧がないといけません。
ポイントは、人格(智慧)、目的、効果、手段(知識・技術)ということになると思います。
そして、順番としては、通常、人格(智慧)で目的と効果を熟慮決定し、手段(知識・技術)の研鑽となりますから、あまりに研鑽に大きな時間労力が必要な場合、研鑽の結果、人格が高まるではリスクがあるように思います。
やはり、長老が何度も述べられているように人格を高めることを優先すべきではないでしょうか。2014年03月19日 (水) 09時16分 No.2954
感謝申し上げます - massa814みや様、迷い犬様。貴重なご意見をお聞かせいただき感謝申し上げます。
私もお二方のご意見に全く賛同いたします。
確かに囲碁などの遊戯・娯楽をやっている時は楽しいですが、それで生活上の問題が何か解決したかと言われると、そうではありません。
対してヴィパッサナーをやっているときは、心が非常に落ち着き、夜もグッスリ眠れるようになりました。
私は、スマナサーラ長老のご意見すべてに賛成しているわけではありません。納得できないところも多いです。しかし、スマナサーラ長老に助けて頂きましたご恩は決して忘れません。
今までの、テーラワーダとスマナサーラ長老に対するすべてのご無礼を心からお詫びするとともに、感謝を申し上げます。
今、スマナサーラ長老が序文をお寄せになっているマハーシ・セヤドー長老の「気づきと智慧のヴィパッサナー瞑想」(サンガ)を読んでおります。
ラベリング瞑想の源流まで遡って、いつかスマナサーラ長老を超えてやることを目標としまして、しっかり精進いたします。
今回はありがとうございました。また、他の方々も、遠慮なくドンドンご意見を書き込んできださいませ。
すべての生きとし生けるものが、幸せでありますように。2014年03月20日 (木) 09時10分 No.2956