日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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いっぽいっぽ > 青い蓮華 - なみ - 
仕事のために、休みの日も仕事の勉強をしてもよいですか? - いっぽいっぽ
仏教実践を始めたばかりで、難しさを感じながら進めているものです。
仕事に必要な勉強についておたずねします。

少しITと関わる仕事をしています。
先日、任された仕事で知識不足を感じ、休日も勉強をする必要があると感じました。
これまでは仕事で必要なら、気持ちに関係なく、勉強することが必要と思っていましたが、
法話などを見て疑問を感じています。

心の中は、怒られたくないという恐怖と、しっかり仕事をしたい、という気持ちがあります。
こういった気持ちで勉強することは仏教としては良いのでしょうか?

また、心が悪ければ、何をやっても悪い結果になってしまう、という事について、
以下のような性格のため、法話を読むと自分はただしく判断する力が無い、と考えています。

性格的には何も興味がなく、休日も楽しくない。
すぐ怒りと妬み、いじめられるのではないか不安がつきまとっている。
方向違いの頑張りで疲労してしまうタイプです。
慈悲の瞑想や観察瞑想でほんのわずかな量、瞬間ですが、本当に怒りが収まる事が救いになっています。
慈悲の瞑想に苦痛を感じることもあります。慈悲が身につくまでは時間がかなりかかりそうです。

2025年02月11日 (火) 16時01分 No.6469
自分の殻を破る - 青い蓮華
>少しITと関わる仕事をしています。
所属部署の詳細は存じませんが、
あとから他の人が見ても、この人はきっと分かり易いプログラムを書くんだろうなって、
思わせる投稿文章でした。

>これまでは仕事で必要なら、気持ちに関係なく、勉強することが必要と思っていましたが、法話などを見て疑問を感じています。
悪い法話を聞きましたね。(*^ヮ^*)
というか、聞き間違ったのかもしれません。

問題は、「仕事」と「勉強」と「遊び」の境界です。
本来、区別はありません。

例えば、日曜日のアイススケート場に(客の)青い蓮華と(リンクボーイの)小谷さんがいます。
事実は、氷の上を滑走している姿があるだけです。
いやー小谷さんが転倒した人を助けてるじゃないですか仕事でぇー、って言うかもしれませんが、
多くの場合、常連客の方が発見が早いし、なんなら氷上で担架を押してますからね。(*^ヮ^*)

違いを探そうとすればするほど見誤りますので、そういうことはやめて、まず事実に着目します。
「男」とか「女」とか、「大人」とか「こども」とか、「仕事」とか「遊び」とか、
事実に、そういうラベルは付いていません。
氷の上を滑走している姿があるだけです。


>慈悲の瞑想や観察瞑想で・・・
以上の中に、いわゆる「慈悲」も「観察瞑想」も入っています。


>性格的には何も興味がなく、休日も楽しくない。
一緒にアイススケートに行きませんか?
友達にIT関連の青年がいるので、話が合うと思います。
先日、三原舞依選手とツーショットの写真を撮り、真央リンクの話をしました。
昨日、スカイラー海聖くんと友達になり、得意のダブルアクセルを目の前で見せてもらいました。
オフ会でフレンチ料理とかカラオケとか、ワイワイガヤガヤ楽しいですよ。(*^ヮ^*)


>仕事のために、休みの日も仕事の勉強をしてもよいですか?
おぼろげに解答が観えてきたんじゃないかと思います。

仏道修行といいますのは、自分の殻を破ることなんですね!
2025年02月18日 (火) 13時22分 No.6471
私の考え - なみ
以下、わからないことがあれば追って質問ください。
すべてがあなたにぴったり合っているわけではありません。
こういう考え方で気持ちが楽になるかもと思えばそうしてください。
軽い気持ちで聞いてくれると嬉しいです。

結論を先に言います、自分の感情を他人任せにすることはやめましょう。

>>心の中は、怒られたくないという恐怖と、しっかり仕事をしたい、という気持ちがあります。
>>こういった気持ちで勉強することは仏教としては良いのでしょうか?

