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想念の力・信念化について - 伊東
はじめまして。 伊東と申します。
よく、自己啓発書等で、「想念を繰り返すと信念(確信)にいたり、それはやがて現実化する」と書いており、また、「イメージングで病気が治った」とする話も聞いたことがあります。これらのいわゆる、「想念・信念の力」について、仏教ではどう捉えているのでしょうか?やはり、単なる妄想、でかた付けられてしまうのでしょうか?もし、効果があるのなら、試してみたいなあ、と思うのですが、もし「ただの妄想」だとしたら壮大な時間の無駄使いになりそうで、怖い、というか嫌です。どなたか知っている方がいらっしゃったらおしえてくださいませんか?よろしくお願いします。
2010年12月16日 (木) 15時27分 No.903
伊東様へ - いづる
ご参考になると思うものをできる範囲でご紹介します。

まずは、『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』より引用ささせいただきます。

瞑想体験は誤解し易い
 仏教ではどういう基準で四十種類のkammatthana(パーリ文字は入力できないので、アルファベットだけ)を選んだのでしょうか?瞑想の世界は最も誤解が生まれ易い世界だから、絶対に誤解が生まれない瞑想対象だけを厳選したのです。
 例えば有能な催眠術師がいきなり、「この部屋の中にライオンがいます」と暗示をかけてしまうと、暗示をかけられた人は、そこにライオンがいるかのように怯えたり逃げようとしたりしてしまうのです。その場合は、その人の自我意識の機能が低下して、別の人にコントロールされて認識してしまうのです。暗示にかけて、生まれる前の母胎にいる時の状態を体験させたりすることも、簡単にできます。
 いもしないライオンがいるのだと、目で見て認識して怖くなるその体験は何なのでしょうか。本当はライオンなんていない・ウソなのですが、自我意識がない時の経験は、ウソか本当か、知る方法はないのです。ウソかホントかを判断する「自分」がいないのですから。暗示をかけた人に、「これは火傷するくらい熱いですよ」と言って冷たいジュースを触らせたら、本当にいくらか火傷してしまう、そのくらいの力が心にはあるのです。体験がウソかホントか、本人にも知る方法がないのです。
 だから瞑想をする場合は、細心の注意を払って気をつけなくてはいけません。例えば「マリア様を見ましょう」と一生懸命頑張って瞑想して、それで何か見えたとします。その見えてものが真実かどうか、何ひとつ証拠はないのです。しかし瞑想していた人はどうしてもマリア様が見たかったのだから、単純に「マリア様が見えた」と思ってしまうのです。暗示にかかると、ライオンでも何でも見ることができるし、実際に火傷などを体験することさえできます。自己暗示をかけたら、あるものでもないものでも、何でも体験できます。
 そういう大変に誤解し易い世界ですから、もし瞑想しているつもりでただ自己暗示にかかって幻覚ばかり体験したら、その人は悟るどころか、精神異常の状態になってしまいます。瞑想を実践するなら、微かにでも暗示がかからないように極力、気をつけないといけません。
 このように自我意識を抑えることで現れる知覚は、上で説明したように「幻覚」になることがあります。また、五感に入り難い正しい情報を知覚することも可能です。本人には、幻覚か実際の正しい情報かと区別することはできます。幻覚は幻覚ですから、何を体験しても何の意味もありません。自我意識を停止して、五感には入り難い正しい情報を認識するならば、それは役に立ちます。それが超越した知識と言えるものです。幻覚にならないよう、実践方法に対して極力注意しなければならないのです。なぜなら知覚が生まれる時には「自分」という意識がないので、判断できないのです。暗示をかける行為、一神教で説かれている神様を念じる瞑想などは、仏教の修行体系から排除しているのです。仏教で選ばれた四十のサマタ瞑想は、決して幻覚の知覚は起こしません。智慧を開発して、執着を捨てて、悟りへと進むための糧となるのです。

