日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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修行して仕事に支障はありませんか? - しょう
 こんばんは。私はブッダの教えを実践し、戒を守って瞑想修行をしている者です。

 ここ最近思っていることがあるのです。
 それは、自我が無くなり始め、執着が減り、こだわる事が少なくなって来た・・と、修行が進んでいくにしたがって、仕事に支障が出ないのか?という事です。

 仕事である程度のポジションに就いた時、自我を取り去った主義主張が無い上司だと頼り無いですよね?
 以前ならノルマや売り上げに躍起になっていたのが、それにこだわらなくなっては会社としては堪ったものじゃ無いですよね?

 ちょっと極端に書きましたが、やはり修行を進めるには在家だと限度があるのでしょうか?
 皆さんはそういった思いをした事はありませんか?

 ぜひ教えてください。お願い致します。
 
 
2011年10月15日 (土) 17時30分 No.1470
戒を守っているなら問題ないのでは - simauma
しょうさんが戒を守っているのなら問題ないはずです。

論理的に考えて戒を守っていない会社には勤められないはずですから。むしろその会社で一生懸命働けば働くほど善行為になるはずです。
自我や個人のちっほけな主義主張ではなく、より大きな観点の使命感から行動できるはずです。
それは精進ということになるのではないでしょうか。

しかし、万が一、戒を守っていないような会社にお勤めであるならば、頑張れば頑張るほど悪行為をなしているということになるのではないでしょうか?

ついでながら以前、五木寛之さんがカルロス・ゴーンさんについて言っていたことを思い出しました。
大規模なリストラで話題になったゴーンさんですが、実はゴーンさんは敬虔なキリスト教徒(確かカトリック)で、キリスト教徒は使命(ミッション)というものを大事にするそうです。
日産の改革を成し遂げたゴーンさんの力の源はそのエゴを超えたミッション、使命感だというのですね。
つまり自我に基づく力より自我を超えた力の方がポテンシャルが高い、というのが五木さんの主張であったように記憶しています。
ひっかかる所もありましたが、なるほど、と思った記憶があります。

ご参考になれば幸いです。

2011年10月17日 (月) 14時27分 No.1472
しょうさんへ - いづる
俗世間で生きるためには貪瞋痴が必要ではないか?なくしてしまっては自分の身が危ないのではないか?というふうに読み取ってしまうのですがどうでしょうか?

ご参考までにいくつかご紹介させて頂きます。

仏陀と共に歩むみなさまへ
~総会終了の際の挨拶~

仏教は社会の迷惑ですか?

 今日のウェーサーカ法要は、午前中からの聖なる仏教儀式と、日本の世間にあって我々が協会をどう管理すべきかを話し合うこの総会という、聖と俗に分かれました。聖も俗も必要であって片方ではいけません。
 三、四年前の話ですが、仏教が欲の無い世界や貪瞋痴のない境地を語っていることを取り上げて、「あんた方は社会で役の立たない連中ではないか、社会では貪瞋痴がなくては活動できない。だから仏教は迷惑だ」と質問してきた人がいた。その人に対して、私は逆に「貪瞋痴のあるあんた方こそ迷惑だ」と反論しました。会社を興して、必死に頑張っているのに倒産させてしまう。社員は法律違反のサービス残業までしている。タダ働きで残業させるなんて、泥棒と同じです。無能な社長や経営者のために、人の時間を泥棒までして、挙句の果てに倒産する。それは彼らが仕事のやり方を知らないからです。仏教が教える不貪・不瞋・不痴とは「智恵の世界」です。しかし、「仏教徒になったから、もうご飯を食べなくても良い」ということではないのです。肉体を維持するために食べなければいけないし、家族・親戚の面倒を見て、家を守らなければいけない。俗世間の活動は決して無視できないし、無視すべきものではないのです。

釈尊は成功の秘訣を説く

 お釈迦さまは社会生活の様々な課題を見事に解決できる方法をアドヴァイスされています。在家の人々がどの様に財産管理をするべきか、家庭を持っている人はどのように家族の面倒を見て管理するのかということを、明確に教えています。そんな長々とは書いてない。みんなチラッと経典を見て、「仏陀は出世間のことしか説かれなかった。出家のことしか語ってない」という。経済学者が書いた役に立たない本ならば無数にあるから、その感覚で見ているのです。釈尊が家庭や経済や社会生活の管理について述べたくだりは、二、三行で終っています。それで充分だからです。

