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自分に起きた変な感覚について - rocon3957最近になってよくスマナサーラ長老の動画を見たり、ヴィパッサナー瞑想もちょこちょこ試したりしています。ありがとうございます。
質問です。
今日変な感覚になって、若干とまどっています。自分の感覚や意識の状態が変な方向に行っていないかお聞きしたいです。
事の発端はこうです。
今日明け方、半分寝ぼけた状態で夢とも妄想とも区別がつかないイメージを見ていました。
私が誰かに話をしていて、確かに‘私が話している’ことは判るのですが、感覚的に‘私ではない’のです。まるで他人と言いますか、どこにも存在しない誰か(私)がしゃべっているような感じなのです。
そして、朝起きてから「‘私’というものを定義する対象がなくなってしまった」と感じてからは、何か自分が空っぽになったような感覚になっています。
中々言葉で表現し難いのですが、たとえば「あ、洗濯しなくちゃ」と思ったその瞬間の私が、これは私ではない、と感じるのです。
同じように、洗濯物を洗濯カゴから出す私も、洗剤を入れる私も、洗濯機のスイッチを押す私も、これは私ではない、と感じるのです。
言葉ではうまく言えませんが、その代わりに何か流れのようなものを感じるのです。この空っぽのような身体の連続した動きがあるだけで、全部空っぽのような感じで変な感覚なのです。
また身体の動作だけでなく、五感の感覚も、浮かんで来る思考も、その瞬間瞬間ごとに現れて来ることは、それはそうだけれども、私の感覚、私の思考、というよりかは、何かどこか遠く起こっている出来事のように感じるのです。
たとえば、歩くという行為で見てみると自動的な感じなのです。
ただ(足を)「上げる」「運ぶ」「降ろす」という一連の動作の流れのみがあるだけで、何か空っぽなのです。
呼吸で言うならば、私が呼吸している、という感覚ではなくて、まず(息を)吸う、という動作、行為があるのみで、その吸うという動作のその裏で、息を吐くという因が同時に作られている感じです。
そのようにして、半ば自動的な感覚で(息を)吸い終わると、今度は(息を)吐くという因が果となって現れて来て(息を)吐くのですが、その吐くという動作のその裏で、今度は息を吸うという因が同時に作られている感じがして、限りない感じです。
なので、呼吸がただ因と果の繰り返しにしか感じられず、そこに私というものが微塵も入っていない感じなのです。もちろん従来のパターンで思考すると、この私が呼吸している、という感覚に戻ることもできます。
また「吸う」「吐く」の部分を「膨らみ」「縮み」と読み替えても同じ感覚です。
思えば、この前「死随観」の動画を拝見してから、この感覚に拍車がかかっている気もします。
内容は、服が燃えている中でも、或いは頭が燃えている中でも‘気付き’を行う、というようなものだったかと記憶しています。2025年06月09日 (月) 13時49分 No.6554
頑張ってください - なみ感じ方はあなたのもの。
その点についてのことは特に誰も意見しませんし、できないと思います。
私の経験で言うと、問題は感覚ではなく刺激に対する心の反応のように思います。
何事においても貪瞋痴が減っていれば進んでいるでしょう。
しっかり進んでいるのなら自分が何に怒りを覚えて欲を抱くのか、何に囚われているのかもう見えていると思います。
問題は強い刺激や妄想で心がどうなるのか、どうなっているのか、毎日心がどう変化しているのか、ではないでしょうか。
長老曰く、脳は幻覚作ります。
もしそれが勘違い、幻覚なら半月後には別の感覚になっていると思います。
もう少し様子を見てみてはいかがでしょうか。2025年06月16日 (月) 09時20分 No.6562
感性と理性 - 青い蓮華学びはじめて間もないのでしょうか?とても新鮮で感動的ですらありました。
特に、この辺りです。
「身体の連続した動きがあるだけです」
「何かどこか遠くで起こっている出来事のように感じるのです」
「歩くという行為で見てみると自動的な感じなのです」
今話すタイミングではないと思う反面、今話しておかなければ将来この感性が摩耗してしまうかもという思いが交錯しているところです。
手短にお話します。
その感性を大切になさってください。悟りへと導く感性です。
褒め過ぎなので、嫌われることも言っておきます。
「(息を)吐くという因が果となって現れて来て(息を)吐くのですが」
因とか果とか、本当に見えましたか?聞こえましたか?感じましたか?
