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変な感覚について - rocon3957最近何だか、時折変な感覚になるのですが、この状態がどういう状態なのか分かる方いらっしゃいますでしょうか?
ちょっと不思議な感覚で、正直頭が変になりかけているのではないか、と戸惑っております。
言葉で表現するのが非常に難しいのですが、動いているけど動いていない感覚です。目の前の物が存在しているけど、存在していないような感覚です。
たとえば、手を上げると手を上げるという感覚と認識は確かにありつつも、何か全てが架空のような感じで、本質的には私は手も上げていないし、手を上げることを見てもない、というような訳の分からない感覚です。
説明するのが非常に難しいのですが、たとえばゲームのオープンワールドなどで、ゲーム内で生きている主人公が、自分は現実の世界に生きているのではなく、現実世界ではどこにもないゲーム内に存在していた、つまり自分は存在していなかった、ということに気付く、というような感じです。
要は、ゲーム内で主人公が街を歩いたり敵と戦ったりすることは、ゲーム内の主人公にとっては現実そのものですが、そのゲーム内の主人公は、今まで自分が自分の意志で歩いたり戦っていたりしていると思っていたのに、実際のところは、そのゲームをするプレイヤーによって動かされていたことを知ってしまう、というような感じです。
別の角度で説明を試みるならば、アイマスクをした時のように目も見えない、耳栓をした時のように耳も聞こえない、極度に鼻が詰まった時のように香りも感じない、味覚障害になった時のように味もわからない、麻酔をかけられた時のように身体の感覚もない、そして五感の感覚全てが遮断された心が、外界から何の情報も得られず、また全ての過去の記憶を失っているがゆえに何も判断できない、何も心に思うことができない、私を私と認識することができない、というような何もない状態の私、もはや私とも表現できないような私が、私の心を、私の身体を、そしてこの五感を通した外界の世界を、ただ感じて(観じて)いるだけ、というような感じです。
なので、たとえば目の前に置き時計があったとして、その置き時計は普段は「置き時計」として認識されていますが、その変な感覚から感じてみると、それは「置き時計」ではなくて「そういうもの」としか表現できないのです。
つまり「それ(置き時計)」は目に映っているけれども、「それ(置き時計)」が何か認識できないのです。ちょうど、何も知らない赤ん坊が「置き時計」を見るような感じだと思います。
だから、1秒ごとに進む秒針を見ている時、通常の感覚だと「1秒ごとに針が進んでいるな」と、半ば自動的に認識していると思うのですが、その認識が起こる以前の世界と言いますか、もう「それ」としか言いようがない感じです。
それ(置き時計)が目の前にあって、それ(置き時計)を見るとそれ(秒針)が動いているけれども、なぜそれ(秒針)が動いているのか分からないし、動いている意味もわからない。
よって、それ(置き時計)が目の前にあることは認識しているけれども、一体それ(置き時計)が何なのかさっぱり理解できない。
たとえるならば、普段はその置き時計を見て今は何時何分だな、と時間を確認したり、1分間なら1分間の時間を計ったり、というような使い方をしているけれども、その表面に見えるものが全部見えなくなって、内部のネジや歯車などしか見えなくなったような感じです。
確かにそれは「置き時計」と呼ばれるもの、ということは分かるのだけれど、実際に見てみると複雑ないくつもの歯車が回っているだけで、時間も確認できないし計ることもできない。
そのようにして、それ(置き時計の内部の構造のみしか見えない状態)を見ていると、それは「置き時計」と呼ばれるもの、という知識はあるけれども、普段見ている「置き時計」にはとても見えないし、置き時計としても使えない。つまり何時何分かもわからないし、時間も計れない。
なので、それはもう普段認識しているところの「時計」ではなく、ただのネジと歯車の集まりでしかないので、これが何の用途で使われるのかもわからないし、どうやって動いているかもわからない、といった感じです。
このような状態になって、目の前のそれ(置き時計)が何なのか認識できなくなるのですが、同時に私がそれ(置時計)を見ている、という認識も抜け落ちているので……ちょっと言葉ではうまく表現できません。
通常なら、その状態は「私は置時計を見ています」と表現出来ると思うのだけれど……うーん、何といいますか世の中から全ての言葉が無くなった世界といいますか、たぶん厳密にいうと‘私’とか‘置時計’とかいう「名詞」が、全て抜け落ちた世界に居るような感じです。
何といいますか……自分自身の本名(例:山田太郎や山田花子など)が、親などによって後天的に付けられたものである、と考えれば、本質的に自分自身に名前は無い、ということになると思うのですが、同じように全ての物(‘置き時計’や‘ボールペン’など)の名前を取っ払って見た世界、といえば分かりやすいかもしれません。
話を戻しますと、このような見方をすると「私は置時計を見ています」は、その名詞の部分のみが抜けてしまって「 は を見ています」となって、見ていることそれ自体は認識できるけども、一体誰が何を見ているのかが分からなくなっている、という感じです。
なので、「私」が「置時計」を見ているにも関わらず、その「私」と「置時計」が一切認識できないので、一体誰が何を見ているのか分からない。
そのようにして「見る」という行為だけが浮かび上がって来るけれども、もうその世界には「私」も「置時計」もないので、「見る」という行為そのものは認識出来つつも、その「見る」という行為の意味自体がわからなくなっている、といった感じになって……ちょっと、言葉では表現できません。
無理やり言葉にすると、もうそういう現象が、その瞬間その場所でそのように起こった、としか表現できなくなる感じです。
何といいますか……ある瞬間において、目の前にそれ(置時計)があった、そして私と呼ばれる所の現象がここにあった、そうして、私と呼ばれる所の現象が置時計と見るという動作を行うことによって「私は置時計を見ています」という現象が起きた。その瞬間に、ただそういうことが起きた。
とはいえ、本質的に見れば「‘私は置時計を見ています’という現象が起きた」という表現ではなくて、正しくは「‘ は を見ています’という現象が起きた」という表現のほうが適切ではないか、という感じもします。
ただ、その感覚を他の人に説明するには、どうしても「‘私は置時計を見ています’という現象が起きた」という表現を使わざるを得ない、という感じです。
以上、自身の感覚に関して出来得る限りの言語化を試みてみましたが、まだこの感覚がおぼろげということもあって、もしかしたら微妙に違うニュアンスの言葉になっているかもしれません。2025年06月22日 (日) 13時25分 No.6572