思い込みの瞑想指導は危険
 瞑想で僅かにでも誤解が生まれないようにするため、瞑想指導者はものすごく気をつけねばならないのです。例えば、あまりインパクト強く説明すると、それも暗示的に作用してしまうのです。その先どうなるのかと言わないで、ただ「このようにやってください」とだけ言うと、みんなには嫌われますが、それは幻覚が現れないようにする注意なのです。最初からテキストを作って、瞑想の過程と得る経験の順番を書いておくと、自己暗示にかかる恐れがあります。テキストに書いてある通りの経験があったとしても、幻覚なら何の意味もありません。瞑想が進んだわけでもないし、心を清らかにしたわけでもありません。しかし、修行する本人は、テキスト通りにやったから自分の経験に固執するのです。それが本人の成長にとって乗り越えられない邪魔となるのです。
 自己暗示にかかるとどんな立派な瞑想指導者にも手に負えなくなってしまいます。それで終わりです。瞑想で危ないところは、幻覚を体験するところだけなのです。幻覚は幻覚だと分かればいいのですが、人間というものは柔軟性がなく、もともと頑固な存在です。「オレが見たんだから本当だ」という状態に嵌ってしまったら、もう誰のどんな指導も受け付けなくなるのです。
 肉眼で見たものについては、お互いに同じ日常レベルで確かめ合えますから、誰かが「ほらよく見ろ。そうじゃないよ」というと「ああそうか」と我に帰るかもしれませんが、たまたま自我意識のない時に変なものを見てしまったら、その一瞬の、自分の心の中だけの体験ですから、それがどんな幻覚か、誰も教えてあげられないのです。本人も、「オレはすごい体験をしたのだ」と思い込んで、もう徹底的にそれを信じてしまう。助けてあげられません。
 これは人間が持っている一般的な弱みです。それを理解しないで瞑想を教えるのは、大変無責任なことです。私たちが「仏教の瞑想をしなさい」と堂々と言えるのは、お釈迦様が心のはたらきを完璧に知っていて、ものすごく責任を持って指導していて、その正しい指導法もあるからです。
 他宗教でも瞑想方法はありますが、それらはとにかく神秘体験をさせたい、ということに必死なのです。人に徹底的に暗示をかけてでも、「神様を目の前で見せてあげよう」などという勢いです。ある時、アメリカのテレビ伝道師の番組を見たのですが、彼は視聴者に暗示をかけて徹底的にマインドコントロールしながら、神様の話を語っていました。視聴者がマジメに聴いている場合は、かわいそうに暗示にかかってしまうのです。それでは神が実在するかどうかはぜんぜん分からなくなります。マインドコントロールされた人生も、危険な人生になります。幻覚に嵌ることは大変危険です。だから瞑想指導者は慈しみと責任感を持って、修行者が幻覚に嵌らないように細心の注意を払って指導しなければならないのです。

誤解が生まれない瞑想対象
 そのように世の中の瞑想は幻覚と自己暗示に陥る危険が大変大きいので、修行者に誤解が生まれないようにと、仏教では四十種類の安全な瞑想対象を選ぶことになったのです。 
 四十種類の中には、他の宗教でも使っている瞑想対象を「決して誤解が生まれない安全なものだ」として採用したものもあります。また仏教独自に考案した瞑想も幾つかあります。(P.194~197)

それから、その四十種類の瞑想対象についてはこちらのサイトもご参考になるかと思います。
【42】 40種類の冥想法
http://www.j-theravada.net/qa/gimon42.html
(28) 「サマタ瞑想について」(2002.1月)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp28.html
ARIYA ATTANGIKA MAGGA:八正道 アリヤ・アッタンギカ・マッガ
の8-1. SAMMÂ SAMÂDHI(サンマー・サマーディ):正定 <しょうじょう>の部分。
http://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html

またこちらのご説法(質疑応答)もとてもお勧めです。僕が身勝手に引用しますが、できればもとの音声をお聞きになって見てください。

JTBA 10/05/21 【東京】法話と冥想の会(法話の部)
(1時間4分~)
Q.お経を読みますと、因縁であることを観じたり、不浄なものを感じたり、息をみつめたりとか、日本の禅宗では、数息感といいて息を数えたりしますが、長老はその中でも特に慈悲の瞑想を中心にしているということには何か特別な理由があるのでしょうか?

