日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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ゴン > ばいたら - なみ - 青い蓮華 - ゴン - 
呼吸瞑想中、このような思いが浮かびました。 - ゴン
 その日は入出息に集中できず、雑念が多く浮かんで来ました。なので、浮かんできた雑念を観察してみると、浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返し、心というものはシャボン玉のようなもので実体がないものだと感じました。また、長くなってしまうのである程度省きますが、浮かんでくる雑念の全てに「私」が存在することも分かり、この「私」こそが苦悩をつれてくる根源ではないかと感じました。
 しかし、この雑念の中の「私」及び雑念を観察する「私」はいったい何のだろうと思惟したところ、それが感覚器官から生じたものだと分かり、これも感覚器官が滅びれば消滅してしまうようなものだと分かってハッとしました。これが瞑想中に浮かんできたものなのですが、この認識で合っているでしょうか。
 また、いくら瞑想しても、いくら気付きがあっても私の中の三大欲求を含め、諸々の欲望が収まる気配を感じられません。これは、私が間違っているからでしょうか。いつになったら、この心は静かになるのだろうとつい考えてしまいます。
 よろしくお願いいたします。
2025年03月24日 (月) 02時06分 No.6488
思考の中身よりも思考が起こったことに気づくことが重要です - ばいたら
呼吸が触れる部分の入る息・出る息が本当に感じている部分の感覚を感じます。想像で感じているのではなく。ですね。雑念が起こることは自然なことで止められません、しかし呼吸の感覚に戻ることが出来れば雑念は力尽きて途切れていきます、感覚を感じることに戻る訓練を何度も何度も続けると。次第に考えていることは思い通りにならず、自分がどうこうできるものではない。と徐々に観えてくるようになります。するといろいろな欲が徐々に減っていくものです。瞑想中は湧いてきた思考が何であれ、その中に入っていく必要はありません。思考の中身はたいして重要ではないからです。それよりもさっき思考が湧いてきたと気づくようになることがもっと重要です。サートゥ
2025年03月27日 (木) 04時04分 No.6492
長老のお言葉を交えながら - なみ
私のいい加減な記憶で申し訳ないのですが、

長老の法話の中に瞑想の進み具合は貪瞋癡の減り具合で分かると仰っていたものがあったと記憶しています。
瞑想による思惟は本人に訪れるものですから長老もそこまでは言及しないよと言っていたのも覚えています。

それは本人がそう思っていればそうなのだと。
それで指導者は何を見ているかといったら貪瞋癡の減り具合ですとのこと。
その人が余計に貪瞋癡に苦しんでいるならまったく進んでいないし、減っているなら進んでいる。
減っていると思っていてもある日何かをきっかけにまたどっと現れることもあります。
(私の場合は眠るときに鮮やかな自然の景色が目に浮かんできてそれで執着が凄く出てしまい、修行の成果がないぞと自分の妄想に言われてしまいました……。)

それで、三大欲求というと瞑想していて妄想も発見できますし、そこから眠気が出てくるのも発見できます。
妄想が酷いと昼間なのに眠くなったりします。
漫画を見たり、自分でそういう妄想世界に浸ると次の日は激しく苦しみます。

性欲、食欲、これもすべて妄想です。
我はこれにハマってますよね。

睡眠は妄想の産物でもあるし、性欲は妄想そのもの、食欲もかむかむ味わうの瞑想して、やめてからお腹いっぱいでもケーキでも出せば妄想でまた食べられることが分かります。

それで結局何かを求めている渇愛が心の平穏を乱す原因なんだと思って最近調べたのですが、渇愛とはpunabbhava(プナッバワ)と言うらしいです。
直訳でpuna(プナ 再び)と bhava(バワ 成ること)。

これをみてはあ、なるほどな。お釈迦様はすごいなと改めて思いました。
私たちの瞑想修行にはこの成るを観察しなければならないと思います。
再び、再び、なぜ再び成るのか?

結局それが観察できないと三大欲求も人間の次元のままなのだと思います。

そこで自分にはオートで働く智慧が必要なんだと気づいたのです。

頭で考えないと出てこない智慧、それは絵に描いた餅ならず絵に描いた道具です。
そんなものに頼ってたら死んだら終わってしまいます。

私はそう思って頑張ってます。

ここからは長老のお言葉に参考になりそうなものがあったので紹介させていただきます。(一部脱字や誤字修正)
https://j-theravada.com/dhamma/q&a/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E6%80%A7%E3%83%BB%E6%B6%85%E6%A7%83%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%96%91%E5%95%8F/

人と言うものは概念、先入観、イメージなどの塊です。また、あらゆることを勉強したりして新たな概念、イメージなどを増やしていきます。ですから、一見単純すぎのように見える仏教のサティの実践は大変難しいと思います。

何論でも、何概念でも人を束縛するのです。

一切の概念、束縛、煩悩から脱出するために、これらの問題はどのように現れ、どのように消えるのかと観察する必要はあります。ものごとの因縁関係を知らないと何の解決もできません。

Vipassanā のやりかたは「病気は何ですか、原因は何ですか」と見極めてその原因を取り除く方法です。
それもまたグルの話にそのまま乗せられてしまうのではなく自分で発見するものです。

https://j-theravada.com/dhamma/q&a/201408qa/

★意識を使って妄想を止める

 妄想とは意識ではないのです。意識をもって妄想をしているのです。ですから、同じく意識を使って妄想を止めるという訓練をするのです。
 
 妄想とは、いろいろな概念を頭でごちゃごちゃ回転させることです。概念を回転させると、概念と一緒に煩悩が生まれるのです。言葉の中に煩悩(感情)が練り込まれているのです。例えば、「お金」とか「ごちそう」とか、その言葉に練り込まれている煩悩(感情)があるのです。
 
 それで、実際に自分の生き方と関係ない概念を頭で繰り返すと、どうなるのでしょうか? 頭の中で要らない煩悩がいっぱい生まれてきて、ひどい心の病気になってしまうのです。ですから、冥想実践それをストップさせる訓練をするのです。


-----------------以上抜粋ここまで-----------------------

このように私が発見して説明した、三大欲求はすべて妄想という話と長老の意識こそ妄想を作るというお話で結論が出せたように思います。

三大欲求が収まらないのはまだ意識で妄想を使用中だからだと思います。
私も自分の生活を振り返りましたが、まさしくでした。
出家しないと悟れないわけではないでしょうが、在家が難しいというのはこういう誘惑や環境から逃れられないからかもしれないですね。

静かにならないのはそういうわけと思います。

私も自身の成長に大いに役立ちました。
ありがとうございました。
2025年04月04日 (金) 11時10分 No.6495
繰り返し読む価値千回 - 青い蓮華
ばいたらさん、わずか4、5行で、正鵠を射てしまった。
サートゥ サートゥ
2025年04月14日 (月) 13時41分 No.6504
ありがとうございます。 - ゴン
ありがとうございました。
今後も励みたいと思います。
2025年04月18日 (金) 11時39分 No.6507


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