日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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生きとし生けるものが幸せでありますように。

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法話を聴く耳を養う - 青い蓮華
スマナサーラ長老の貴重な動画がyoutubeにアップされました。
「老化現象を楽しむ」 https://www.youtube.com/watch?v=_LbvOF__aV8
短編なので、家事の合間にでもご覧いただけます。

この中で、歳をとって楽しいんです、と話されておりますが、
長老の真意はどこにありますでしょうか?

ご覧になられたあなたの感想をお聞かせください。
お待ちしております。
2025年03月10日 (月) 09時58分 No.6475
身体への執着 - ポンタ
こんにちは。

動画の紹介ありがとうございます。

身体への執着がある限り、動画で長老が話されてるような老化現象は「悩みの種」にしかならないと思います。

身体への執着が無ければ、その「悩み」が消える。

多分、その心境(身体への執着が無い)を「歳をとって楽しいんです」と表現されてるんじゃないか、と個人的には思いました。

以上、個人的な感想です。
2025年03月11日 (火) 02時43分 No.6476
功徳は行動でこそハッキリ現れる - 青い蓮華
ポンタさん、おはようございます。そして、素早い投稿ありがとうございます。


>ご覧になられたあなたの感想をお聞かせください。
とはいえふつー、投稿に二の足を踏みますよね。

そこで功徳を列挙して、背中を押します。
①文字にすることで、これまでボンヤリ感じていたものを整理することができます。
 →知っているようで知らなかった自分ことが見えてきます。
②投稿することで、行動することの重要性に気づけます。
 →やがて経典の文字、説法の言葉が生き生きとしてきます。
③他の人の感想文を読むことで、信仰生活上の励みになります。
 →今回は長老のお話が対象なので、具体的に実感できると思います。

こんなことを言ったら馬鹿にされるんじゃないかとか、思う必要はありません。

生きとし生けるものが幸せでありますように・・・
そこのあなた!行動に表してこそですよ。
今すぐ感想文を書きましょう。(笑)
2025年03月15日 (土) 19時05分 No.6477
苦があるから楽というのは無常の証 - なみ
理解している実感している範囲でいうと無常を楽しむということです

そもそも変化しないものはありません
老化ときくとできることができなくなったと悲観的になるものですが、それは過去の対象を取って感情を入れるからだと思います

ただ流れていくだけ。
そこに無常があるということです。
無常を実感したならば楽しい。

自分の体に執着していないから起きる感情かもしれませんが、一番身近に無常があるということです。
それは曖昧中途半端な幻覚か妄想かの類いではなく確かで強烈な無常です。

ああこのまま壊れていくと死ぬんだとはっきり分かる。
死随観じゃないですが、そこで捨てる気持ちも生まれますよね。
そしたら安穏ですよ。
膝が痛い、腰が痛い、目が薄くなる、いろいろあります。
そこに苦があり観察する対象ができる。

そして苦が現れては消える流れが働いているのが見える。
物体としての流れ、心の流れ、その無常が苦という形をとって死まで続いていく。
それを観察していくと執着しないという安穏もある。

だから苦が楽しいってどういうことですかといったら無常が発見できるということかと思いました。

自分の体が壊れていくという、確かな無常。
これは実感ですからね、私の証明というのと変わらない。
実感できる無常というのは自分の老いをおいて他にあるでしょうか?
2025年03月16日 (日) 11時57分 No.6480
長老のヒント - なみ
https://youtu.be/klgE2wA4G28?si=TFD1GERWpH9DrIO9&t=1795

29:56~

怒りの心所がどのように変わるのかということについて語られています。

肉体の苦が起きたときの普通の人の反応は悲しいか、どうしてという怒りの心所でしょう。
その怒りの心所が他のものになると語られています。

私は発見という言葉を使いましたが、発見は楽しいものです。
私の中では怒りが発見に置き換わったということを言いたかったのだと気づきました。
(全然うまく言えないものですね笑)

子供は何でも発見して楽しんでいます。
長老の動画を見てそういう心所かと思いました。

あっているのかは知りませんが笑
2025年03月17日 (月) 19時57分 No.6484
通りすがりのお嬢さん - 青い蓮華
なみさん、おはようございます。詳しい投稿ありがとうございます。


「歳をとって楽しいんです」そう長老が話されたのですが、
膝や腰が痛い、目がかすむ、転倒して骨折する、歩けなくなる、血圧があがる、
硬いものを食べれない、睡眠が浅い、残り時間が気になる・・・
実際70歳の峠を越えたら、楽しいってもんじゃありません。

皆さんのお父さん、お母さん、おじいちゃんはお元気にされていますか?