A.ブッダの教えは智慧と慈悲の二つなんですね。これは二本柱と謳ってますから、根本的です。慈悲の瞑想しなかったら仏教の世界では意味がないんです。テーワラーダの国々では誰でも慈悲の瞑想はします。子どもたちに最初に教えてあげるのも慈悲の瞑想です。誰でもやってます。他の瞑想はそんなにやってないと思います。慈悲と智慧という二つですね。数息観やら不浄観やらっていうのは一応テキストにはありまして個人が自分好みで選んでやってもかまわないし、やりたければやり方は一応記録してはあります。
まぁ…あんまり気にしないんですね。例えば性欲のある人に不浄観でうまくいく場合もいかない場合もあります。そこらへんはこころの気持ちっていうのはよく分からないんだからね。不浄に性欲を抱く人もいるんだからね。

だからそんなうかつにやるなよと。勝手に選んでもやるなよと。あなたに必要な瞑想だったらあなたの指導者が教えてくれるだろうと。

この集中力はどうするのかっていう程度のことでしょうに。だから集中力は出てきてから、瞑想でしょ?だから最初から智慧の瞑想すれば早いでしょうに。悟りに達しますしね。数息観でいくら息を数えたっても悟りには達しません。そこは始めてから、いくらか集中力生まれたら、指導者に話を聞いて、次に瞑想どのように進めればよろしいかとアドバイス受けなくちゃいけないんです。

そんなに気にすることではないと思います。しかし、ブッダの教えの二本柱は智慧と慈悲ですね。慈悲はなんでみんなやりますかというと慈悲っていう瞑想が、宗教の枠を破って超えて説かれているものなんです。人間なら慈しみの性格を育てなさいと。

慈悲の瞑想すると、それ成功にいくと、悟りの瞑想っていうのは自動的に成り立ってくるんですね。指導があってもなくても出てきます。で、解脱も二種類に別けてますね。心解脱と慧解脱ですね。心解脱っていうのはこころ穏やかになることでそれは慈悲の瞑想で達するんです。慧解脱っていうのはヴィパッサナー瞑想で達するんですね。だからこれは仏教成り立っている二本柱ですね。
http://www.ustream.tv/recorded/7110342

ご参考にしていただければ嬉しく思います。
幸せでありますように。
2010年12月17日 (金) 16時47分 No.909
Re - ぱん MAIL
キリスト教という、もしかしたら「ただの妄想」かもしれないものに、10年費やしてしまった経験からいっても、テーラワーダ仏教に出合っているのだから、無理して他の方法を試すことは無いと思います。

「ただの妄想」だとは思えないような、何かにぶつかるまでは、仏教をやるだけでいいと思います。

ちなみに、西湖の合宿で、伊東さんという方と同室でしたが、伊東さんは名古屋に住んでる伊東さんなんでしょうか。
2010年12月17日 (金) 16時47分 No.912
(返信) - 伊東
いづる様、ぱん様お返事ありがとうございます。
>いづる様
自己暗示の怖ろしさ、なるほどと思いました。長文の返信ありがとうございます。
>ぱん様
確かにその通りですね。無理して他の方法やる必要もないか、と私も思いました。ちなみに、私は名古屋ではなく、千葉に住んでる別人の(笑)伊東です。
2010年12月22日 (水) 14時42分 No.913
明るく楽しい妄想+自己暗示=輪廻の中の一時的な喜び - NetaroQ MAIL
巷で流行っている願望実現系の方法についてですね。潜在意識にある観念は実現するというようなもの。
 私は過去にやったことがありますが、これを私なりに仏教的に分析するならば、明るく楽しい妄想+自己暗示ということです。
だいたいの人間は放っておくと過去の嫌な記憶や将来の心配など、暗く嫌な想念が意識に上ってくるのが普通のようです。その想念をポジティブで明るく楽しく気持ちよいものに置き換えるのですね。そうすることで、すっきりした良い気分で居られます。

 また、潜在意識にある観念が実現するというのは、自分自身に関してに限定するならば効果があるように思います。例えば、就職の面接、大勢の前でのスピーチ、入学試験などに挑むとき、誰でも心配になり緊張するものですが、上手くいった状態を想像(妄想)することにより、リラックスして実力を発揮することが出来ます。これはスポーツ選手などもよく使う方法のようです。他にも、自己イメージを変えることで自信が付いたりやさしくなったりやる気が出たりと性格を変えることもできます。このようなものは、一種の自己催眠、自己暗示だと思います。
 