しっかりという部分は仏教的に大変正しいと思います。
やるならしっかりやる。しかしそのしっかりというのは怠けや怒り、欲など感情を伴わないことで出来るしっかりです。
この仕事して褒められてやるとか、収入あげやるとか、評価を受けるんだというような気持ちでやるのはいくらしっかりやっててもしっかり欲の心が働いているので間違えてます。

怒られたくない、というのは焦りや恐怖ですね。
それは遠回しに怒りの感情です。
なのでこれは仏教的に正しくありませんね。
なので、心は微妙に流れる怒りにいつも晒されていることになります。

怒られたとしても私の感情には関係ありません、私は最大限の力を尽くしましたよ。
これでだめならどうぞ怒ってくださいという態度でいてはどうでしょうか。
怒られてそれを怒られたんだーと落ち込むのは自分の心です。
自分が自分の能力を尽くしたのならそれで十分ですし、そこに完璧などありません。
相手は完璧を望んであなたを怒るかもしれませんが、それはその人の精神的な問題です。
私は完璧にやりましたというのも態度がでかすぎ、おかしな話なんです。

怒ってるのはその人であってあなたが本来乗る必要のない問題なんですね。
それであなたという存在がその人にとってどうなのかが仕事になっているからつらいんだろうなと私は思います。

>>また、心が悪ければ、何をやっても悪い結果になってしまう、という事について、
>>以下のような性格のため、法話を読むと自分はただしく判断する力が無い、と考えています。

>>性格的には何も興味がなく、休日も楽しくない。
>>すぐ怒りと妬み、いじめられるのではないか不安がつきまとっている。
>>方向違いの頑張りで疲労してしまうタイプです。

心が悪ければ悪い結果になる理由を説明します。
環境を受け取るのは自分の感覚と心でしょう。
ですから、心に怒りや憎しみ、嫉妬、恐怖、焦りがあると環境が例え大富豪の悠々自適な生活だったとしても日々焦りや恐怖に苛まれるというわけです。(いつこの生活がなくなるのかと怯える)
この心を変えないと結果という現象、環境、現実はそのように認識できる。

ですから、悪い結果。悪いと判断しているのは自分でしょう?
本当はそんなものないんです。※正しい判断など存在しません。

従って、あなたを判断する人の態度によってあなたの心が怒りや恐怖に悪いと判断できるように染まるのならそれは他人の感情がすなわちあなたの感情になっているという状態です。

人は感情の奴隷という言葉で長老はまとめておられますね。
感情というのは生きていきたいという気持ちが親分です。
(※生きていける判断という意味で正しい判断とするのであれば、ぴったり感情の奴隷です)
ですが、あなたは今その他人の態度、他人の感情で動かされる人間ですから自分の感情、生殺与奪の権利を他人に委ねてしまっているということです。

それが普通ではないことはご理解頂けると思います。
他人に感情を握られているのに興味が湧いたり休日が楽しくなったりするでしょうか。
興味が湧くのも楽しいと思うのも感情でしょう?
でも、それを他人にあげているのはあなた自身なのが現実です。

あなたは他人から嫌われたら生きていけないと思ってしまう何かがあるのかもしれませんが、仕事がなければないなりにあなたの今の心にぴったりなところに流れていくだけです。

(ですから良い心を持ちましょうと教えてもいるのだと思いますよ)

まずはその心の恐怖を取り除きましょう。
そのためにはまず他人に自分の感情を任せることはしない。
恐怖や怒り、焦りや不安が出たらこの感情は私のものですと仕事に取られませんよ、
生きる気持ちに関係ありませんよという気持ちでいる。
それが答えだと思います。

仕事がなくなったら死んじゃうじゃないかと思うかも知れません。
ですから感情を差し出して生きることを選択しているのかもしれません。
でもその生き方はお嫌なのでしょう。
であれば今の仕事がなければ、この人の機嫌を取らなければという妄想は捨てることです。

瞑想で自分の感情を取り戻したときは心が落ち着くと仰っているのはそういうことだと思いますよ。
瞑想を続けていれば荒い感情そのものは小さくなっていくでしょうが、他人などという制御できないものに自分の感情を依存しないよう注意するのがよろしいかと思います。

【慈悲の瞑想について】

人はいつか死ぬのです。
私たちはその事実に向かって流れているに過ぎません。
私たちは無垢なる生命から互いの権利を侵し合ってきました。

あなたもまた侵害する側の立場でいたこともあったのです。
あなたが苦しいと思う分だけあなたもまた他人の感情を侵していたこともあったのです。
だからそれが正しいわけがないと思うのであれば苦痛を感じるのはなぜでしょうか。
なぜ善い気持ちになろうとすることが苦痛なのでしょうか。

自分が生きていけるのならどんなことでもするといって自分で自分を殺し始めていることに気づかないといけません。
どうか負けずに幸福を願ってください。
自分の幸福、他人の幸福、すべての生命の幸福。

あなたに幸福が訪れますように。
2025年02月23日 (日) 23時01分 No.6474


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