日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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生きとし生けるものが幸せでありますように。

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慈悲の瞑想の文言について - あき
慈悲の瞑想
私が幸せでありますように。
私の悩み苦しみがなくなりますように。
私の願い事が叶えられますように。
私に悟りの光があらわれますように。

とありますが、
『…ありますように。』
という文言を
『になります。』ないし
『であります。』ではダメなのでしょうか?

『ありますように』という文言では
心の中で唱えれば唱えるほど
「今は幸せではない事
 今の悩み苦しみについて
 今の願い事がかなっていない事について」
という事を意識してしまい、ドンドン暗くなり
慈悲の瞑想が苦しくなってしまいます。

慈悲の心をつくるための慈悲の瞑想で苦しく感じてしまいます。

よいアドバイスがあればおしえてください。
よろしくお願いいたします。

2011年01月14日 (金) 14時21分 No.952
あき様へ - 才木広之
私も一度だけ、あなたの提案されていることと、同じことをしました。

危険ですから、止められることを望みます
2011年01月17日 (月) 12時40分 No.955
あきさんへ - 分度器
慈悲の瞑想によって、なんとも言えない慈しみに溢れた気分が単純に得られると勘違いしてらっしゃるのではないでしょうか?

実際は、慈悲の瞑想をしたがらない心に対して失望するのが普通だと思います。
ただ、慈悲の瞑想をすることにより、少しずつ他人を呪っていた時間や労力を自分のために使えるようになり、少し不幸が減ることを励みに皆さん頑張っておられるのだと思います。

また、ドンドン暗くなり慈悲の瞑想が苦しくなるのはみんな同じなんだけれども、頑張れる方は昨日よりも長くできた、集中できたことを喜び明るくやっているのだと思います。
そして、その結果として慈しみに溢れた気分が得られる。

「今は幸せではない事」という曖昧模糊とした思いに囚われず、慈悲の瞑想に集中できないという具体的な悩みに挑戦することが大切です。

とは言っても、私達が自身の不幸の本質的理解とその克服のプロセスを理解できない以上、「今は幸せではない事」から離れ「慈悲の瞑想に集中しなさい」と言われてもごまかしのように聞こえるのも事実でしょう。

結局、無知な私達にとって行動の土台になるのは、小さな成功を繰り返してきた経験にもとづいた確信なのかと思います。

その経験を得るために、歩く瞑想などやりやすいものに集中やってみてはどうでしょうか?

あと、『になります。』は暗示ですし嘘ですからやめた方がいいと思います。
2011年01月17日 (月) 12時40分 No.956
あき様へ - いづる
まずは僕の能力範囲でコメントさせて下さい。
慈悲は正見から説かれたものだそうです。ですから真理を発見していない未熟な我々は、自分の幸福を願うならば、ブッダの教えを我々の都合で捻じ曲げるのではなく、出来る限りブッダの教えの通~りに実践するよう励むべきなのだと思います。

>『…ありますように。』
という文言を
『になります。』ないし
『であります。』ではダメなのでしょうか?

ということですが、
①『になります。』
としてしまいますと、それこそあき様が仰った「今は幸せではない事」が前提となってしまいませんでしょうか?なぜなら論理的に言えば、幸せに‘なる’ということは、‘今幸せではない状態’から幸せな状態に‘なる’ということだからです。しかも「私は幸せになります」や「生きとし生けるものが幸せになります」などといった文言は客観的な真理ではありません。
②『であります。』
としてしまいますと、その文言も真理ではなくなってしまいます。「生きとし生けるものが幸せであります」は真理ではありません。幸福は生命によって様々であり、しかもそれは移り変わっているものだからです。
ここまでが僕の文章です。

次に、スマナサーラ長老のお言葉で、ご参考になると思われるものがありますので、コピペさせて頂きます。少なくとも所々あき様のご参考になる部分があると思います。


> 2. 「慈悲の瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」は矛盾しないのでしょうか?つまり、「~ように」と言う言葉を唱えるということは、「欲」にはならないのでしょうか?
 
矛盾はありません。欲にもなりません。慈悲について書いてあるところを斜めでもいいから、少々お読みなれば私は楽だと思います。
 
「見返りを期待しない優しさはどのように欲になるのかとこちらが教えてもらいたいのです。
慈悲のこころがなければ、この世でvipassanaも語れません。(無知で、頑固で、我侭で、苦しんでいるのにも拘わらず認める勇気もない、理解もしようとしないのに反対だけをする、思考はあべこべで、善は悪だと、悪は善だと誤解している、聞く耳さえも持ってないこの俗世間の人々に眼が覚めるように語ることは楽だと思って欲しくない)
 
「欲」になるかならないかはそのその人の主観の問題です。慈悲の問題ではありません。欲の人はこれも一つの商売だと思っているかも知れません。それは清らかな慈しみではないので、決して自分にとって良い結果も(心の安らぎ)得られないと思います。
 
「唯、相手が幸福になれば、充分です。それで終わりです。」と言純粋な気持ちは慈しみです。
 
虫歯で苦しんでいる人には煎餅を食べると痛くてたまらないのです。だからと言ってケーキを食べても痛いのです。悪いのは煎餅でも、ケーキでもなく食べる人の口の中です。したがって、慈悲は欲になりません。
 
