日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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匿名 > 青い蓮華 - 匿名 - 青い蓮華 - 
預流果以上? - 匿名
マハシ式のヴィパッサナー瞑想をして、預流果には直ぐになったのですが、それ以上になかなか行かないです。かれこれ、10年以上。最近は、朝の散歩に行く時に、歩く瞑想をするくらいです。

まだ、世の中を楽しんで居たいという気持ちもありますが、無常、苦、無我は分かっているので、何をやっても、碌でもないなぁと言う気分はあります。

個人的に、預流果になる時はかなり苦しかったので、もう一度あれをやれと言われたら、かなりキツイです。このまま、ゆるゆるとヴィパッサナーの修行をすれば、何かのきっかけで、一来果になれるのでしょうか?それとも、最低朝晩2時間は、みっちり瞑想するとか、大念処経をしっかり読んで、瞑想するとかが必要でしょうか?
2025年06月09日 (月) 13時49分 No.6553
プールに行かなければ、畳の上の水練で終わります。 - 青い蓮華
まず最初に、10年以上も続けられたことに、敬意を表します(合掌)。


我が身はどうだったのか、今思い出しているところです。
「俺はどうなってるんだ?」「こんな状況は嫌だ!」「どうにかしたい!」という強い思いがスタートでした。
恥ずかしくて、他の人に言える内容ではありません。
こういう俗っぽいことが動機でしたから、悟ってみたいという思いは無かったんですね。
ですから「悟ろうとしてはいけない」という説法もすんなり入ってきました。

では、なぜ悟ろうとしてはいけないのか?
先達は体験的に知っていたんですね。
この辺り、匿名さんならよくご存じだと思います。そうでない人のために少しお話します。

預流果→一来果→不還果→阿羅漢果
知ったところで、到達しないんですね。
「果」なんです。
善行を積んでいたらオマケで付いてくる、言わば付録のようなものです。

>一来果になれるのでしょうか?
再び、なぜ一来果になろう阿羅漢になろうと思ってやってはいけないのか?
色々な解説がなされておりますが、次が比較的受け容れやすいんじゃないかと思います。
一来果になるため頑張ろうって思った時点で、一つの執着が生れたんですね。
阿羅漢になろうと思ってやってる間は、煩悩の中なんですね。


>まだ、世の中を楽しんで居たいという気持ちもあります
ありました、ありました。(笑)
続けて行くうちに、いつしか吹っ切れていました。

こんな生ぬるい返答、期待していませんよね?

世間の遊びといえば、昔から異性と博打。飲食、歌舞もあります。
一度どっぷり楽しんでみてはいかがでしょう。以前同じことを言って反対にあいましたが、おすすめです。
そこで苦痛を感じるようでしたら、体験上おそらく一来果か何かいいところまで来ているんだと思います。

まあそうは言っても、今でも悟りの区分には興味がなく不正確ですので、適当に受け流してください。


>それとも、最低朝晩2時間は、みっちり瞑想するとか・・・必要でしょうか?
幾つか気になる箇所があります。
ヴィパッサナー瞑想に時間を割り当てておられます(これ自体は特別なことではありません)が、日常生活の中で、慈悲と気付きはありますか?
日常生活での慈悲と言いますのは、単に読誦することではなく実際に行動することを指しています。
「生けるものが幸せでありますように」が読誦で、例えば「政府備蓄米をお隣さんと分け合った」が実践です。
皆さんがなさっている瞑想っていうのは、練習なんですね。
練習なんだから、本番があるわけです。プールに行かなければ、畳の上の水練で終わります。

どのくらい修行が進んだのか?
悟りの4階梯に照らし合わせてみるのも一つですが、自分の日常生活を省みて練習の成果が現れているのかどうかを具体的に確認していきます。
サマタ瞑想であれば、落着きの状態です。・・・日常生活の中で常に落着いておれたのか?
慈悲の瞑想であれば、慈悲の心です。・・・日常生活の中で慈悲の心が現れているのか?
ヴィパッサナー瞑想であれば、洞察力です。・・・日常生活の中で真理が観えているのか?

長老の説法を聞くことでも確認できます。修行が進むほど、説法の内容がスッーと入ってきます。
早合点して誤解していないか、分からない箇所はないのか、注意深く点検していきます。


難しいことはさておき。
余計なことを考えずに淡々と生活ができるようになれば最上の人生です。そのときが阿羅漢かもしれませんね。

お尋ねになりたいことから、少しずれたかもしれません。
2025年06月16日 (月) 09時20分 No.6561
日常生活で気をつけて生活してみます - 匿名
>>皆さんがなさっている瞑想っていうのは練習なんですね。

そうですね、自分の練習の成果を日常生活に活かすことですね。どちらかというと、瞑想は瞑想、普段の生活は普段の生活になってしまっている事が多いです。自然に良いことは出来る様になりましたが、まだ、気に食わない事があると、怒ったりします。慈悲の瞑想をあまり本気でやってないですね。

あと、やはり、女性関係が大変になってきました。結婚はしていないのですが、彼女がいて、面倒を見てあげなければとは思うのですが、愛欲というのは、結局苦しい物であると分かります。

仏教の悟りの階梯はなってやるぞという物ではないですね。ちょっと、質問の仕方が良くなかったです。

”果”という事で、普段の気づきや、慈悲などの善行為などの結果がおまけとして、熟すと落ちてくるというように考えたほうが良さそうですね。

落ち着きの状態、慈悲の心、洞察力、日常の生活の中でチェックしてみます。

最近は、あまり長老の説法を聴かずに、早合点してる部分があるかもしれません。分かっていると思う所から、見直してみます。

瞑想で培った、自分の気づきや慈悲を、実生活が本番だと思って、気をつけて、生活してみます。預流果になって、満足してしまっている部分もありますが、まだ苦が残ってますから、何かのきっかけで、スコンと抜けると良いです。

ご助言ありがとうございました。
2025年06月22日 (日) 13時25分 No.6571
きっともっと善い人生 - 青い蓮華
>彼女がいて、面倒を見てあげなければとは思うのですが、愛欲というのは、結局苦しい物であると分かります。

真実はこうです。

「面倒を見てあげなければ」と思う気持ちは、まことに尊い慈悲の心です。
「ですが、愛欲というのは結局苦しい物であると分かります」の考えは、単に妄想です。

せっかく慈悲の心が芽を吹いたのに、妄想で摘み取ろうとしているんですね。
彼女が聞いたら、さぞかし嘆き仏教を恨みますよ。


正直な気持ち、次も一緒にご飯を食べたいなって思いますでしょ。
もう少し一緒に居たいと思いますでしょう。
そして実際に一緒に暮らしはじめることを、結婚と呼んでいます。

この「一緒に」というところに、自他の区別がない世界があります。
やがて子が生まれ、その子に愛情を注ぐことで、再び自他の区別がない世界を体験します。
我が子がかわいい、他の子もかわいいと感じるようになります。

これまでにサマタ瞑想その他で到達しえなかった境地を、この結婚生活の中で味わうことができます。
そのとき、ああこういうことだったのかぁーって気付くことができれば、それこそがヴィパッサナー瞑想(洞察力)の成果です。
独身のときの修行は無駄じゃなかった、お釈迦さま本当に本当にありがとうございます・・・そういう気持ちになります。

これから10年先のお話です。
2025年06月24日 (火) 18時17分 No.6573


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