阪急三宮駅、混雑する改札口付近、よろけそうになった老婆。
そこに、咄嗟にスッと手を差しのべた、通りすがりのお嬢さん。
幸い転ぶことはなかったので、スッと手を引っ込めて、何事もなかったかのように去って行ったんですね。
無我と慈悲の姿を見せていただき、とても清々しい一日を過ごすことができました。

ともあれ、老体はキビシイんです。
それを長老は「楽しいんです」って言ってのけたんですね。
どういうことなんでしょう?

楽しい?奇妙なことを言う爺さんやねぇ、って感じるのがフツーです。
長時間の説法お疲れになりましたでしょ、大丈夫ですか?って感じることができれば、慈悲に近い。
長老だって、膝が痛いときは痛いんですよ。
老体はキビシイって。(笑)
2025年03月18日 (火) 21時07分 No.6485
言葉の意味そのものは本人にしかないと思います - なみ
失礼ですが、ご年配の方でしょうか? 私の答えは配慮が足りなかったかもしれません。
ご自分でどうしてこの話題を気にしているのか何か考えなどはありますでしょうか。

老体は厳しいと思う、長老の楽しいという表現は間違っていると思う。
そのようにお考えということでよろしいでしょうか。

もし、間違えていたら申し訳ありません。
前回の答えじゃ分からないということだと受け取りましたので言い換えます。

楽しいという言葉で見方を変える、明るくいる。
簡単に言えばそれだけだと思います。

苦しいは苦しいですよ、けれど楽しいという見方ができるのは感覚に縛られて感情、妄想、自我にやられてないから出来ることです。

もっと厳しく言えば、
苦しい苦しいといえばどうなるのかといったら周りに迷惑なだけです。
お前に慈悲はないんかと言わないでくださいね笑 

医者じゃない家族が他人が迷惑します。
心配し続けないといけないです。

だからそれを見せないようにするのも立派な功徳だと思いました。

他人の悩み苦しみをなくしてるわけですから。
(こういう説法もありませんでしたっけ?)

もちろん誰にでも出来ることじゃないです。
痛みの感覚は人それぞれですし、病気によっては耐えられないほど痛いということもあるでしょうね。
うちの祖父は御年95才。いつ家に行ってもソファーで倒れてますよ。

じっとしているだけで苦しい。
でもそれってこちらには何も共感できないしわかりません。
苦しいと言われればこちらは悩まなくてはいけない。じゃあ病院いこうか?とか。

それが悪いというわけではなく、その無常の流れはどうすることもできません。
だったら楽しくいましょうというところに心を守るという目的がちゃんとある。

そういうことだと思いますよ。
長老が楽しいというのはあなたの不安を無くす意味もあるのかもしれません。

だから楽しいって言われたら私たちは長老を心配しないでいられる。
それは長老の功徳ですね。
その程度の理解でもいいと思います。
2025年03月24日 (月) 02時06分 No.6489
テーラワーダは日本人に仏教を伝えることができたのか? - 青い蓮華
なみさん、おはようございます。新たな観点からの投稿ありがとうございます。


下記は、直近1年に回答された方々です(順不同・敬称略)。
ポンタ・なみ・修行者・きき・ばいたら・しゅん・みや・test01ab・ゆべる堂・tamotsu
naagita・イエモン・ても・magagiok・トトロ・ゴン・佐藤哲朗・Tony・凡人・ほっけ

感想を投稿していただきたいと思って掲げました。

いつもホームページをチラッと見てから掲示板へ進んでいるのですが、そのホームページに、
「スマナサーラ長老」のワードが減り、「ヘーマラナタ長老」のワードが増えています。
おそらく今、日本テーラワーダ仏教協会は、過渡期なんだろうと思います。
ご存じのとおりスマナサーラ長老、今年で御年80歳のご老体です。
偉大であるが故に、次世代へのバトンタッチが大変なこと、想像に難くありません。

この際ですので、歯に衣着せず、ズバッとお話します。
日本人にテーラワーダの仏教が伝わったのか、という一点です。

まずは、お礼を申し上げたいと思います。
はるばる海を渡り日ノ本の土地にお越しいただき、誠にありがとうございました。
加えて、日本語でお話をしていただき、感謝に堪えません。
更に加えて、平易に解説をしていただき、お返しする言葉が見つかりません。
1994年に協会を設立してから、31年が経ちました。
その間、日本の人々に法を正しく伝えることができたのかどうか。
中の人ではありませんが、青い蓮華なりに心配しているところです。