 こうして自分が変わることによって、自分自身が因となり、また縁となり社会的な影響はあるかもしれません。例えば、職場や近所の人たちとの関係が良くなるとか、友人や恋人ができるとか、勉強や仕事に対する意欲が高まる、家族や部下などが変わる等等です。

 ただ、純粋な自分自身の外の世界、客観的な世界を想念によってコントロールできるかと言えば、それは不可能ですね。それは超能力です。オカルトです。いくら念じても、潜在意識に浸透させても、池に投げた石を浮かばせることはできません。米粒一つ動かすこともできません。宝くじを当てたり、いい話が舞い込んだりと偶然の僥倖をひき起こすことも勿論出来ません。
 
 それでもこう書くと、とても効果的なように思われるかもしれません。けれども思考実現系の方法では本質的な人生の苦悩は無くなりません。結局は欲から妄想的な夢や希望をつくりだして叶った叶わないと一喜一憂しているだけだからです。輪廻の輪のなかでグルグルしているだけです。
 
 ではためしに考えて見ましょう。思考実現系の方法で、生老病死を克服できるでしょうか。お母さんが死にませんように、永遠に生き続けますようにと願えば実現するでしょうか。また、ポジティブな想念で潜在意識をみたしていても交通事故や地震や津波で予期せずに一瞬で運命を狂わされる事だってあるでしょう。願望が何もかも叶うなどという考えは非現実的でバカげています。
 
 思い通りにならない人生に、現実に、どう向き合うかを教えてくださるのがお釈迦様の智慧です。欲から出た希望や夢を実現させることが幸せだというのは痴です。無明です。幸せになるどころか不幸への直行便です。本当に心安らかに生きるのであればお釈迦様の教えの方がずっと優れている、いや、これしかないのではないかと思います。
ちょっと持ち上げ過ぎですかね。でも本当にそう思います。

 参考になれば幸いです。
2010年12月22日 (水) 14時42分 No.914
実践と同じように科学的に検証します - 分度器
想念の力・信念化についてのデータを持ち合わせていないので否定も肯定もできません。
しかし逆に言えば、①データの信憑性を検証する②簡単な実験をご自身で行いデータを集める 
上記①か②で大まかな判断はできるということになります。

②を具体的に説明すると
例えば、口内炎や傷が治るまでの平均期間を計算し、想念の力を利用した場合と比較する。

重大で結果までに長い時間が必要なものではなく簡単な事柄で実験するというがポイントですね。

2010年12月22日 (水) 14時42分 No.915
- 才木広之
信を置くことで、一時的な安らぎは得られます

よほど、心が混迷してる時などは、信を置くことも悪いことではないと思います

それも利用しつつ、納得したものを、実践していくことが本筋だと思います。

お墓に行けば心休まるとか、仏前で手を合わせると落ち着くとか、そういったことは、悪いことではないように思います。大方の人は、心休めるため、気休めだと知っていて、神社や、仏前に手を合わせるのだと思います。ただ極端に、信仰していくと、完全な現実逃避ですから、後で必ず苦しむと思います。後で苦しむこともわかっていてそれでも信仰するなら、よほど心が病んでいると思うので、誰か愚痴の一つでも聞ける人があれば、いっぺんに、現実に戻れるのですが、いやはや、今のご時世、人は、真面目ですからねー。気楽に愚痴を聞いてあげることも、心病んでる人には必要なのですが。
2010年12月22日 (水) 14時42分 No.922
(返信) - 伊東
NetaroQさま、分度器さま、才木広之さま、
ご返事ありがとうございます。

>NetaroQさま
わかりやすい説明ありがとうございます。たしかに願望実現系では一時的に効果があっても、不幸一直線ですね・・・。そのことがよくわかりました。生老病死は解決しませんし。

>分度器さま
実際に実験してみる、という態度が自分にはどうも欠けていたみたいです。ちょうどいいタイミングで(?)ぶつけて、あざができているので、これでちょっと実験してみようと思います。

>才木広之さま
今、私はそこまで心が混迷しているわけではないのですが、「信をおくことを利用しつつ、納得したものを実践していく(私の場合はテーラワーダ仏教の教えを実践する、ということになろうかと思います)」という姿勢は参考になりました。ありがとうございました。
2010年12月24日 (金) 14時33分 No.925


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