頭が記憶した知識に対して、これから先も警戒する必要があります。2025年06月16日 (月) 09時20分 No.6564
なみ様へ - rocon3957なみ様
ご返信ありがとうございます。
貪瞋痴が減ったのは非常に実感しています。ヴィパッサナー瞑想は驚異的ですね。
またヴィパッサナー瞑想をしていると、普段からでも自分の心の動きも見えて来ておもしろいですね。
引き続き精進を続けていきたいと思います。2025年06月17日 (火) 16時41分 No.6566
青い蓮華様へ - rocon3957青い蓮華様
ご返信ありがとうございます。
>学びはじめて間もないのでしょうか?
学びはじめて間もないです。
これまで「歩く瞑想」「座る瞑想」を数回しました。(ヴィパッサナー瞑想の入門動画で紹介されていた物を置くレッスン、食べるレッスンは試しています)
それにしても、瞑想は毎回違う発見があっておもしろいですね。
たとえば「座る瞑想」を初めて行った時は30分が限界でしたが、2回目は1時間半できました。
しかし日をあけてまた座る瞑想したら、その時は30分が限界になってしまいました。
それも身体の細胞が否応なしに動きたがる感じで、身体自体がぞわぞわして来るのです。何がどうと言うわけではないけれど、じっとしていると非常につらい。
あぁ、これが「無常・苦・無我」で言われている所の「苦」か、と思いました。
それで、何で30分が限界になったのだろうか? と思って、また別の日、再び瞑想をしていると、どうも集中力がカギっぽい気がして、今まで以上に「膨らみ」「縮み」を意識して、それだけに集中していたら、あのぞわぞわが起こって来ない。1時間くらい瞑想しても、全く不快な感じが出て来ない。
……というような感じで、今は瞑想が非常におもしろく感じています。
>因とか果とか、本当に見えましたか?聞こえましたか?感じましたか?
鋭い突っ込みありがとうございます。(笑)
自分なりではありますが、感じました。
息を吸って、さらに吸って、吸い続けていると、苦しくなってもう吸えなくなって、どうしても息が止まってしまう。
それでも吸おうとしたら、息が止まったままになってしまう。そうして息が止まったままでいると、これもやがて限界が来て苦しくなって、結局は息を吐かざるを得なくなる。
そして、この(息を吐く)瞬間にものすごい楽がやって来る。そうして「あぁ楽だ楽だ」と思って息を吐いて、そのまま吐き続けていると、今度は苦しくなって吐けなくなって、また息が止まってしまう。
そうしてまた吸うと楽になる。
という風に、息を吸うという「因」が、まわりまわって息を吐くという「果」に繋がっているんだなぁ、と実感しました。
と同時に、何だか自分の呼吸が、まるで大宇宙の膨張収縮(ビッグバンとビッグクランチ)の雛形のようでもあり、輪廻を回転させるための根源的なエネルギーでもあるように感じました。
また息流(いきる)ことが生きることに通じているのであれば、我々の呼吸もまた、「苦」から逃れようとして呼吸を繰り返しているのではないか、とも感じました。
そして最近では、瞑想をしていると「膨らみ」「縮み」と唱える自分の声すら、何か自分でないような感じもします。
今現在は、この辺に次のステップのとっかかりがあるのではないか、と考えつつ、また瞑想の中で、その真偽を観察して行きたいと思っています。2025年06月17日 (火) 16時41分 No.6567