 だから、釈尊の教えを実践する人々には、他の方々よりも立派に会社を発展させて、家族も見事に幸福にして成功した人生を送って欲しい。たいして難しくありません。一つ秘密を教えるならば、「自分のサービスを必要なものにする」ことです。ちょっとした心構えで、自分の仕事が、会社組織にとって「この人は欠かせない人材だよ」いうことになります。それには、ただ「明るさ」があるだけでも充分です。流れ作業で同じことをする職場ならば、一人ぐらいクビになってもどうということもない。しかしその人が明るさを持っていて、みんなを巧くまとめる。これだけで首は切られないのです。

あなたの大切な「業」を活かす道

 そうやってそれぞれの人がかならず、何か必要とされる資質を持っています。それが業です。相当な業があったから、人間に生まれたのです。「業」と聞くと、何か悪いことを話しているように思うでしょう。そうではないのです。善業がないと人間には生まれません。過去世で相当な善行為を各自でなさったからこそ、人間に生まれているのです。我々は死ぬまで何の問題もなく生きていられるような業を持って生まれてきている。これを蝕んでゆくのが、貪・瞋・痴なのです。いくら高価な服でも虫食いになったり、汚れが付いたりすると価値がなくなってしまいます。我々の大切な業は傷だらけで、虫が食って穴だらけなのです。

無執着こそが成功の鍵

 仏教の世界では、結婚してはいけないとか、子供を捨てろとか無茶なことは言っていない。ただ「執着するな」と言っているだけ。執着するとバカになって、感情的になって、ろくに子供の面倒も見られなくなってしまいます。結婚相手に執着すると、極端に感情的になって自分のワガママしか見えなくなってしまう。それで家庭が壊れるのです。せっかく一緒になると決めたのなら、慈しみを持っていたわりあって、相手の気持ち考え方も理解しあって、一人の独立した人間として尊厳を守っていれば、これは執着ではないのです。それで巧くいきます。経済活動でも、家庭生活でも仏陀の智恵を導入してみれば、何一つ問題を起こすことなくスムーズにいくのです。それが仏陀の教えです。

 今まで私がしゃべったことを仏教に関係ない、冥想に関係ない、悟りに関係ないという風に取らないでください。みなさまも社会の中でどう巧く生きるべきかという智慧を、仏陀の教えから学び取れるところは全部学びとって、使えるところは全部使って生きて欲しいのです。必ず人生は巧くいきます。

http://www.j-theravada.net/howa/howa113.html

また、こちらもご参考になると思います。
24.ストレス完治への道
(3)感情の入れ替え


貪瞋痴を入れ替える

 さて心が落ち着いたところで、次に発見すべきものは、「貪瞋痴がなくても仕事はできる」ということです。お金を儲けるぞと踏ん張らなくても、他社や他人にライバル意識を燃やして勝とうとしなくても、仕事はできるのです。むしろ貪瞋痴がないほうが効率がいい良い仕事ができるのです。

 この貪瞋痴がないエネルギーを「不貪、不瞋、不痴」と言います。これからこれら三つのエネルギーについて具体的に説明いたしましょう。


http://www.j-theravada.net/kogi/kogi135.html
ぜひ全文をお読みになってみて下さい。

また、‘出家’の意味について真剣に学びたいということであれば協会販売DVDに
『お釈迦さまは、なぜ「出家」されたのか?
~「俗世」と「出離」の微妙なボーダーライン~』
仏教を学ぶ人なら一度は疑問を感じるであろう「出家」の問題について。
釈尊があえて「出家」の道を選ばれた理由とは?(2009/04/26 収録)
注文番号DVD:V-197

というものがあります。非常に勉強になります。

最後に
>仕事である程度のポジションに就いた時、自我を取り去った主義主張が無い上司だと頼り無いですよね?
について、ご参考になると思われる長老のQ&Aをご紹介します。