既に、十二分に法を説かれましたので、後は、聞き手側の問題ではあります。

「楽しいんです」の法話をお聞きになり、あなたはどのように感じましたでしょうか?
2025年03月24日 (月) 15時26分 No.6490
その視点は…… - なみ
蓮華様、「楽しいんです」の法話に感じた私の感じたことはそうですかくらいです。
そもそもそれを自分のことに変換することは不可能です。
長老が主観で喋っていること、それはそれです。

以上です。(聞きたいことと違っていたらごめんなさい)

長老のお体をご心配なさる蓮華様のお気持ちは十分に理解できます。
しかし法話は法話です。そこから感情的になってみても長老にとってはあなた私の話聞いてる?となりかねないのでは。
長老もそんなことは期待していないと思いますよ。

本題とかなり逸れてしまいますが、私もまったく同じとはいきませんが似た疑問はすこし持っています。

それはスマナサーラ長老の後に誰が長老と同じレベル、あるいはそれに近いレベルでこれからこの初期仏教を伝えられるのか?、広められるのか?という疑問です。

私個人はテーラワーダ仏教に出会ってから2年が経過します。
毎日瞑想修行を行っていますが、悟りは目指していません。
問題は自分が人格向上するのか否かだけです。

人にはいろいろな理解能力あります。
私に与えられた理解能力では悟りを目指す意味はないと判断しました。(瞑想やめるという意味ではなく)
言語化できないと長老も仏典も散々言っているのに悟った悟らないを気にする馬鹿らしさ。
この話そのものが、何の役にも立たないと思ったからです。
何の役にもは言い過ぎかもしれませんが、直接的な役には立たない。

人に私は悟ったんだよと偉そうにするくらいしか意味のない単語なら必要ないと思いました。

なので人格向上とは何なのか、なぜ必要があるのか、というところから私はスタートしました。

あなたはテーラワーダ(長老の教え)が伝わったのか?というところに興味があるのかないのか、誰かにそう頼まれているのか、はっきりとはわかりませんがもし個人としてその疑問を持たれたのだとすれば私はその視点はかなり危険と感じます。

傲慢と言い換えると角が立ちますから危険とします。

なぜかというと、それは伝えた者、あるいは仏陀以外の個人の認識能力で理解できる範囲ではないからです。
仏陀の時代に仏陀が死ぬと言ったからといって誰かが果たして仏陀の教えは正しく伝わったか?などの質問を起こせばその態度は仏陀以上に傲慢と言わざるをないと思います。

(だから仏陀は真理が先生だよと仰っていたのでしょう)

今日、仏教がはちゃめちゃ狂ってるのもこういった諸先輩の苦労の賜だと思います。

まさしくそれはジャッジメントの精神的立場です。

私はそういうことを蓮華様が本気で尋ねているとは思っていませんが、誤解される要素は多分にあると思います。
ましてや出会ったすべての人に尋ねて回るなど、守りたいという気持ちはわかりますがそれを知ったところで時間の無駄でしょう。
これは断言します。

まず伝わったとか、正しいとか、判断する主体が怪しいです。
長老ご自身が、俺の言ったことは伝わったんか?と1人1人調べることはできます。

しかし、第三者がそれを理解することは難しいと言わざるを得ません。
長老はあんたは私の後釜だから後は好きにやんなさいと言うことは決してないと思います。
真理が仏教の祖ですから。

なので日本人にこれは伝わったのか?という態度は間違えている可能性があります。
そこには知らないお前たちに教えてやってるんだぞ、という態度がちらちら見えますから。
そういうわけですから人にジャッジメントを仕掛けることは人を離していってしまう危険さえあるわけです。

だから質問そのものに危険があります。

長老もあなた分かりましたか?あたなはどうですか?と誰かに聞いてはいませんでしょう。

そんなことをあなたが気にしなくても長老本人は分かってると思います。
またあなたが知る必要があるのかという問題もあります。

テーラワーダのためにお前たちを審判する!と言っているように聞こえる人には聞こえるのです。
かなり危険でしょう?