Sumanasara
http://www.j-theravada.net/qa/qahp37.html

Q: 慈悲の瞑想の中に、「私の願い事がかなえられますように」という言葉がありますが、「願い事」が貪瞋痴につながるような場合には、この部分を抜かした方がいいのでしょうか。自分の場合は、たとえば、「知識を増やしたい」というような欲がまだ残っているようなのですが、これは貧か痴だとも思います。

A: 慈悲の実践は人のこころを真理へと導かせるための手法です。ものごとをややこしく考える人は、ただ妄想しているだけで、理性に基づいて何かを考察しているわけではありません。ですから、先ず慈悲とは何かを理解して欲しいのです。

 真理、事実、本当のことというものは、とても単純で簡単なものです。生命は基本的に単純に出来ています。妄想のせいで訳がわからなくなって、混乱の苦しみのどん底に陥って困っているのです。単純に考えましょう。

 すべての生命は「自分が幸せに生きていたい」とこころの底から思っているのです。ミミズもゴキブリも不幸にはなりたくないのです。しかし、本来の無知のせいで問題が起きるのです。「私は幸せになりたい」という気持ちだけが優先されて、他の生命のことはどうでもいい、関係ない、と思ってしまうのです。この自己中心的な感情は、幸せではなく不幸を招くのです。また自分のために、他にさまざまな害を与えたりもするのです。他に害を与えることで、結局は自分が害を受けることになるのです。幸せを願っていた生命にとっては納得がいかない結果ですので、また同じことを繰り返して他に害を与える道を歩むのです。その果てに、他人のせいで自分が不幸になっていると思って、破壊的な行動までするのです。無知のせいで、「幸せになりたいのは自分だけではありません」という事実に一向に気づかないのです。
 人は怒った時点で道から外れているのです。単純に考えることです。私だけではなく、皆幸せを願っている、と。だから、「私が幸せでありますように」と先ず確認する必要はあります。それがおかしいと『余計な』ことを考える人には、それなら「私は不幸になりますように」と願ってみなさいと言うのです。

 「私の幸せをさておいて、人の幸せを願います」と善人面をかぶっている偽善者もいます。また、混乱に陥って、自分が幸せを願って生きているのかどうかはっきりしない人もいます。だから、先ず「私は幸せになりますように」と確認するのです。論理は簡単で単純です。全ての生命は幸せになりたい。私も幸せになりたい。もし誰かが、私の幸せに害を与えたり、邪魔をしたりするなら、その人は私の生きる権利を奪おうとしている。

 ここで、いさぎよく、他人の権利を認めるのです。自己中心的な愚か者になることをやめるのです。他にも生きる権利がある。それは当たり前だと理解して実感していく道です。偽善をやめる道です。「慈悲は当然な気持ち」だと理解する。「エゴは罪」だと理解する。そういうことで、『慈悲』というのは生命に対する真理、事実であることを単純に理解してこそ正しい冥想実践になるのです。狙いは、エゴ、自我という錯覚を破ることです。成功すれば簡単に解脱へ進むことも出来ます。

 それから、「私の願いごと」について考えましょう。智恵がなく無知に支配されている『私』は、私にとって何が良いことかをわかっているのでしょうか? 子供は、勉強ではなく一日中遊ぶことだけできれば幸せだと思ってそれを願っているかもしれませんが、それは本当に叶うべき願いでしょうか。「願いごとが叶えられますように」と言うときには、欲に基づいた、エゴに基づいた願望、希望などをあれこれとイメージしません。それでは冥想でなくなってしまいます。いつも大雑把に、「私が本当に幸せになるはずの願い」というような気持ちでやるのです。

 正しい立場で「私の願いごとは」と念じると、具体的に思っている希望などが失望になることもあり得るのです。しかし、後になってから、必ず、叶わなくて良かったと思われることになると思います。とにかく、慈悲の冥想の三番目の行は、欲とエゴを育ててしまう方向へ持っていってはいけないのです。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon69.html

少しでもご参考にして頂けましたら嬉しく思います。紹介したものの他にも慈悲についてはスマナサーラ長老が数多くご説明をされています。その中であき様にぴったり分かりやすいご説明もあるかもしれません。それでは、あき様が日々幸福の道を歩まれますことを願っております。
幸せでありますように。
2011年01月17日 (月) 12時40分 No.957
あき様へ、追加です。 - いづる
スマナサーラ長老のご説法より引用させて頂きます。
February 23, 2008, 10:19 pm
ང 2/17 関西定例瞑想会@住吉武道館③
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/510550.html
(2つめの法話の5分8秒~)


気を付けてほしいことは、慈悲の瞑想する場合は何も雑念心に割り込まないように、ただその言葉だけ頭いっぱい回転させてください。その時もあれやこれや考えていると瞑想にはなってないんです。慈悲の瞑想するその短い時間だけ心にほかの雑念は入らないように。その言葉だけ回転させる。それで確実に人は変わっていきます。

ご参考にして頂ければ嬉しく思います。
それでは、幸せでありますように。
2011年01月23日 (日) 18時33分 No.975
離欲の随念 - 太郎
慈しみの随念で、
私は怒りのない、憎しみのない存在でありますように
安楽に過ごせますように
生きとし生けるものが怒りのない、憎しみのない存在でありますように
安楽に過ごせますように
という文面があります。
それを欲から離れるためにも使いたいと思い、
私の欲がなくなりますように(または欲のない存在でありますように)
安楽に過ごせますように
生きとし生けるものが欲のない存在でありますように
安楽に過ごせますように

と念じても問題ないでしょうか?
2023年10月29日 (日) 21時30分 No.5904


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