『偉大なる人の役に立つためには』
質疑応答(24分35秒~)
Q.ブッダが(アーナンダ尊者)に与えた5つのタイトルのうち、性格者第一ということで、他人の気持ちに逆らわないということがありました。また勇敢第一ということで、優柔不断の反対で決断力が強いということでしたけれども、俗世間的にリーダーというものを考えた時に矛盾してしまうように思えるのですが?
A.それは能力がない人の場合です。能力のあるリーダーが、ものすごい柔軟性を持って自分の道をちゃんと導くんです。例えばリーダーとして命令しなくちゃいけないでしょ?下手なリーダーはこれこれやりなさいというんです。上手な能力のあるリーダーは実はこういう問題がありましたので、私はこの場合はこうした方が良いんじゃないかなぁと自分は考えてますけど、いかがでしょうか?と。こっちはどうせリーダーだからむこうにはどうせそんな案が出ませんね。ただそれはその通りですよ、ではやりましょうと。それで終わり。だから相手に命令してないんです。かなり調和を作っちゃうんです。いわゆる、やらせるんじゃなくて、やる気持ちにさせるのがリーダーなんです。やる気持ちになったら自分の意思でやってるんです。俗世間ではみんなに能力があるわけじゃないんだからそこらへんで結構ぶつかったりはしますよ。それは私の管轄外です。一応やりかた教えるだけで、私は。分かりやすい例で言えば私は一度でも皆様に命令したことがありますかね?色々やらせてるでしょうに。


ご参考にされて下さい。
幸せでありますように。
2011年10月17日 (月) 14時27分 No.1473
こんばんは。 - しょう
simauma様、いづる様、返信ありがとうございます。

私の勤める会社は戒に背くような会社ではなく、そのような仕事内容でもありません。これについては問題無しです。
また、俗世間で生きるために貪瞋痴が必要だともあまり思った事はありません。逆に、やはり三毒は無い方が生きやすいと考えているぐらいです。


今私は、会社の中で責任者として一つのグループを任されている立場にあります。
以前ならリーダーシップを取り、数ある作業方法から良いものを選び、それを皆に伝え、指示して仕事をこなしていました。もちろん強制的な指示、命令は出しておりません。
作業ノルマも多少無理してもやりとげ、会社の利益になるように頑張っても来ました。

がしかし、最近は作業方法もあまり自分から主張する事がなくなり、部下の出す方法が極端な間違いでなければ「ま、いいだろう」と認めています。もちろんこれ自体は悪い事では無いのですが、私が口を出さないのが分かると、他の部下が違う方法を主張し出し、部下同士で意見が分かれて作業効率が悪くなります。
しかしそれでも私は「ああだこうだ」と言う気になれず、「色んな方法があるのだからそれも良いだろう」と客観視してしまいます。
・・で、その結果、どうも「最近の○○さん(私の事)、頼り無いしダメだね」と部下に言われているようです。(苦笑)

ノルマの方も、以前なら躍起になって自分を犠牲にしてまでもクリアしてきたのですが、最近は「なるようにしかならない」という感じです。
確かに以前感じていたストレスや苦しみは無くなりましたが、その分ノルマを達成出来ない事も増えました。


ちょっと具体的に書いてみましたが、皆さんは修行していてこんな経験はありませんでしょうか?

現在私は趣味をすべてやめ、仏教一本(?)で生きています。(もちろん仕事以外での事です。)
仕事が終わった帰宅後や休日は、瞑想と経典、仏教書を読む事に費やしている状態です。

私の中で修行は進んでいるように思えるのですが、仕事だけは後退しているような気がします。いっそ、ただの一従業員として働けるような所に転職しようかとも考えています。

在家の限界というものはやはりあるのでしょうか?
2011年10月20日 (木) 15時12分 No.1476
しょうさんへ - simauma
私も以前、責任ある地位ではたらいておりましたが、現在は諸処の事情(決して仏教的な理由ではありません)により、他産業で一従業員として働いております。

確かに一従業員の立場というのは気楽ではありますが、それは単に程度の差であり、会社や社会に対する責任や同僚や顧客との人間関係は責任者の時と同じように存在します。

責任者の立場から一従業員の立場になるということは仕事の本質が変わるというよりも、その種類や量、難易度が変わるのだろうと考えております。
そしてその種類や量、難易度は自分の性質や器に応じて受け入れればいいのだと思います。

私が責任者の立場を去り、他産業で一従業員として働くことになったのは単にその仕事をこなすための能力、器量が私になかったためであり、修行云々のことはまったく関係なかっただろうと思います。
むしろ、もっと早から修行をしていればリーダーシップを発揮して部下を統率し、効率よく仕事をこなし、会社にも社会にも、同僚にも貢献すことが出来たのではないか、とさえ考えています。

しかし、私がその責任者の立場を去った後、私よりはるかに能力のある人がその地位に就きましたので、結果的に私以外の人にとっては良かったという皮肉な結果となったわけです。