そういうわけですから私のスマナサーラ長老の後に誰が?という心配も結構組織全体に対してそれなりに失礼な態度だとも思いますよ。
そもそも意味がない心配だとも思っています。

長老は既に数多くの質疑応答、意見、教えを提示しており私個人として困っている過程は今のところありません。

それは偏にスマナサーラ長老とそれに関わる皆様のおかげです。

長老だって1人の人間です。
1人ですべてが出来るわけじゃありませんよ。
そういった方々への感謝も大切ですよね。

今、ヘーマラナタ長老が仏陀の経典を実際に翻訳して進めていますがその内容には期待しています。
何しろ今あるパーリ語の翻訳はとにかく読みにくいですから。

正しい日本語の理解がなされ、より現代語に近い形で周知されることはこれからの仏教理解、後進育成に大いに役立つと思っています。

過渡期と仰いましたが、比較対象はたった30年ですよね。
テーラワーダの活動が続くのであれば終わってみないと何もわからないと思います。
それに物事には波というものがありますし、消滅という性質もあるでしょう。

ここが一番高い波かもしれないし、まだまだ序章に過ぎないかも知れない。
何もわかりません。

ですので、そのような過分な悩みに身を焦がし苛まれることなくご自身の人格向上を目指すのがよろしいのではないでしょうか。

長老は確かに偉大ですが、その賛嘆も過ぎれば偉業を穢すだけに思います。

皆様が幸福でありますように。






2025年04月04日 (金) 11時10分 No.6496
聖者のつぶやき - 青い蓮華
広く感想を求めましたが・・・結局、お二人だけでした。


感想は人によって様々ですので、便宜上、次の三つに分けます。
①は、一般の人の感想。
②は、有学者の感想。
③は、解脱直後の人の感想。


①一般の人の感想は、
分かり易かったですとか、スッキリしましたぁとか、納得しましたぁとか。
ときに「お元気そうで安心しました」とか、慈悲の姿を現すこともあります。
仏教に関心をもちはじめた人たちです。


②有学者の感想には、
無常・苦・無我など、これまでに学ばれた教理が出てくるのが特徴です。
ちなみに、学んでいる人、学ぶべきことがある人のことを「有学者」と呼んでいます。

仏教に強く関心をいだいているものの仏道を歩むことに躊躇している人と、一大決心して仏道を歩まれている人に分かれますので、有学者といってもまた様々です。

長老は「歳をとって楽しいんです」と話されました。
では「楽しい」とは何でしょうか?

悲しい、嬉しい、楽しい・・・

ぜーんぶ感情です。
以前長老は、感情の奴隷にならないように諭されたことがあります。

これらのことを思い出したときに、「えっ!」。
思い出してなければ、馬耳東風、馬の耳に念仏だったかもしれません。
あるいは、まだ学んでなかった事柄なので思い出さなかったのかもしれません。

とにかく「楽しい」は感情です。
ここで大きな疑問が湧きます。

長老が感情の奴隷になろうとしている?
まさか、そんなことはないはず??
じゃあ、どういうこと???

こうした素朴な疑問を、早合点することなく、みずからの課題として大切に温めてきたんですね。
1年、3年、5年。ものによっては10年、20年。

性急に答えを出そうとしても、それは無理なんです。
有学者が考えたこと、感じたこと、所詮、その有学者の殻の中での出来事だからです。
そのときは納得したつもりでも、うまく説明できたつもりでも、どこか法に適っていません。


③解脱直後の人はまた格別です。
「歳をとって楽しいんです」というのは、完熟した聖者のつぶやき=円満な境涯の吐露なんですね。
余生は遊ぶだけ、そう言い放つ聖者もおられますが、同じです。

「楽しむ」と聞けば、人生を楽しめばいいんだな、フツーこのように受け止めてしまいます。
「遊ぶ」と聞けば、人生遊べばいいんだな、フツーこのように受け止めてしまいます。
これが仏教?
言葉どおり文字どおり受け止められたのでは、誤解を招き、堕落させるに違いありません。

かといって無執着とか無常とか手放すとか○△とか、有学者がよくおっしゃるような、そんな理屈は付いてないんですね。

もう学ぶことがない無学者ですから、後は遊んで楽しむということがあるでしょう。
この域では、「遊ぶ」「楽しむ」が世間的な意味を持っていません。

解脱後間もない人は、この辺りまで分かりますが、まだまだ不安定です。


この手の法話を聞くに相応しい人というのがあります。
おそらく、少なくとも出家修行後6年以上経った辺りの人なのでしょう。
もちろん、解脱後間もない人への生活指針として有効です。<= こうやって後進を丁寧に育てます。
同様に、根本法門経の法話も、説き聞かせる相手を選びます。誰彼なしにということはありません。


今回、YouTubeにアップされたのは、
もう公開してもいいだろうと思われた「この時期」だったからなのかもしれません。

いずれにせよ、今生で聖者のつぶやきを聞けたこと、まことに幸運でした。
ありがとうございました。(合掌礼拝)
2025年04月14日 (月) 13時41分 No.6503


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