当時を振り返りますと、もっと前から修行をし、仕事も頑張っていれば自分にとっても周りの人たちにとっても良かったのに、と悔やむ気持ちもないではありません。
もちろん、今の安穏な暮らしも捨てがたいのですが、そこには多分に怠け心が含まれているような気がします。

さて、現在の修行と仕事の関係でいえば、修行を重ねるに従って仕事も職場の人間関係もこだわりがなくなり、スムーズに進むようになってきたように思います。
しょうさんとは反対ですね。

在家の限界ということについては、
私には下記が参考になりました。

http://space.geocities.jp/tammashart/t2-zaitakusyukke.html

http://space.geocities.jp/tammashart/t2-roudousya.html

幸せでありますように
2011年10月23日 (日) 13時33分 No.1482
しょうさんへ - いづる
ご存知かもしれませんが、一応引用します。不還果までは在家で可能だが、在家阿羅漢は無理という話です。

「在家阿羅漢」は無理

 不還果までは何とか淡々と日常生活や経済活動を勤めていけますが、阿羅漢になると、もうダメです。淡々とさえも、日常の家庭生活や経済活動などの関係が営めなくなります。阿羅漢は出家者として、どんなしがらみからも自由で、どんな生命にも平等な立場でないと生活できないのです。不還まで在家で頑張っていた人、あるいは独自に修行していた人がもう何人も、阿羅漢果に達する時には、もう我慢できなくて家を飛び出して釈尊の所に行って出家を願い出て認められました。そんなお話が、幾つもお経に残っています。

 ある人の場合、不還果に達していたのですが、釈尊にお会いしてお話を聞いた途端に阿羅漢果に達し、すぐに出家を願い出、許可されました。出家者はゴミ捨て場などからボロ切れを集めて縫い合わせた糞掃衣を着用します。それを自分で作るようにと言われてボロを探している途中、その人は暴れ牛に跳ねられて死んでしまいました。身寄りもありませんでしたので、その人の遺体を釈尊が火葬して、お墓まで作られました。こんな「入門前」の人のためにどうして? とお弟子さんたちが驚きますので、この人は阿羅漢だよ、と釈尊が教えてあげました。
 このケースのように、衣などを準備したり受戒して正式に出家する前に既に阿羅漢果に達していた場合さえあるのです。

 そのためでしょうか、現代の学界では「出家して入門する前から、在家のままで阿羅漢になることもできるはずだ、阿羅漢果だけは出家しないと達せられないというわけではない」と「在家阿羅漢」もあり得ると見ていますが、どうもポイントがずれています。

 仏教では「出家しないと阿羅漢になれない」などと、悟りを目指す修行者の形式や資格を問うているのではありません。「阿羅漢になる時は、また、阿羅漢になってしまったら、出家しないといられない、在家ではいられない」と、心が完全に執着から離れてしまいますので、在家生活が営めなくなることを言っているのです。形式にこだわって言っているのではありません。

 修行は在家でも出家でもできます。悟りの段階を進むにも、何の差別もありません。ただし、阿羅漢になったら在家ではいられません。何よりも、出家の方が在家生活のしがらみに妨げられないので、修行に専念し易いです。また出家するだけでも、これまでの生活と縁を絶つ覚悟と決心が必要ですから、同じ人でも在家の時よりは心も強く立派になっていると考えられます。さらに、出家すること自体が、仏法の興隆のために一生を捧げることですから、大変功徳のある行為です。

http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html

それでは、僕からはこんなところです。
幸せでありますように。
2011年10月23日 (日) 13時33分 No.1487
Re - ぱん MAIL
支障はあると思います。少なくとも私にはあります。同じような悩みを抱えている人がいて、少し安心しました。あまり過激なことを書くと掲載されない恐れがありますから、今回はこの辺にしておきます。本当になんとか、この問題はどうにかしてほしいと祈ります。
2011年10月23日 (日) 13時34分 No.1489
皆様へ - しょう
simauma様、いづる様、ぱん様、返信ありがとうございます。

一年前は、在家でも出家に劣らず修行して結果を出してやるゾ、と意気込んでいましたが、今はやはり、在家での限界を感じ始めています。


「阿羅漢になる時は、また、阿羅漢になってしまったら、出家しないといられない、在家ではいられない」
阿羅漢には程遠い私ですが、この言葉にすごく共感します。
たまらずに家を飛び出してしまう気持ちにも・・。

ブッダ在世の時代背景ならば、私も出家を願い出たかも知れません。(笑)
一家の主としての責任をある程度果たしたら、仕事を変え、生活を考え直したいと思います。

皆様の考えを聞かせていただき、ありがとうございました。


合掌。
2011年11月04日 (金) 00時02分 No.1495
形にとらわれない - らん
とらわれがないということは、問題を引き起こす「自我」もない、ということです。従って、「協調性」「正見」により、職場においては問題は起こらないのではないかと思います。たいがいの問題は「わがまま」に起因しますから。

利益をあげなければ会社の上の立場の人間に責められるでしょうが、とらわれのない状態ですから、しかられようが褒められようがなんとも思わないでしょう。たとえクビを宣告されようが、「そうか」という感想程度で終わるのではないかと。

在家と出家を分け隔て「こちらがよい」と選択するには「基準」が必要です。ありのままみるだけの阿羅漢に「何かをとる気持ち」はないでしょうから、「出家をとる」という気持ちすらないのではないかと思います。

在家ではいられない。それは、在家で生活していても、生活自体が出家に近づくことであって、「世間」を出るか否かではないのではないかと推察します。
在家であっても必要なもの以外に物をもたず、こころにとらわれがなければ、それは「出家」と形の上でしか違いが存在しません。在家で入られないというのは、欲を求める生活ではいられない、という程度であると個人的には思います。


2011年11月04日 (金) 00時02分 No.1505
らん様へ - しょう
返信ありがとうございます。

私も、職場においての人間関係には何も問題は無く、むしろ良好になっていくと思っています。

私が在家の限界を感じ問題にしたのは、
『利益をあげなければ会社の上の立場の人間に責められるでしょうが、とらわれのない状態ですから、しかられようが褒められようがなんとも思わないでしょう。たとえクビを宣告されようが、「そうか」という感想程度で終わるのではないかと。』
・・という、ここの部分です。
これ、クビを宣告されるようでは、在家としてはやはり問題ですよね。(苦笑)
そういった事で、私も限界はあるのかな?と感じ始めています。

在家としての生活を出家に近づける事は出来ても、やはり出家と同等にはならないのだなと思いますね。


ありがとうございます。

合掌。
2011年11月05日 (土) 11時59分 No.1511
蛇足ですが - らん
蛇足かもしれないですが、

「クビを宣告されるようでは、在家としてはやはり問題」

これは、しょうさんの価値観ですよね。在家として何が問題かと考える内容は人それぞれかと。

そもそも、「在家」という概念自体が「つくられたもの」ですから、在家の定義の数だけ「在家として何が問題となるか」もかわってくるはず。

阿羅漢に「生」を望む気持ちも「死」を望む気持ちも「保有」する気持ちももはやないでしょうから、「在家」もクソもないと思いますよ(言葉が汚くてすみません)。

痛いなら痛いだけ。腹が減れば減っただけ。苦痛を感じても感じたままでしょう。それを傍から見たどうこういっても、それは外野の人間が妄想して言うだけでしかありません。

そもそも阿羅漢の境地自体がなってみなければ分からない部分が大きいでしょうから、この議論自体が無駄、そんなことを言っている暇があったら修行しろという話でしょうが(笑)。

失礼しました。




2011年11月09日 (水) 14時27分 No.1518
Re - ぱん MAIL
仏典を紐解くと、以下のようにあります。


 眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、かれの出家をわれは述べよう。
「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。

中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』第三 大いなる章、一 出家


だから、在家は不自由である可能性は高いのです。

以下蛇足かもしれませんが、ただ、郷に入りては郷に従え、ともいいます。2500年前の言葉を、印籠のように提示しても、通用しない場合もあります。印籠は、江戸時代に、水戸黄門のお付きの人々が提示するからこそ、皆がひれ伏すような威光が備わるのです。今は、印籠よりも、パトカーに乗ってきた人が、警察手帳を提示する方が、迫力があるのだと思います。「警察だ」といいつつ、印籠を提示してきたら、どう思いますか? 

そう考えると、仏典にはこうありますが、実際はどうでしょうかと、現在の仏法僧に確かめる必要があると思います。ですから、上の方でスマナサーラ長老が、出家とは何かについて、説法が引用なさってくださっている方がいますから、そちらも読まれると、今の、的を得た答えが見えてくるのだと思います。
2011年11月09日 (水) 14時27分 No.1521
度々ありがとうございます。 - しょう
らんさん、失礼ながら少し意味を違って取られているかも知れません。
仕事がクビになった時、私自身は問題にしていなくても、家族の立場からしたら、それでは路頭に迷ってしまう訳で堪ったものではありません。それを考えた時、在家での限界を感じるのです。

残された家族の事などお構いなし、とはいきませんからね・・。



「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。

・・やはりブッダも在家には煩いがあって不自由だと感じたのでしょうね。

今現状私の考えは、とりあえず今の仕事を勤められるだけ勤めて、その後、出来るだけ出家に近づけられる生活スタイルに変えていこうかと思っています。
日本での完全なる出家は無理ですから、郷に入りては郷に従う『現代版出家』を見付けたいと思います。(笑)


皆様、ありがとうございます。

合掌。
2011年11月10日 (木) 15時19分 No.1526
落ち込み状態 - ぱん MAIL
『ブッダの実践心理学』第二巻p332~334に、以下のようにあります。


 悟りの心が生まれる前、人はだいたい、徹底的に落ち込んでいます。普通の人間には堪えられない、極度の落ち込みに陥るのです。だから長い間修行をしてしっかりした人間になって、性格が力強いものになって、人間としての基本ができたところで、本当のものが見えてくるのです。恐ろしいものを見る前には、「恐ろしいものを見ても大丈夫」と言えるだけの精神的な準備が必要なのです。

(中略)

 その落ち込みは、この世の中で誰にも治すことはできません。普通の人は絶対に経験しない、手も足も出ないような状態です。生きていきたくないし、死にたくなる。その瞬間に、諦めの心が生まれるのです。
 だから誰がいつ悟るか、予想できません。真面目に修行すると、それを客観的に観察すれば、だいたい分かります。分かると言っても、いい加減なことは言えないのですが、人の状態を見ると、「だいたい落ち込み状態に入った」と、一応、分かります。その時は修行者を大事に守ってあげないといけないのです。そろそろ悟りますから。
 でもそこで失敗すると、また逆戻り。また始めからやり直しです。誰かが来て、「こんなこと止めて遊ぼう。美味しいもの食べよう」などと誘惑したところで、「ああ、そう」と乗ってしまうと、究極まで高くなった心が、また消えてしまいます。ヴィパッサナー経験のカルマはなくなりませんが、悟る準備が消えるのです。
 ハンマー投げで飛距離を伸ばすためには、身体の力を全部集中して、手を通じて

(中略)

 ヴィパッサナーをどんどん訓練すると、この、心の落ち込み状態が出てくるのです。全てが徹底的に変化していると分かり、無常が見えて、生滅変化が見えて、どんどん落ち込んでやる気が消えて、恐怖感、嫌な気持ち、分かり易く言えば、極度の落ち込み、究極の落ち込みが出て、それで、何かの瞬間に心が変わってしまう。それで、今までの落ち込みはウソのように消える。それからその人は冷静に、感激することもなく、落ち込むこともなく、落ち着いている。「無常だ。もう追いかけなくていい。求めなくていい」という最初の「諦めの心」が生まれるのです。
 それからその人は求めません。生きていきたい、という渇愛は消えてしまったのですから。もう聖者の流れに入ったのです。その人だけ、自然に進化します。進化する方向にしか道がない。もう堕落はないのです。だから「確実に進化の道に入った」と言う意味で、預流道 sotApatti-magga と言うのです。

2011年11月10日 (木) 15時19分 No.1530
ぱん様。 - しょう
『ブッダの実践心理学』という本にすごく興味を持ちました。
一度手に取って読んでみたいと思います。

ありがとうございます!
2011年11月11日 (金) 13時43分 No.1531
Re - ぱん MAIL
今は余裕がない時なので、失礼や無礼があるかと思いますが、どうかご容赦ください。上に引用いたしましたように、「悟りの心が生まれる前、人はだいたい、徹底的に落ち込んでいます。(中略)普通の人は絶対に経験しない、手も足も出ないような状態です。(中略)その時は修行者を大事に守ってあげないといけないのです。」『ブッダの実践心理学』第二巻p332~333とあります。今が「その時」だとしたら、修行者はどのように守られるのでしょうか。
2011年11月14日 (月) 17時52分 No.1534
こんばんは - しょう
ブッダの実践心理学を手に入れました。
6巻まであるのですね。

順に読んでいきたいと思います。
2011年11月15日 (火) 15時10分 No.1540


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